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正法眼蔵 弁道話 24

十八問答は続きます。

質問-10、答の続きです。
この世の中が常住(永遠であるという考え方)に立つならば、この世の中の一切は永遠の存在であり滅びる事のない存在であり、体も心も永久に滅びることはない。この世の中が寂滅(滅び瞬間的という考え方)に立つならば、体も心も、瞬間瞬間に滅びていくという事が言える。この様なことが実際であるにもかかわらず、体は滅びるけれども魂は永遠だという考え方は正しい理論に背いているではないか。単にそういう考え方が理論的に妥当でないというばかりでなく、釈尊の教えに従い我々の生き死にの人生そのものが涅槃(非常に落ち着いた最高の境涯)だと理解すべきである。涅槃はどこにできるかと言えば、我々の生活そのものの中にできるのである。

まして心(魂)が、体を離れて永遠の存在であると無理に理解したとしても、生き死にの問題を離れた釈尊の智慧にむやみに押し当てようとしても、この理解や認識を行う心そのものが、相変わらず瞬間瞬間に生まれては消えていて決して永遠の落ち着いた存在だという事は言えない。このことは、非常に儚いことではあるまいか。よくよく観察してみる必要がある。体と心とが全く一つのものであるという思想は、釈尊の説かれた宇宙秩序においては常に主張されているところである。それにも関わらずどうして、この体が生まれたり死んだりするときに、心だけが体を離れて生まれたり死んだりしないという事があろう。 

もし魂が体が死んだ後、そのまま残るという考え方をとるならば、体と心とが一致している時もあり、体と心が一致していない時もあるという主張になり、心身一如(体と心は全く同じもの)と主張された釈尊の教えは嘘になってしまうであろう。また、この我々の日常生活の生き死にというものが甚だつまらないものであって、それを乗り越えなければならないというふうに考えるとするならば、それは釈尊の教えを嫌う事になる、慎まないでよかろうか。
       
西嶋先生解説    
釈尊の教えは、我々の日常の生き死にを大切にして、それをどう生きるかという事が最大の眼目です。からこの僅か百年足らずの人生をどう生きるかという事を棚上げしてしまって、この百年ただずの人生はどうせ仮の人生なんだから、死んだあとでいいところへ行けばいいという考え方をするならばそれは釈尊の教えを嫌う事になる。

銘記せよ。
釈尊が説かれた世の中の一切が心であり魂であるいう考え方は、この我々の住んでいる途轍もなく大きな宇宙というものの一切が中身と外側とを区別することなく、中身も外側も同じように生まれたり滅びたりすることがないと主張するのである。我々が仏道修行をして真実を得たとか、非常に幸福な境涯に入れたという時点に及ぶまで、それはすべて我々の心がどう動きどう経過したかという問題であるという考え方である。一切諸法(この世の中にある一切のもの)、森羅万象(この世の中にある一切の姿)がいずれも、たった一つの心というものから生まれたものであって、その一つの心というものの中に含まれていないものは何もない。様々な事物が、きわめて平静な均衡のとれたたった一つのものから生まれてきたものであり、個々のものが少しも違うところがないと主張すること、これが仏教の立場から心(魂)を考えていく説き方である。

この様に心(魂)と言うものを中心にすれば、この世の中の一切が魂の所産だという事が出来るし、物質的なものだという考え方をすれば、全部が物質的なものとして理解できる。心だと考えることも、物質だと考えることも、見方としては決して間違っていないけれども、一つの考え方の中で心と体とを別々にして、心は永遠だけれども体は滅びるという考え方をすることは仏道ではない。しかるにこの唯一の実在に関して、体(物質)と心(魂)というものに分けて、我々の生き死にの生活と釈尊が説かれた幸福に満ち満ちた世界とを別々にすることがあってよかろうか。我々はすでに釈尊の弟子であるから、外道(釈尊の教え以外)の考え方を耳にしてはならない。

西嶋先生の解説
私も、若いころ初めて「正法眼蔵」を読んだ時に、ここのところに来てビックリした。それまでは、仏教というのは魂を尊重する考え方だとばかり思い込んでいた。 ちょうど私が二十歳を少し前、日本がこれからいよいよ大東亜戦争、第二次世界大戦に突入しようとして、国全体が精神主義に凝り固まっていた。 だから、個人の生命なぞは鳥の羽よりももっと軽い、お国のために尽くすことが大切だという事で一所懸命そういう考え方を朝から晩まで教えられた。 我々も「なるほど、そうかなあ」と思っておって「正法眼蔵」を読んだところが、いや、魂というのはそんなものじゃない、体と心は全く同じだと教えられてびっくりした。

それと同時に、仏教という考え方を勉強してみなきゃならんと思った。 当時、世の中の状況を見ると、各人、口で言う事は立派だ。「お国のために尽くさなきゃならん」「物資は私物化したらいかん、すべて国に献納して」いう事を言うんだけれども、現実に国家の偉い人がどういう事をやっているかというと、あるべきでない物資がどんどん上流社会に入って行って、楽な生活をしていると言う様なこともあったわけです。 そうすると、「魂というのは本当に当てになるのかなあ」という考え方もせざるを得なかった。 そういう時にこの「物心一如」の考え方にぶつかった。

なるほどこれは本当だ、物と心とは全く一つのものだ、そういう考え方が本当に正しいんだという事に非常に感銘を受けて、それからこの本を勉強するようになったし仏教を勉強するようになった。 それから40年たって、ますますそういう考え方の正しいことがはっきり飲み込めると同時に、世の中の人々が物と心とが一つのものだという考え方に目覚めてくると、世の中はもうちょっと落ち着くと思う。 ところがそういう考え方は非常に少ない。 今日でも物と心とは別だという考え方が非常に多い。

そして昭和20年、戦争が終わって以降、我々は物を大事にする時代に入った。だから「人生とにかく金だよ、金さえ貯めりゃいいんだよ、ちょっとぐらい悪い事をしたって、金を儲けた方がいいんだよ」と言う様な考え方がわりあい世の中に通用している。だから最近の裁判なんかで結構問題になっている偉かったと言われている人が、やっぱり金のためにちょっと躓いたという事があるわけです。だからそういう点では、物と心が全く一つのものだという事がわかってくると、この世の中の現実がわりあいよく見えるようになる。「きれい事ばっかり言っていて本当かな」という見方が出てくるし、また人間ぎりぎりの物質的な問題はしっかり処理しなきゃならんと言う様な問題もあるわけです。

我々の人生を現実的にしっかりと生きていくためには、物と心とを別々に考えないという事です。物と心とを全く一つのものとして考えることによって、我々の人生を現実的に考えることが出来るわけです。この現実的にものを見るというのが仏道です。釈尊は、決して霞を食って生きていくような呑気な話をされたわけではない。我々が飯を食ったり、着物を着たりという日常生活をどう送っていくかという事を教えてくださった。それ以外の事を教えられたわけじゃない。そういう現実的なものを基礎にして、世の中の事を考え、仕事を考え、自分の家庭を考えていくという事があって、初めて世の中は落ちついてくる。

人に話す場合には、とてつもなく高尚なことを言って、裏に回ると適当に欲張っているという事では世の中はうまくいかない。あるいは「世の中はものだものだ」という事で、各人が各人を押しのけて、とにかく自分のものさえ増やせばいいんだという事で血みどろの争いをすれば、お互いが傷ついて社会が治まりっこない。ところが現代では割合そういう事例が多い。力づくでなんでもとっていこうという考え方が強い。 そうすると米が有り余って困っているにもかかわらず「もっと作らせろ、もっと作らせろ」「買う値段はもっと上げろ、もっと上げろ」と言う様なことで大いに頑張る。

またそういう力で頑張ると、「選挙に負けちゃ大変だから、多少は面倒見なきゃならん」という考え方にならざるを得ない。 そうすると「やっぱり力だ、強い者勝ちだ」という考え方も出てこざるを得ない。 ただ、そういう強い者勝ちという事がガンガンと発展していけば、別の面で世の中は暗くなる。 勝つものは、きまっちゃうわけです。 だからそういう点では、金の力で権力を握ってしまったという事が永遠にそのまま維持できるのであれば、世の中は非常に暗い。ところが世の中案外うまく出来ておる。 半年や一年もたつと、「あれはちょっとおかしかったぞ」というふうなことが、社会のどっからかポツポツと出てくる。 「うん、どうもそういうのはおかしいなあ」という事がだんだん、だんだん輪を広げていって、ある時点になるとクルッとひっくり返る。 そこで初めて「ああ、あいつは間違っていたんだ」という事になる。

だからこの世の中というのは、非常にうまくできている世界でもあるわけです。 ずるいままでずうっと通していこうとしても、なかなか通らない。 時間がたつと、おかしな事をやっているとそのボロが出てくる。 そういう点では、案外正しいことが行われているという事が言えると同時に、我々自身の人生の生き方からすれば、早くそういう正しさというものを身につけて、あんまり波風の激しくない人生を生きるべきだ。 波風の激しくない人生というのは、自分の人生目的を達成するための最短距離を行くことだ。

ところが我々は大抵、横道をあっちこっちウロウロして「ああ、また失敗した」「今度これやってみよう」「また失敗した」と言う様なことで、波乱万丈の生活を送っているうちに百年間の割り当てが終わっちゃう。 だから百年間の割り当てが終わらないうちに、何とかしなきゃならん。 百年間の割り当てをなるべく自分自身のこうしたい、ああしたいという人生の希望を遂げ得るように送っていかなきゃならん。 じゃそのためにはどうしたらいいかという事が仏道修行。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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