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正法眼蔵 弁道話 21

十八問答は続きます。

質問-7
この坐禅という修行法は、釈尊の説かれた宇宙の秩序を理解していない人が坐禅をし修行をして、そのさとりを得ると言う事であろう。しかし、すでにさとりを開いてしまったならば、坐禅によって何を期待することがあろうか。
   
西嶋先生解説
今日、坐禅をやる宗派が三つあります。
1・臨済宗と言うのは、鎌倉時代初期に栄西禅師が始められた宗派で、坐禅というのは、さとりを開くためにやるという考え方。だから公案を使って、「早くさとれ、早くさとれ」と叱咤激励し、悟りを開く事を一所懸命やる。2・曹洞宗と言うのは、鎌倉時代の初期に道元禅師が始めた宗派で、坐禅というのは、坐禅をしているその時がさとりだという考え方。だから私たちが坐禅を始めた瞬間から悟りの状態に入るのだし、坐禅をしている我々自身は仏に他ならないという考え方をする。3・黄檗宗と言うのは、徳川時代初期に中国から来られた隠元が始められた宗派。坐禅の考え方は臨済宗に似ています。


愚かな人の前で夢を説くと、愚かな人はその夢を本当の事と思い違いをしてしまう。だから愚かな人の前で夢を説いてはいけない。また山の中で木こりをしていて、海を見たこともない、船に乗ったこともないという人を船に乗せて棹を与えて「さあ舟を漕ぎなさい、さあ舟を動かしなさい」と言っても、それは非常に危険なことである。だから「さとった人は坐禅の必要がないのではないか」という疑問が出てくる人に対しては、返事をすべきではないのかもしれないけれどもさらに教えを与えよう。

坐禅をする事とさとると言うことが別々にあって、一所懸命坐禅をして「さとり」に到達しようとするのは釈尊の教えではない。釈尊の説かれた宇宙秩序においては修証一等(坐禅をする事とさとりを開く事は全く同じ)である。坐禅は坐禅を始めた時からさとっている。そういうすでにさとった状態における修行であるから、ほんの初心者が始めた坐禅と言えども、まさにそれが本来のさとりのすべてである。

この様な理由から、師匠が弟子に修行の心得を授ける場合にも、「修行の他にさとりがあると考えてはならない」と教えている。それは、坐禅をすることは、直接の指摘そのもの、直接のさとりであるがためであろう。坐禅をして長い年月が経ったらさとるのではなくて、坐禅をする事に意味がある。坐禅というものは、修行とさとりが全く一つのものになっているのであるから、さとりが限定されたものではなく、無限の内容を持ったさとりというものが我々のやっている坐禅そのものの中に含まれている。

この様なことであるから、釈尊も迦葉尊者も同じように、さとりの真ん中における坐禅を毎日やられた。インドから中国に坐禅を伝えられた達磨大師も、中国における六代目の指導者大鑑慧能禅師も坐禅に導かれて坐禅を拠り所して日常生活を送った。釈尊の説かれた宇宙秩序の中に住まいそれを保持する人々の事蹟というものは、いずれもこのようである。すでに坐禅という形によって、さとりと別のものではない修行が現在我々の身近にある、手の内にある。我々は幸いにして、坐禅という素晴らしい修行の一部分を釈尊以来一系に伝えてきたところの初心者ではあるけれども、すでにそういった意味の坐禅をしているのであるから、自分自身がやっている坐禅によって、本来のさとりというものの自分自身の部分を、きわめて自然な境地の中で体験しているのである。

銘記せよ。
修行と一体になったさとりと言うものは、坐禅を頻繁にやる事によって修行とさとりとが別々でないという事がはっきり身につく。釈尊あるいは仏教界の諸先輩は、坐禅はあまり間をあけずに一所懸命やるようにとしきりに教えられた。坐禅を終わって立ち上がるならば、坐禅によって得たところのさとりが自分の中にいっぱいに満ち溢れている。坐禅を終わってさとりの境地から離れようとするならば、さとりは我が身から離れることなしに、坐禅をやった効果が体全体に行き渡る。

また自分自身(道元)が大宋国に行って、自分の目で見たところによれば、諸地方にある坐禅を中心とした寺院がそれぞれ坐禅堂を建てて、五百人、六百人、あるいは千人、二千人の僧侶を住まわせて、夜となく昼となく坐禅をやることを勧めていた。そして、その寺院の最長老であり釈尊の心と同じ心を伝えている師匠に釈尊の説かれた宇宙秩序の中心的な意味を尋ねたところが、修行とさとりとが別のものではないという根本思想を話された。

この様な理由から、寺院の師匠のもとで勉強している門下の人だけでなしに、釈尊の説かれた宇宙秩序を求める高遇な人々、釈尊の説かれた宇宙秩序の中に本当のものを見出しそれを得たいと願う人々は、初心者であろうと、後輩であろうと、平凡な人であろうと、さとりを得た聖者であろうと、釈尊の教えに従って坐禅をやり修行をすべきであると勧めている。過去における大先輩である大鑑慧能禅師も言われているではないか。「修行と悟りと言うものとがないわけではない、ただそれを二つのものに分けて、別々に考えるという事があってはならない」と。また別の人が言われている。「坐禅をやってみて、坐禅のよさがわかって来ると、坐禅をやらずにいられないという境地になる」と。
銘記せよ。坐禅をして真実を把握した人と言えども、さらに修行(坐禅)をしなければならないという事を。

西嶋先生解説
坐禅と言うものの本質を考えていく場合に、修行とさとりと言うものとが全く一つのものだという思想が、道元禅師の坐禅に対する考え方の非常に大きな特徴であります。だから我々のやっておる坐禅が、さとるために公案と言うものを使って「早くさとれ、早くさとれ」と言う様な形での坐禅ではない。我々のやっている坐禅は、坐禅をしていることそのものに意味があるということで、毎日欠かさずやる努力をするということになるわけであります。

このことが坐禅と言うものを考えていく場合にかなり大事な問題。ふつう坐禅と言うと、よくさとるためにやると言う様な事で、お寺へ行って、粗末なものを食べて、夜も寝ないで、棒で叩かれて「そのうちさとるんだ」と言うふうな事を考えているけれども、そんなものではない。ところが、だいたい坐禅と言うものについてはそういう誤解が多いから、「じゃ、たまにやってみようか」と言って寺に行って一所懸命やるんだけれども、和尚さんの言っていることはチンプンカンプン。「他の人は悟ったてな事を言っているけれども、私はどうも全然わからん」と言う様な事で、がっかりして帰ってくる。一所懸命やっているんだけれども、「どうも結局わからんからやめた」と言う様な事で、坐禅と言うものに対する誤解がはびこっておる。

そういうものだというふうに世間一般から思いこまれているから、坐禅をやってみようという人がなかなか出てこない。バカらしくてやれないということにもなるわけです。ところが坐禅をやることそのものが尊いんだという考え方になると、今度は「さとり、さとり」なんて言って焦る必要はない。やりさえすればいいんだということになってくれば、そのことが日常生活の基準になり、楽しみになるということがあるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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