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正法眼蔵 弁道話 17

十八問答は続きます。

質問-4、答の続きです。
ところが、釈尊以来一系に正しく伝えられてきたところの坐禅を中心とした門下にあっては、いずれも真実を得、釈尊と同じ境地を体験した優れた師匠を尊敬して、その師匠に釈尊の教えを保持し安住するという事をゆだねている。そして陰陽二道の神道を学ぶ人々も仏道に帰依し、また仏道修行をしてある程度の仏道の成果を体験した阿羅漢たちも来て、釈尊の教えを学ぶに当たり、それぞれに対してその心境を解明する手段を与えないという事がない。この様な例は、ほかの宗派ではまだ聞いた事もない事柄である。ただし釈尊の弟子たるものは、ひたすら釈尊の説かれた宇宙秩序を学ぶべきである。

また銘記せよ。
我々は本来釈尊が説かれた最高の真実と言うものが少しも欠けることなく具わっているということをはっきり知っておかなければならない。そしてその永遠に具わっている真実というものを自分自身で受け取り、それを使いこなして日常生活を送っているのである。しかし、具体的に坐禅をして真実というものを体で体験し心で体験することがないために、頭の中だけで色々なことを考えようとする事が習慣となり、頭の中で考えられたものが実体だと考えてそれを追い求めるところから、本当の真実というものがどっかに行ってしまってうかうかと通り過ぎてしまう。

しかも、我々の頭の中に生まれた色々な考えによって、色々な抽象的な論議を巻き起こす。そのような色々なことを頭で考えるために、ある人はこの世を十二因縁による流転と考え、ある人はこの世を餓鬼、畜生等二十五種類の境涯と考え、その他(声聞、縁覚、菩薩)の三乗とか、(仏、菩薩、縁覚、声聞、人天)の五乗とか、仏性があるとかないとかといった見解が現に存在し、お互いに論議を重ねて終わるときがない。この様な頭の中で考えられた理屈を勉強して、釈尊の教えを実際に実行していく上の正しい道だと言うふうに考えてはならない。

しかしながらそれとは逆に、現に釈尊が行われたと同じような姿に我が身を置いて、一切の煩わしいことを一時棚上げしてひたすら坐禅をするならば、迷いとか、悟りとか、感情的な理論とか、そのようなくだらない境涯というものを全部乗り越えて、凡人とか聖者とかという分け隔てのある境涯とは全く無関係に、坐禅を始めた瞬間から、様々な枠を乗り越えて、自由自在の境涯にあそび、偉大な真実を我が身に受け取り、その真実を使いこなすのである。文字の罠に引っかかる事とはわけが違う。同列に考えることは到底出来ようがない。


         
          ―西嶋先生の話―

坐禅というものが安楽であるという事の一つの形は、たとえば朝早く起きて走るという事と、坐禅とどっちが楽かという事を考えて見ればいい。 体のあまり丈夫でない人に「あなた走りなさい、走りなさい」といった場合に、はたして妥当かどうか疑問があるわけです。 ただ「あなた坐禅をやりなさい」という事になれば、そう無理はない。 それはなぜかと言うと、走ることよりも安らかだから。 それからまた、楽しいかどうかという点について、楽しさというものは何かという事と関係があるわけです。

何か物事をグズグズ、グズグズと考えて、その考えから抜け出せないという状態が、我々の日常生活にはよくある。 考えまい、考えまいとしても、その考えが浮かんできて、どうしても離れないという事がある。 それが悩みという事になるわけです。 悩みから離れる方法として何があるかというと、坐禅があるわけです。 足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていると、ものを考えている時と体の状態が違うわけです。 ものを考える時には、大体背骨を丸くしてうつむき加減にしてものを考える。 だから腰骨を立てて、背骨を立てて、首筋を立てていると、ものを考える姿勢ではなくて、むしろ人生を楽しむ姿勢という事になるわけです。

それからまた、我々は感覚というものに捉えがち。 「あそこのウナギは美味しい」「あそこの天ぷらでなきゃ駄目だ」等、いいろいろ感覚的な楽しみを追い求めるわけだけれども、またそういう感覚的なものに引きずり回される面もある。 そういうものからも離れて、ジ-ッとしているという事。 そのことが人生の楽しみというものの一番の原点です。 我々が草野球をして何が楽しいかというと、一所懸命にやっていることが楽しい。 つまらんことを何も考えないという状態が楽しい。 あれが欲しい、これが欲しいと言って、何か感覚的なものを追い求めている事のないという事が楽しい原因です。

だからスポ-ツの楽しみというのは、一所懸命にやる楽しみ。 その一番単純な、一番の原点が坐禅という事になるわけです。 だからそういう点では坐禅によって何をするかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしていることを楽しむ。 それ以外にはない。 そういう楽しみというものが、人生の楽しみの根源。 つまらんものに引きずられて、ズルズルと苦しむことがないという事。 これが人生の基本、出発点です。 そういう点では、坐禅は足が痛かろうと、退屈であろうと、ほかの苦しみの状態に比べれば非常に安らかで楽しいという事。

これは人生の苦しみを味わった人にとっては良くわかる。
何か病気をしてしまって、どうにも苦しくてしようがなかった、長い間欠勤したというふうな経験のある人は、そういう病気をしておった時の自分というものと、坐禅をしている時の自分とを考えると、なるほど坐禅が楽しいという事がわかる。 あるいは、たまたま好きな人に結婚を申し込んだら断られた。 もうどうにもいても立ってもたまらない程つらい。 もうこんな世の中なら死んじまった方がいいというふうな形で仮に苦しんだとすれば、そういう経験のある人にとっては、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしていることが、いかに安らかな、いかに楽しい瞬間かという事です。 だから人生の苦しみ、人生の悩みを知っておれば知っておるほど、坐禅というものの有難みがわかる。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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