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正法眼蔵 弁道話 3

道元禅師の弁道話の巻は続きます。

この自受用三昧(自分自身を受け取って、自分自身を使いこなす境地)に遊ぶには、姿勢を正しくして右に傾いたり、前に傾いたり、後ろに反り返ったりしないで、きちんと坐る事が、仏道の正しい入り口であるとされている。この坐禅によって得られる自受用三昧というものは、各人がそれぞれ十分に素質としては持っているけれども、実際に体験してみなければ自分のものにはならない。この自受用三昧というものは、自分で握り拳を作って握っているうちは、なかなか自分のものにならない。ただ坐禅というものを通して自然に身についてくると、自受用三昧というものを気にしなくても、忘れてしまっても、自分の身について離れない。

また自受用三昧に我が身を置けば、自分の話したい事が自然に口から出てくる。真実を体得された方々が、こういう状態の中にすでに住まい、それを保持している状態の中では、色々つまらないことがあれこれと気にならず、素直にさらりと日常生活が送れる。また様々の生き物が、この中で自受用三昧というものを使いこなす状況というものは、狭い視野でものを見ないという事である。いま教える坐禅という修行法は、坐禅という体験のうちにこの世の一切のものをあらしめる。

坐禅の体験の上に、一切の宇宙を実現させ、行動の世界においてたった一つの真実を実行するのである。坐禅をやって、色々な難問を乗り越え様々な煩いから抜け出した状態の時には、以上述べた様なくどくどした説明をはるかに超越したところの境地に行かざるを得ないのである。

※上記に関連して西嶋先生の話。
坐禅によって何をするかと言うと、自律神経をバランスさせるということが大きな狙い。このバランスと言うのは、自分が落ち着いたとか落ち着かないとかというふうに、頭の中でクヨクヨ考えても、なかなか実現するものではない。本来はバランスしているはずのものだけれども、それぞれ長年の習慣に従って、せかせか落ち着かない人もあれば、のんびり過ぎて、なかなかエンジンのかからない人もあるといった性格の違いというものも、この自律神経の状態と関係がある。

自受用三昧とは何かというと、交感神経と副交感神経とがバランスした状態と理解して間違いない。だから自受用三昧を坐禅によって得るということは、この自律神経をバランスさせること。この自律神経がバランスしている時に、我々の体と言うものは、一番健康。抵抗力も一番ある。働いても疲労がすぐ回復するというのがこの自律神経の均衡。交感神経が強すぎると、頭が働きすぎて、クヨクヨと心配ばかりしておって、夜になって「さあ寝なきゃ」と思ってもなかなか寝られないという形が出てくる。あるいは副交感神経が強い人は、食欲が旺盛で、パクパク食べ、食べるとすぐ眠くなって横になる。

この自律神経のバランスと言うものは、人々の誰の体の中にも具わっておるものではあるけれども、実際に実行しなければ発現してこない。体験すれば初めて自分のものになる。「ああ、なるほど、自分は案外落ちついてんだなあ。今までせかせかせかせか焦ってたけど、そう焦ることはないなあ。そうかといって、あんまりのんびりしてるってことも、かえって退屈で困るな」と言うふうな、きわめて常識的なきわめて本源的な人間のあり方と言うものが、坐禅をやることによって浮かび出てくる、そういうことにならざるを得ない。

※私の独り言。
朝晩坐禅をやる習慣がつけば、道元禅師の言っていることも、西嶋先生の言っていることも「ああ、本当なんだ」と身心でわかります。そしてこれが仏道なんだという実感がわき、坐禅をする前の生き方と、何となく違う充実した生き方の中にある自分を感じることが出来ます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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