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正法眼蔵 弁道話 22

十八問答は続きます

質問-8
奈良時代、平安時代に仏教を広めたたくさんの師匠は、いずれも中国に行って釈尊の説かれた宇宙の秩序をわが国に伝えて来たわけですが、どうして坐禅が仏教の中心であるという思想をさしおいて、ただ抽象的な教義だけを伝えてきたのでありましょうか。
  
西嶋先生解説  
道元禅師が生まれたのが鎌倉時代の初期 。奈良時代にもたくさんの僧侶が中国に行って仏教を持ち帰って来ています。平安時代になると、伝教大師(最澄)が中国に行って、天台宗を日本に持ち帰り、比叡山を開いて延暦寺を建てました。弘法大師(空海)も中国に行って、真言宗を日本に伝えました。


当時の師匠が、この坐禅の修行法を伝えなかったのは、時期がまだ到来していなかったためである。 

質問-9
あの奈良朝・平安朝時代の師匠は、この坐禅という修行法を理解していたのでありましょうか。
 

もし理解していたならば、伝えたであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
我々は百年ぐらいしか生きないわけですね。人によっては自分の子供や孫にまで好ましくない影響を及ぼすと言う様な例もありますが。まあ情けない話ですけれども、そんな点はどんなふうに考えたもんでしょうか。

先生
そういうふうな考えはあり得ると思いますね。自分自身は消滅していくわけですけれども、しかし子供、孫の形で残っていくと言えると同時に、我々自身がもう無限の過去からの生命の繋がりですよね。我々は両親から生まれたことは間違いないんだけれども、その両親もまたさらにそれぞれの両親から生まれているわけです。その前もまた同じと言う様なことになると、我々の祖先というのは一体どの辺で終わりになるかというと、全然終わりにならん。

ダ-ウィンの説によれば、アミ-バのところまでさかのぼらなければならない。各人、誰でもそうです。我々はふつう自分の親、せいぜい爺さん、婆さんぐらいまでしか頭の中に残っていないけれども、各人の生命は無限の生命。だからそういう点になると、子供として残っていくというふうなことも、一つの考え方であると同時に、またそれが子供として残らなくても、自分自身が過去からの永遠の生命を担ってきて、百年たらずの生涯を一所懸命生きたという事実、これは永遠に残る事実。永遠のフイルムの中に刻み込まれるという事が言えるわけです。だから我々の人生というのは、子孫が残ろうと残るまいと、我々の一生は永遠だという事も言えるわけです。
                                 
質問
そうすると、あまり死んだ先のことまで考える事ないですね。

先生
ええ。人間というのは死んだ先のことまで考えるなんて能力はないんです。自分で考えてるツモリになってるだけで。(笑)

質問
そうすると、現在の一日一日を一所懸命にやっておればよいという事になりましょうか。

先生
ええ。 だから我々の人生というのは、与えられた瞬間を一所懸命に生きる以外に手はない。 その事は、はっきり認識するかしないかが大事なところ。 ところが我々は、普通そうは考えない。 「そのうち金でもためて、立派な家でも建てて」と言う様なことを考えるわけです。 「地道なことをやってては、中々それはできないから少しずつずるい事をやって」という様な事を考えるわけです。 しかしそれは考えているだけの事で、我々に与えられた瞬間を、忠実にコツコツ、コツコツ生きていく以外に我々の人生というのはない。

だから我々の脳細胞はいろんなことを考えることが出来るから、将来、死んでからどうなるだろうと言う様なことを色々心配するけれども、自分の頭の中で心配しているだけで、本当の将来が考えられるかと言ったら、そんなのは全然考えられない。 考える能力がない。 自分で考える能力があると思って、一所懸命に悩んでいるだけ。 それが実情だと思う。

質問
非常に皮肉な見方の様な気も致しますが。

先生
いや、しかし事実はそうだ。(笑い) 我々の思考能力というものは、そういう線までは及ばないんですよね。 だから仏教で「却下を照らせ」、足元を見つめろと言うのはそういう事。 「死んでからどうなりますでしょう」って言うんで心配したって、それは頭の中でエネルギ-が活動しているだけのもんで、現実の問題とは全然関係ない。だからそれよりは、自分の足元を見つめて、いま何をするかという事を考えるべきだという事にならざるを得ない。 ところが中々そういうところに到達しにくいんですね。 我々の常識的な考え方からすれば。

一所懸命仕事をするよりは、寝転んで「さあ、金もうけの口はないかな」と思って考えている方が楽だし、その方が我々にピッタリしているという感じもあるわけです。 だけれども、我々の人生とは、それほど呑気なものではないというのが釈尊の教え。我々の人生は、瞬間瞬間どんどん、どんどん、蝋燭が燃え尽きていくみたいに割り当てが減っていくわけだから、その割り当てが減っていくという事実を見つめて、じゃどう生きなきゃならんかという事が仏道修行という事ですね。 だから仏道修行とは、非常に常識的なごく当たり前の教えだという事です。

ところが我々は、普通は、ごく当たり前の事実というものを見つめないで、うわの空で色んな事を考えて、喜んだり悲しんだりして、割り当ての100年を終わってしまうわけです。 まあ早い人は、5、60年で終わりになるし、いつ終わるかわからない。 私でも、明日死ぬかもしらん。 人間の生命とはそういうもの。 「あと10年は大丈夫」なんてわけにいかない。 そうかと思うと、ウロウろしていると、20年も30年も生きるかもしれない。


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コメント
471:管理人のみ閲覧できます by on 2015/08/08 at 00:09:29

このコメントは管理人のみ閲覧できます

472:Re: 仕事の話 by 幽村芳春 on 2015/08/08 at 22:55:52

正田さん、コメントありがとうございます。

坐禅が日常になったとの事。西嶋先生は一人でも坐禅をする人が増えることを願っていました。
これからもブログ読んでくださいね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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