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正法眼蔵 弁道話 11

道元禅師の弁道話は続きます。

もし平凡な人々が考えているように、修行と悟りとを別々にして、修行しているとそのうちに悟るという考えをとるならば、修行はどういうことで、悟りがどういうことかが自分でわかるはずである。しかしそんなことがわかる様であれば本当の悟りではない。なぜかというと、悟りと言うものの原則とはそんな小さなものではない。自分でわかるというふうな事ではない。本当の悟りと言うものは、人間の浅はかな智恵では及びのつかないものであり、人間の浅はかな智恵とは別ものである。

また坐禅においては、主観も客観も共に静寂な状態にありながら、真実の世界に入ったり出たりするのであるけれども、結局のところそれらは自分自身を受け取り自分自身を使いこなす境地であるから、ほんの僅かなものでさえ変化させることもないし、どんな些細な姿でさえそれを破壊することもなしに、広く大きな釈尊と同じ仕事をし、意味の深い素晴らしい感化を与えることになる。この様な感化が及ぶのでその周囲の草や木や土地が素晴らしい光を放ち、素晴らしい宇宙の秩序を説くことが無限である。

草や木や土塀は、一切の人間や一切の生物のために説法をし、また一切の人間や一切の生物は草や木や土塀のために説法する。自分自身が何であるかを自分自身でつかむみ、客観世界が何であるかということをつかむという、その二種類の境界と言うものは、坐禅から出た効用として、真実と一体になった姿と言うものが具わっていて欠けるところがなく、真実の体験に関する原則が行われて、それが中断することがない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
鈴木大拙という方は、臨済宗なんですか。

先生
臨済系の方ですね。

質問
先生は鈴木大拙をどういうふうに評価しておられますか。

先生
あの方は、臨済系の坐禅を勉強されて、それからアメリカに行かれて、アメリカ人を奥さんにして、そして共同作業で仏教を英語で説明されたわけですよね。ですから非常に英語の語学力は優れておったということが、鈴木大拙さんの仕事が大きく世界に影響したことの一つの原因だと思うんですが、思想内容については、仏道であるかどうかということについて、私は疑問を持っています。そのことはどういうことかと言うと、いわゆる頭で考えた、一つの思想として仏道を捉えておるということ。

だから鈴木大拙さんの話では、結局、究極のものとして、とか、日本的霊性とか、東洋的無とかということを床の間に上げておくわけですよ。で、「あれが尊いんだ、あれが尊いんだ」ということを言うわけだけれども、「じゃ、それは何なんだ」と言うと「それは何もないんだ」ということを言われる。そういうものが東洋思想であり、仏教思想だという説き方ですけれども、それではわからん、人生問題の解決につながらんというふうに私は考えております。

だから、向こうの人は流暢な英語でそういう思想が書いてあると、「これが仏道か、これが東洋思想か」というふうに理解した人が多いと思うんですよね。そのことが仏教に対する期待を生み、東洋思想に対する期待を生んだということ、これははっきり言えると思います。ただそれと同時に、本当に仏道と言うものを世界の人に提供しえたかどうかという点になると、私は必ずしも仏教の普及に役立ったという感じは持たないんですね。むしろ世界の人に仏教を誤解させる原因になっていなければ幸いだという感じを持つわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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