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正法眼蔵 弁道話 18

十八問答は続きます。

質問-5
三学
(戒・定・慧)のなかに定学があり、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅那・智慧)の中に禅度があり、これらはいずれも実践を通して真実を得たいと思って一所懸命努力する人々が、その初めから学ぶところであり、頭のよい人、頭の悪い人の区別なく実際に修行するところである。そしていま我々がやっている坐禅も、三学の中の一つ、六度の中の一つであろう。どういう理由から、この坐禅の中に釈尊の説かれた正しい教えと言うものがすべて含まれていると主張するのであろうか。

※西嶋先生解説
仏道をどのように勉強していったらいいかということで、釈尊が三学(戒・定・慧)を説かれた。と言うのは戒律。釈尊は人を殺してはいかんとか、盗みをしてはいかんとか、嘘をついてはいかんとかと戒律を定められて、それを弟子たちに実践させた。そういう点では、仏教と言う教えは、正しさを追求する教え。今日の様に世の中が正しさの基準を失って、強いもの勝ち、ずるい者勝ちと言う形でやっさもっさやっておると、社会全体が動揺して、各人が息苦しくなってくる、それでも我慢して生きていかなきゃならんと言うのが、今日の時代ではなかろうかと思う。そうすると各人が正しさと言うものを勉強して、自分の本分を守る、あるいは人の領域を侵さない、というふうな形が出てくると、初めてそこで社会が落ち着いてきて、社会の能率と言うものが向上するわけです。だからそういう点では、やっていいこと、やってはいけないことを決めて、それを実践するというのが、釈尊の教えの一つ。そういうやっていいこと、やって悪いことということの教えとして戒律がある。これを守れというのが釈尊の教えの一つであります。

と言うのは安定。体の安定、心の安定。我々が坐禅によって得るものは、体の安定、心の安定。体が安定しておる、心が安定しておるということであれば、どんな事態が来ても、そうビクビクすることはない。ところが体が安定していない、心が安定していないとなると、ほんの僅かな事でも、ビックリ仰天して慌てなけゃならん。あるいは非常な恐怖心を起こして、逃げて回るということもあり得る。だから人間が普通の行動を取れるか、取れないかと言うのは、体が安定しておるか、心が安定しておるかという事と非常に関係がある。そういう点で、釈尊は安定ということを言われた。それが定であります。

と言うのは、智慧ということ。智慧と言うのは、体が安定している時に、心が安定している時に、生まれて来る考え、それを智慧と言う。だから安定と言うものは、体だけの問題ではなしに、心の問題としても重要だということで、智慧と言われた。この戒・定・慧と言うのが、釈尊が説かれた、仏教徒が学ばなければならない三つの道ということになるわけであります。その中に定と言うのがある。坐禅も、禅定と言われていて、定と言うものが三学の中にあるけれども、その定と言うものと坐禅との関係はどうかという事がここで説かれているわけです。

六度の度と言うのは、パ-ラミッタと言う梵語の意味を漢字に直したもの。度と言うのは渡るという意味。行事でお彼岸と言うのがあるけれども、あれは向こうの岸と言う意味、真実の世界と言う意味。そっちへ渡るというのが度ということ。漢字の音に直すと、波羅蜜と言う。波羅蜜と言うのは何かというと、真実の世界に行く方法ということ。真実の世界に行く方法にどんな方法があるかと言うと、それを六種類考える。六種類の波羅蜜は何々かと言うと、布施は貪らないこと、人にものを与える事。持戒は戒律を守ること。忍辱は感情に走らず我慢する事。精進は一所懸命努力をする事。禅那は坐禅のような方法によって、自分の体を安定させること。智慧はその安定した体から生まれて来る正しい考え方。この布施・持戒・忍辱・精進・禅那・智慧を六度と言う、六つの真実に到達する道と言う意味であります。



           ―西嶋先生の話―

「正法眼蔵」という本は非常にありがたい本で、我々の日常生活に関するごく細かい問題についても、こういう問題はどうしようかという疑問に対しては、どっかの箇所でそれに対する回答が与えられているという事があるわけです。 だから、我々がこの本を読んで、隅から隅まで意味がとれるようになると、一生、この本一冊があれば、どんな問題もけりがつくという事があるわけです。 その点では、難しい本ではありますけれども、この本を読みこなすという事は、一人一人の人生にとって非常に大きな意味がある。

我々の人生と言ってみても、いくら長く生きても百年前後、大抵は数十年で終わりになる。 という事は我々に与えられている時間は、無限に与えられているわけじゃない。 割り当てというのはせいぜい百年。 その割り当てられた百年の時間というものは非常に貴重。 それをどう過ごすかという事がかなり大事な問題となるわけです。 我々は普通その人生に対して波乱を求める。 非常にいいことを希う。 ところが、その非常にいいことを希うと、人生には必ず裏目がある。 そうするといいことがあったり、悪いことがあったりする。 波乱万丈の人生が望ましい人生であると、たいていの人は考えている。

しかし仏道ではそういう考え方をしない。 あんまり高い波もないように、あんまり低い波もないように、海の水平線のように、高低のない、きわめて静かな、一直線の人生が望ましいと考えている。 だけれども、普通常識的にはそういう考え方をしない。 簡単な例を言えば、この世の中にはいろんな楽しみがある。 高尚な楽しみもあれば、そうでない楽しみもある。 金が欲しい、財力が欲しいというんで、各人が一所懸命努力をするわけだけれども、うっかりすると競馬、競輪というふうなものをあてにしがちである。 そして馬券なり車券を買って、レ-スが終わるまでは、自分の買った馬券が必ず来ると思っている。 で、ハラハラ、ワクワク「そのうち来る、そのうち来る」「あ、やっぱり来なかった」という事で、悔しがって馬券をちぎって腹を立てるという事をやるわけだけども・・・・。

この世の中で競馬とか競輪とかの最大の名人がいる。 それは何かというと、国家とか、県とか、市とか、競馬・競輪を主宰している団体。 これは馬券の売り上げが入ると、何割かの金はゴッソリ自分の懐へ全部入れちゃう。 あと残った二、三割の金を分け合って、誰の券が来た、誰の券が来ないという事で争うわけだから、どんな競馬の名人、どんな競輪の名人でも、国や県には絶対に勝てない。 そういう仕組みになっているにもかかわらず、自分の買った券で何とかして大穴を当てようという儚い望みを持ってやっているわけです。 えてして世の中にはそういう波乱を求めて、その結果裏目に出るという場合が非常に多い。 だからそういう人の帰りの様子を見ると、皆、酒に酔っぱらっている。 勝った者も負けた者も全部酒に酔っぱらって、電車の中でも、「あれはこれでよかった」「もうちょっとのとこだ」と言う様な、残念話ばかりして帰って行く。 そういう浮かれた気持ちも楽しいかもしらん、人生が楽しいかも知らんけれども、そういう浮かれた気持ちの裏側には必ずマイナスがある。

家へ帰ると、今朝持っていった金をみんなスッてきちゃったという事で文句を言われる。 派手に派手にという努力が、地味に地味にという方に否応なしに行ってしまうという事もあり得る。 そうすると我々は、本当に腹を据えて、どういう生き方をしたらいいかという事を常に考えていかざるを得ない。 人生わずか数十年、せいぜい百年の割り当てをどういうふうに生きるかという事、これはかなり大切な問題なわけです。 そういう問題についてじっくり考えておれば50、60になった時に、自分の積み上げた人生が非常に幸福なものとして戻ってくる。 だからそういう点では、どういう生き方をするかという事が我々の生活にとってはかなり大切です。 したがってそういう点では、「正法眼蔵」のような本を勉強していくことが、一人一人にとってかなり大切な事というふうに考えざるを得ない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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