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正法眼蔵 弁道話 20

十八問答は続きます。

質問-6
仏教徒(釈尊の教えを学んでいる人)はどの様な理由から、四儀の中で、なぜ坐禅という坐ることだけに限って勧めて、それによって仏道に入ると言う事を主張するのか。
       
四儀(しいぎ)とは、我々が日常行う行動を、その形によって大まかに四つに分ける。
(歩く、走る、動く)・(立ち止まる)・(坐る)・(寝る)


昔から今日まで真実を究められたたくさんの方々が仏道に入って行かれた方法は、いろんな方法によって入っていかれた。だから、特に我々が坐禅を中心にして仏道修行をするのはなぜかと言えば、昔から仏教を学ぶ多くの人々が坐禅によって仏道に入った事に理由を求めるしかない。それ以外に理由を求めてはならない。

しかしながら、仏道の先輩が坐禅を褒めて言われた。「坐禅はすなはち安楽の法門なり」と。そこで考えてみるに行・住・坐・臥という四つの行動の形の中では、坐るという形が安楽で苦痛のないためであろうか。まして坐禅は一人、二人の真実を得られた方々が修行したという事ではない。多くの真実を得られた方々や多くの先輩方が、いずれもこの坐禅という修行法によって仏道を修行された。したがって坐禅というものが行・住・坐・臥という四つの形の中で一番に推奨されると言う事になるのであろう。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師はサンガ(僧の集団)としての、永平大清規とか規律を重んじられましたね。良寛さんや山頭火みたいなのが、禅と言うのか、あるい規矩に沿った生活をきちっと機械的にやっていくというのが、僧の生活なのか、その辺がどうもよくわからないんですけど・・・・。

先生
今の質問、問題が二つあると思うんで、一つは寺院で規則をきちっと守る事と坐禅とどういう関係があるかということ。もう一つは山頭火とか、良寛さんの生き方と、それから寺院なり、社会生活との関係はどうか。こういうことの二つだと思うわけですが、最初の問題については、坐禅をやった心境から生まれたものが規則なんです。永平清規と言うのは坐禅から生まれたんです。そのことはどういうことかと言うと、坐禅が終わって僧堂から出た、その坐禅をやった時の気持ちなり体の状態が残っておれば、履物をきちんとそろえるとか、人に出会ったら会釈をするとか、自然にそうなるという関係ですよ。だからきちっとやるのと坐禅とはどうも性格が違うじゃないかということじゃなくて、むしろ坐禅を徹底的にやれば、規則正しい日常生活を送るということにならざるを得ない。だから永平清規と言うものと坐禅の体験とは全く同じものだ。同じものから出てきた、同じものでしかないということが言えると思います。

次の問題として、良寛さんとか山頭火をどう考えるかという問題だけれども、私は山頭火と言う人はよく勉強していないけれども、チラッチラッと山頭火の俳句を読んだり、人のしゃべるのを聞いていて、あの人は人間失格じゃないかと言う捉え方をするね、正直言って。たとえば太宰治の小説ね、私はこれもあんまり読んでないけど、ほんのちょっとあの人の小説を読むと、何か奈落の底に引きずりこまれていくような、どうにもならないような破滅型のあれなんだな。ああいうことが人間の望ましい形かどうかということになると、私は非常に疑問に思う。山頭火にしてもそういう点で、ちょっと甘えがあるんじゃないかという感じを持つしね。

ただ良寛さんについては、良寛さんの生きた時代と言うのは封建社会なんだよね。で、あの人は出雲崎の名家の息子で、若い時に跡取りをさせられるわけだよ。ところが非常に純粋な人だったから、賄賂なんか使う手を知らんわけだな。そして、次に位する家柄のところに、例えば商業の管理や何かを取られちゃうわけ。良寛さんはそれが残念とか、俺はもう一旗揚げようという気を起こすよりは、ああいう連中と一緒にやるのは嫌だという感じを持ったんだろうね。だから出家の動機と言うのも、そういうことと関係してくるかもしれない。

それで、封建社会との関係からすれば、我々は今非常に恵まれた社会に住んでいるわけでね、封建社会と言うのはとにかく「おぎゃ-」と生まれたら、もう一生その社会的立場がついて回るわけだから。そうすると多少人間らしい生活をしようとすれば社会生活を外れざるを得なかったのかもしれない。あの時代には。だからそういう点では、良寛さんなんかの生きた時代と言うのは現代とは若干違う様な気がするな。

質問
いま先生がおっしゃる様に、坐禅をやってればおのずから戒律に伴う行動もとれると思うんですけど、ただサンガとしての社会生活を営むために、一つにはそういう体系が出来たんじゃないかということ、禅と言うものはやっぱり自由を求めてると思うんですよ、心の中の自由と言いますかね。

先生
うん、そこが一つ問題なんだな。それで坐禅と言うのは、自由を求めているだけではないんだな。不自由も求めてるんだな。と言うのは、我々の望ましい姿と言うのは、自由だけではとてもかなわないんだよ。不自由もなきゃいかん、不自由と自由と両方、共在するところに法(宇宙秩序)があると考えていいと思う。だから単に「自由だ、自由だ」ということで、駅のベンチで明け方まで寝てしまう様な、ああいう形だけが人間のあり方として本当に望ましいかどうかという問題がある。だから坐禅と言うものが求めるのは自由だけでもない。不自由も求めるんだと。自由とも、不自由ともレッテルの貼れないものを求めるということがあると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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