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正法眼蔵 弁道話 6

道元禅師の弁道話は続きます。

宗門の正しい伝承においては、この一系に伝えられて来たところの坐禅と言うものは最上中の最高である。師匠にお目にかかって教えを受ける最初から、線香をたいたり、礼拝したり、念仏を唱えたり、懺悔をしたり、お経を読んだりすることは必要ない。それよりも大切なことは坐禅であるから、ひたすら坐禅をして、身心脱落することを得よ。

身心脱落について西嶋先生の解説。
身を脱落する、心を脱落すると言うのは、人間の肉体とか精神とかと言うけじめのある考え方から抜け出すこと。我々の体は、肉があり、骨があり、血液が流れているという物質的なものだけではない。そういうものが常時ものを考え、働いて、人間として動いておればこそ、我々として価値があるわけです。ところが人間は、普通の考え方からすると、肉体と精神に分けてものを考える。この別々に分けて考えるところから、いろいろな間違いが出てくる。よく街で見かける風景だけれども、ぐでんぐれんに酔っぱらっている人が「俺は酔ってない」と言って頑張っているのをよく見かける。ご本人は酔っていないつもり。ただ体が言う事を聞かない。そういうところから見ると、体と心とは必ず一つのもの。だから、本人がいくら「酔ってない、酔ってない、おれは酒を飲んだけれども、気持ちの上では酔っていない」なんて言っても、傍から見れば酔っているか酔っていないかすぐわかる。

人間と言うのはそういうもの、体と離れた心があるんではなしに、また心と離れて体があるのではなしに、一つの具体的な人間というものがいて、それを傍から分析的に眺めれば、体というものからも眺められるし、心という面からも眺められるというに過ぎない。だから体と心とを別々に分けて考える考え方も、もちろん学問としては大切であるけれども、人間が日常生活を生きていく上においては、その両方を統一したところで問題を考えていかなければならない。そのことが仏道である。

だからそういう点では、体がどうで、心がどうでという風な事を頭の中で区別して考える考え方から脱け出さないと、本当の現実的な行動と言うものがとれない。坐禅というものは、普通の常識的な境地から抜け出して、そういう境地に自分を置くためにやるわけです。だから坐禅をやるというのは、何をやっている時かと言うと、実行している時。体は動かしていないけれども、自分自身の行動を実際に起こしている時、それが坐禅の姿。

なぜそういうことが必要かと言うと、頭を使って本を読む、いろんな知識を覚えるということも大切ではあるけれども、それだけでは頭の中だけの問題で、現実に適合するかどうかということについては非常に疑問がある。また学問の方はもう結構だと。音楽を聴いて、美しい絵を見てと言う風な働きも人間にはある。それだけで用が足りるかと言うと、そういう受け身に外からものを受け入れるだけでは、人間として「よし、やろう」という気が起きない。ところが日常生活においては、毎日「よし、やろう」ということで一所懸命努力しなければ、日常生活が流れていかない。日常生活をうまくそつなく生きるためには、そういう行動と言うもの、行動の世界というものを勉強しなければならない。

坐禅というのはそういう行動の世界を勉強するためにやるわけです。だから足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしておる姿と言うものが、自分自身の一番本来の姿。だからその本来の姿と言うものを経験する事によって、本当の自分が出てくる。本当の自分が出てくることを「身心脱落」と言う。体とか心とかと言うものは全部棚上げしてしまって、本当の自分が何かということを、坐禅と言う方法を通して体全体で実感するというのが坐禅の狙い。

※私の独り言。
坐禅を始めた頃、ただ坐っていたいのに、それまで気づかなかった自分の嫌な面が次から次と出てきて・・・・。それから15年。今は身心脱落ただ坐っているだけ。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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