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正法眼蔵 弁道話 5

道元禅師の弁道話は続きます。

経典によると、偉大な師匠である釈尊が霊鷲山の教団において、法(現実の世界を支配している宇宙秩序の教え)を摩訶迦葉尊者に伝え、さらに代々の教団の指導者から指導者へと正しく伝えられ摩訶達磨尊者に達した。而して達磨大師は自ら中国に赴いて、法を達磨大師の次の指導者である慧可大師に伝えた。達磨大師が中国に赴く以前に経典はいろいろ伝わったけれども、坐禅が伝わらなかったということは、本当の仏道が伝わらなかったということになり、これが中国に釈尊の教えが伝わった最初である。

この様に一筋に伝えられて、中国の六代目の教団指導者である大鑑慧能禅師に達した。そして坐禅を伴った釈尊の教えが広く行き渡り、仏道とは経典に書いてある事を読んで「覚えた、わかった」ということでは仏道の理解にはならないということが、まさにこの時はっきりした。当時、大鑑慧能禅師には二人の優れた弟子がいた。南嶽懐譲禅師と青原行思禅師とである。いずれも、釈尊以来の認可を伝承保持した指導者であった。南嶽懐譲禅師と青原行思禅師との系統が行き渡るに従って見事に五つの宗派が開けた。いわゆる(臨済宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)がこれである。

現在、大宋国においては、臨済宗だけが天下に満ち満ちている。五つの宗派がそれぞれ別々になっているけれども、釈尊は一人しかいない。いずれも釈尊の教えから流れ出たものであることに間違いない。大宋国においても後漢の時代から仏教関係の書籍が沢山出て、全国に行き渡ったけれども、五つのうちのどの宗派が優れているかという事は分からなかった。達磨大師がインドから中国に来られて、何が何だか分からなくなっていた仏教の根源をを断ち切って、坐禅を教えられた事によって、実際の体験を通して仏道を勉強していくやり方が広まった。

中国に本当の仏教が盛んになったと同じように、わが国でも、同じくこのようであることを乞い願うべきである。釈尊が説かれた宇宙秩序に住まい、それを保持してきた代々の仏教教団の指導者、並びに真実を体得された方々は、いずれも自受用三昧(自分自身を受け取り、自分自身を使いこなす境地)坐禅に頼る事が、仏道の出発点であり、目的地であるとした。インドにおいても中国においても、釈尊の教えが何かということが分かった人々は、いずれもこの坐禅をする風習に従って今日に至っている。

なぜこの様な伝承が行われたかと言うと、師匠と弟子との間でこっそりと、この優れた坐禅と言う修行法が正しく伝えられて、仏道の本当の中身と言うものが受け取られ保持されて来たからに他ならない。



           ―西嶋先生の話―
                         --つづき

またもう一つの考え方、もう一つの人間の生き方と言うのは、感覚と言うものに非常に重点を置く。ああ、あそこのビフテキはうまかったとか、あそこの天ぷらはうまかったとか、あるいはサウナ風呂に入ったら気持ちがいいとか、そういう感覚的なもの。もう少し高尚になれば、あの映画は面白かったとか、音楽を聴くと実に気持ちが静まるとか、そういうふうな色んな感覚的なものを受け入れるという働きが人間にはある。この感覚的に優れているということも、人間の大切な価値という言うふうに考える考え方がある。

だからあの人はセンスがいい。センスがいいというのは、かなり人間的な価値として今日重要視されておる。ただそのセンスがいいということだけで何もかもけりがつくかと言うと、なかなかそうはいかない。非常にセンスがいい形で、素晴らしい洋服を着て、素晴らしいネクタイを締めて、素晴らしい靴を履いて、ということで、ちゃらちゃら遊んでおって、人間としての務めが務まるかと言うと、なかなかそうはいかない。センスがいい、人をそらさない、あるいは音楽に対する知識があるということだけでは、人間の用は足りない。しかし、センスがいいということも人間の価値としてかなり評価されるという面がある。そういう考え方で人間と言うものを割り切ってきた考え方と言うものも、人類の発生と同じくらい古くからある。だから人間の価値を決める時に、頭がいいという価値の決め方と、センスがいいという価値の決め方と、二通りの決め方がかなり昔から重要視されてきておる。

ただ、釈尊がどういうことを言われたかと言うと、頭のいいことも大切、センスのいいことも大切かもしれないけれども、人間の価値を決めるのは、人間がどういう行動をとるかということによって決まると。頭のいいことも結構、センスのいいことも結構、だけれども、頭のいいだけでは人間の価値は出てこない。その頭のいいという基礎を生かして、どういう仕事をするかということで人間の価値は決まる。あるいはセンスがいいということだけで人間の価値が決まるわけじゃない。そのセンスを生かしてどういう仕事をするかということで人間の価値は決まると、そういう事を言われた。

だからそういう点で、頭だけの世界、あるいは感覚だけの世界よりも、何をするかと言う世界、現実の日常生活、ご飯を食べてたり、着物を着たり、会社に行ったり、勉強したりと言う日常生活をどう送るかが非常に大切なことだということを釈尊は主張された。その場合に、そういう日常生活を送る実際の舞台と言うものが「法」と言うもの。現実の世界と言うもの。そういう意味で釈尊は現実の世界と言うものを重要視された。その現実の世界に内在しておる「法」と言うもの、決まりと言うものをしっかり身につけて、それにしたがって生きていくことが自分の人生の価値を最高に発揮する道だという風ふうに説かれた。

※私の独り言。
正月のだるま市で売っている、あの赤い達磨さんは坐禅をしている姿かな。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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