トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 弁道話 23

十八問答は続きます。
次の質問は魂の問題です。仏教という思想を考える場合、死んでから魂はどこかへ行ってまた生きる続けるという考え方が多い。仏教と言うのはそういう考え方を信じているから、お葬式を出すときには、お寺さんが来て、お経をあげてくれる。お経をあげると迷っている魂がどこかにちゃんと落ち着いて成仏するという信仰が非常に強い。ところが道元禅師は、仏教の考え方はそういう考え方ではないということを非常にはっきり持っておられた

質問-10
ある人の言に、「我々は生きたり死んだりと言う人生を送っているけれども、その生き死にの人生を嘆く必要はない。なぜかと言うと、生き死にの人生というものから抜け出すのに、非常に早くそのことを達成できる方法がある。それはよく言うところの霊魂不滅の理論が理解出来ればそれで済むことだ。霊魂不滅の趣旨とは、この体は現に生命を持っているのであるから、どうしても死を避けることは出来ないけれども、体の中にある魂というものは決して消滅することがない。この生まれたり死んだりすることのない魂が、自分の体の中に存在する事を知ったならば、この魂こそ本当の自分の実体であるから、肉体は仮の姿であり、此処に死んで彼処に生れる等その現れ方は恒常性がないけれども、魂は消滅しないものであり過去・現在・未来にわたって不変である。

この様な理屈のわかることが、我々の生き死にの人生を超越した事だという事が出来るのである。そしてこの様な基本的な考え方がわかってくると、今までの生き死にの人生に関する問題は全く消滅してしまって、この肉体としての体がその終わりになった時には、魂だけが魂の世界に入る。そしてその魂の世界に入って行ったときには、沢山の真実を体得された方々と同じように、素晴らしい徳というものがまさに具わるのである。現在にあっては、この体の中には魂があって、体が死んだ後も死なないという理論を知っているけれども、体が過去の出鱈目な行動によって形成されたものであるから、真実を体得された沢山の方々と同じではない。いまだこの理論がはっきりとわかっていない人は、長い間にわたって生き死にの生涯を何回も何回も繰り返すのである。ただただ急いで、魂というものが決して滅びるものではないという思想をはっきりと理解すべきである。むだに坐禅の様な事をやってぼんやり坐って一生を過ごすことに何の期待が持てよう」と。

この様に我々の体の中には魂と言うものがあって、体が死んでも魂が生き残るから心配がないという説明をする人がおりますけれども、この人の言っていることは本当に釈尊や真実を得られた諸先輩の説かれた教えに適っているのでしようかどうでしょうか。


今言われたところの考え方は、釈尊の説かれた教えとは全く別である。魂が生き残るという思想は、仏教以前に盛んであった外道(婆羅門僧)の考え方である。すなわち外道(仏教以外の教え)の見解では、自分の体の中には一つの魂と言うものがあり、その魂というものが、外界の世界に出会うと、食べ物を食べれば美味しいものとまずいものの見分けがつくし、これはやっていいこと、これはやってはいけないこともわかる。痛いとか痒いとかということもわかるし、苦しい、愉しいということもわかる。これらは皆、我々の体の中にある心と言うものの力である。この魂(心)は、この体が消滅する時、体から抜け出し別の世界に生まれるので、現世では死んだ様に見えるけれども、別の世界において生まれるという事から考えれば、永遠に消滅することがなく永遠に生き続けるものである。かの外道の考え方はこの様である。

しかるにこの様な考え方を勉強して、これが釈尊の説かれた教えであると考える事は、瓦や小石を握ってそれが金の宝だと考えるよりもさらに愚かであり、これを何かに例えようとしても例える事が出来ないほど愚かな例である。唐の時代の慧忠国師は、このような考え方は仏教ではないという事を深く戒めている。魂は滅びることがなく、体は滅びてしまうと言う誤った考え方を持って、釈尊以来沢山の真実を得られた方々の把まれた宇宙の秩序というものと同じだと考え、生き死にの根本の原因を発生させる考え方を持って、しかもそれによって生き死にの悩みから離れられたと考えることは非常に愚かなことではないか。はなはだ哀れなことである。

霊魂不滅の考え方は、釈尊以外の教えを奉じている人々の誤った考え方であると知るべきであり、耳に触れてはならない。しかしながら、すでに誤った考え方に陥っている事態はやむを得ないので、そこで今慈悲の心を持ってお前方の誤った考え方を救う、ならば銘記せよ。釈尊が説かれた宇宙の秩序においては、本来、肉体と魂とはまったく一つのもの(身心一如)であり、中身と外側も一つのもの(性相不二)であると主張することが、インドにおいても、中国においても同じように知られていたところであって、これに違背してはならない。
            答の続きは次回で・・・。

西嶋先生解説
この「身心一如」「性相不二」と言う考え方が、仏法の理解の上では非常に大切な事であります。沢木老師がよく講義の中でいわれたことに「人間がアカンベ-をする事と、合掌する事とは違う。アカンベ-をやった時にはアカンベ-をしたような考え方になるし、合掌した時には合掌したような考え方になる。体と気持ちと言うものは全く同じもんだ」ということをしきりに言われた。だからそういう点では、よく街中などでいかにも肩を怒らして、いわゆる与太者風に歩いている人を見かけるけれども、ああいうふうに歩いている人と言うのは、心もそうなっている。「様子がおかしいけれども、あれはほんとは真面目なんだよ」と言うわけにはいかない。人間のやることによって気持ちが決まる。だから中身と外側とは全く同じだということ。

これは世の中の問題を考えていく上に置いてかなり大事な事。「あの人は気持ちは善いんだけれども、どうも態度がよくない」ということをよく言うけれども、態度が悪いということは、心も悪いということ。また態度がいいという事は、心がいいというこ事。「あいつはどうもおべっか使って、ペコペコペコペコ調子ばかり合わしているけど、あいつは腹が黒いんだよ」と言う見方もあるけれども、必ずしもそうではない。人間がどういう外側の体裁をとるかということがかなり問題になるし、また気持ちが正しければ体が自然に正しい方に変わっていく、そういう問題もある。

身心一如」「性相不二」ということは、仏教的な考え方をする場合には、非常に大切な考え方であります。ところが世間一般ではこういう考え方をしない。心と外側とを別々に分けて、「俺は態度は少し良くないけれども、気持ちは純真なんだ」ということを各人が思っている。あるいはそうかと思うと、「どうせ世の中なんて狡いものが勝つんだから、外側さえうまくやっときゃいいんだよ」ということもある。ただそういうことで世渡りがうまくいくかと言うと、長い目で見ると、中々うまくいかない。そうしてみると、中身と外側とを一致させて、一所懸命毎日やるということにならざるを得ない。


ご訪問ありがとうございます。
ランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

  
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

FC2カウンタ-