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正法眼蔵 弁道話 2

「弁道話の巻」本文に入ります。

諸仏如来がたくさんおられるけれども、いずれも釈尊の説かれた素晴らしい秩序というものを一系に一つの流れとして伝えて、最高の教えを実際に自分で体験し味わうのである。それには坐禅という最高できわめて自然な素晴らしい手段がある。この坐禅という修行法は真実を体得した人から、真実を体得した人に直接伝えられて、脇道にそれたことのないものであり、自受用三昧がその標準である。

※諸仏如来・自受用三昧について西嶋先生解説。
諸仏如来とは、お釈迦さんと同じような境地に達した人々と言う意味で、「仏」というものを考える場合に、大切なことが一つある。それは仏は人間か神様かという問題。私は時々外国人を相手に仏教の話をするわけだけれども、その時彼らがする一番多い質問は、「お釈迦さんは神様ですか、人間ですか」と言う質問。そのたびに「お釈迦さんは人間だ」と言うと、みんなにっこりして嬉しそうな顔をして納得する。彼らの境地からすると、神様というもので何千年となく縛りつけられておる。だから「お釈迦さんは人間だ」と言う返事をすると、ほんとにうれしそうな顔をする。その様に、お釈迦さんと言うのはあくまでも人間。人間以上の神様と言うものではなしに、人間が本当の人間になった人を仏と言う。だから仏とは、人間以上の飛び離れた偉い人ということではない、人間がごく当たり前の人間になった時が仏。

自受用三昧と言う言葉は、仏教思想の中心的な考え方。自受と自用とに分かれる。自受とは自分自身を受け取けとるということ。それは坐禅をやっている時に我々が感じるもの。坐禅をやって何になるかと言うと、一つは自分自身と仲良くなるということがある。我々は日常生活において大抵いろんなことで頭を使っている。だから自分自身がどういうものかということには中々お目にかからない。「何にも考えなくていいよ。足を組んで、手を組んで、背骨を伸ばして坐っていればいいよ」と言う時に一番身近に感じられるものは自分自身。「足が痛いなあ」とか「いろんな考えが起きて来るなあ」とか「退屈だなあ」とか「早く終わればいいなあ」という事を考えている反面、一番身近になってくるものは自分自身。

そして我々の人生の生き方の中で一番大切なのは、自分自身をしっかりつかんで生きるということ。これが非常に大切な事。仏道の狙いとは何かといえば、自分自身をしっかりつかむということが一番の基準である。だから釈尊が亡くなられるときに、弟子たちが、「釈尊が亡くなられたら、自分たちはどうして生きたらいいでしょうか」と言う質問をされた時に、「自分自身と法を頼りにせよ、そしてそれ以外のものは頼りにするな」と言われた。これは自分自身をよくつかむということがかなり大切なことだということを意味する。

ところがそういう習慣と言うのは我々の日常生活では少ない。朝時間いっぱいまで寝ていて、それから起きて、あわててご飯をかっ込んで、まず駅に走っていく。会社についてみると仕事が山の様にたまっていて、「それ、大変だ」と言うんで、一所懸命働いて、昼になってからご飯を食べて、また働いて、さて夜になって、一杯飲んで、いい調子になって家へ帰ってごろっと横になった。ちょっと寝たと思ったら、また起きなきゃならん。「それ、起きろ」と言うんで、一所懸命起きてまた出かける。

非常に健気な働きだ、我々の日常生活は。だが自分自身がどこにあるかと言うと、中々自分自身はどこにあるか分からない。ただ忙しいだけ。働くために飯を食うんだか、飯を食うために働くんだかよくわからない。とにかくもう何でもかんでも忙しくてしょうがないというのが、我々の日常生活ということになる。たまたま足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておると、他の余分なものがどっかへ行ってしまう、そうすると、何が残るかと言うと、自分が残る。そのことが我々の日常生活でかなり大切な事。だから道元禅師が坐禅の事を「自受用三昧」と言われたのは、そういう事、自分自身を受け取って、しかもその自分自身を使いこなすことが大切だということである。

※私の独り言。
先生のご自宅で外国人の弟子と一緒になったことがあります。私は英語が話せないので先生の通訳で会話した事を思い出しました。その方は先生に出会い釈尊の教えを勉強でき仏教徒になれた事がとても嬉しいと言っていました。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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