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正法眼蔵 弁道話 15

弁道話の巻、十八問答は続きます。

質問-3、答の続きです。
また経典を読んだり念仏を唱えたり等の勤行によって得られるところの効果をお前たちは知っているかどうか。 ただ舌を動かし声を上げる事だけを、仏事功徳と考えているとは甚だ頼りない話である。読経や念仏等の行いを 釈尊の説かれた宇宙の秩序というものに押し当てて考えてみると、ますます遠くいよいよ遥かである。経典を開いてそれを読むということは、経典を読むことによって修行のやり方をはっきりさせ、その教えの通りに修行をするならば、かならず悟りを獲得させようとの意味である。

愚かにも、千万回の口による修行を休みなく繰り返し、釈尊の説かれた教えに到達しようとすることは、ちょうど車を北の方に向けて南の越に行こうとするようなものである。 また、丸い穴に四角い木の棒を無理やり入れようとして、どうしても入らない状態に似ている。 せっかく経典を読んでいながら、どういう修行をしたらいいかという事がさっぱりわかっていないという事は、医者でありながら薬の調合がわからないのと同じで何の利益があろう。 念仏、お経を何千万回と繰り返し休みなく声を張り上げてみても、その様は春の田で蛙が日夜鳴く様なもので何の効用もないと言える。 深く名誉や利得に惑わされている人々は、やめようとしても簡単にはやめられない。 これは、利得を愛し名誉を貪る心が甚だ深いためであって、昔もこのような人はすでにいたのである。 どうして今の時代にいないという事があろうか。 甚だ憐れむべきことである。

まさに銘記せよ。
過去七仏(釈尊以前にいた六人の真実を得られた方々を想定して、それに釈尊を加えて七仏と言う)の唱えられた素晴らしい教えとは、真実を把握し自分の心を解明した優れた師匠に、釈尊と同じ心境になり釈尊と同じ理解を自分のものにした人々が師事して、正しく伝承することにより明確な理論がはっきりとしてそれが受け継がれ保持されて今日に至っているのである。 このことは、文字のみに頼って仏道を学んだ僧侶にはわかるはずのものではない。

経典を読み念仏を唱える事で仏道がわかると言う迷いをやめて、正しい師匠の教えに従って、仏教界における諸先輩が体験されたところの自分自身を受け取り自分自身を使いこなす境地を坐禅をして実際に体験し自分のものにするべきである。 釈尊をまねて同じ姿でひたすら(只管)坐禅をするならば、迷いとか、悟りとかというものや、独りよがりな理論とかに惑わされる事なく、坐禅を始めた瞬間から自由自在に生きる事が出来る様になる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
現在の日本の葬式と言うのは、本来の仏教からするとあまり関係ないものなんですか。

先生
ええ、私はそう思いますね。ただ人間社会と言うのがありますと、死者が出た場合に必ず何らかの葬儀をするというのは、何処の国にも共通してありますよね。だからそれがたまたま日本の場合、仏教と結びつけるわけであって、仏教と特に結びつくべきものだということではないと同時に、死者が出た場合に何らかの葬式をしなきゃならんということ、しなければおさまらないということも事実ですよね。

質問
道元禅師は「焼香、礼拝、念仏は観念にすぎぬ」と書いておられるんですけれども、道元禅師がおられるときはこういう事やめちゃって、全然やらなかったんですか。

先生
いや、そうではございません。礼拝なぞもやっておられますし、それから「正法眼蔵」の他のところで、焼香を誰がやるとかということを事細かに書いてありますから、そういう習慣をやめられたということではないんです。ただ何が大事かと言えば、他の事はやめても坐禅はやめるべきではない。坐禅をやめたら仏道がなくなる、しかし他の事はやめても仏道はなくならんと、そういう理解の仕方ですよね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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