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正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜 1

「摩訶般若波羅蜜」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

摩訶と言うのは、大きい、偉大なという意味。般若と言うのはは正しい智慧と言う意味。波羅密と言うのは、彼の岸に至る、真実に到達する手段。したがって、「摩訶般若波羅蜜」とは、偉大な正しい智慧という真理に到達するための手段というふうに理解してよろしいわけです。この「摩訶般若波羅蜜」の巻において、道元禅師がどういう事を説かれたかと言うと、これは「般若波羅蜜多心経」という、いわゆる「般若心経」と呼ばれている経典があるわけです。その説明をこの巻でされていると理解してよい。「般若波羅蜜多心経」というのは、時々お寺辺りでそれを唱えるのを聞いたことがある方もおられるかと思う。「観自在菩薩、行深般若波羅密多時・・・・・」と言うのがその最初のところ。

「般若心経」で説かれている事は、「正しい智慧とは何か」という問題。仏教ではなぜ正しい智慧を問題するかというと西洋流の考え方では、智慧というのは常に正しいという考え方がある。これはカントという哲学者が、理性というもの、人間の頭の働きというのは、どこでも通用する正しさを持っているという考え方を主張し、これが当然の事として西洋流の考え方の中にあったわけです。ところが仏教ではそういう考え方をとらない。なぜとらないかというと人間の智慧というもの、人間の頭の働きは、体の状態、心の状態がどうあるかによっていくらでも変わるという事。

早い話が、我々が腹を立てている時に正しい判断が出来るかというと、これは難しい。西洋流の考え方で言えば、腹を立てていようと悲観していようと、判断は正しいという事になりがちだけれども仏道ではそうは言わない。腹を立てている時の判断は誤る、悲観している時の判断は誤る、という事があるわけです。最近でも自殺というような事件がよく報道されますが、自分自身が死ぬだけならまだしもの事、自分の子供まで一緒に殺してしまうという風な形がいくらでもある。

そういう行動をとった人というのは、自分の考え方は正しいと思っている。だからもう自分は死ぬしか方法がないと考えるし、自分が一人死んでいくよりは子供も道連れにした方が子供のために幸せだというふうに考えるわけですけれども、はたから見れば「子供まで一緒に連れてああ可哀そうに」と思う。だから実際の行動をやっている人の判断が、常に正しいかというとそうはいかない。思いつめて何か苦しい事があって、「もうこの苦しさから逃れることができない」と決めつけてしまうと、そこでおかしな行動おかしな判断がでるわけです。

西洋流の考え方からすれば、人間の頭の働きは常に正しいと言う考え方があるけれども、仏道では人間の体の状態、心の状態によっては、人間の頭の働きは常に正しいとは限らないという主張がある。そうすると、正しい考え方、正しい頭の働きはどういう時に出て来るかという事が問題になる。その場合に正しい智慧、正しい判断の基礎というものがこの仏教における般若という言葉の意味。

だから我々が正しい判断をするためには、この般若というものが必要であるし、この般若というものをどう捉えていくか、どう考えていくかという事が仏教を考える上においての非常に大切な問題、そういう事になるわけです。だからそういう点では、この「摩訶般若波羅蜜多心経」の意味をどう解釈するかという事で、この「摩訶般若波羅蜜」という巻が書かれているわけだけれども、仏教哲学を理解していく上においてはかなり大切な問題がここに出てくるわけです。

カテゴリ「般若心経」は、西嶋先生が「摩詞般若波羅蜜多心経」全文(276文字)を解説しています。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お経と言うものに興味があるんですが・・・・。お経と言うのは、葬式だとか、そういう時にしか我々には残っていない。意味も何もわからなくて、「摩訶般若波羅密」のお経も読んだ事はないし見たこともない、そういう人間でも、仏道の勉強をやっていくということは・・・・。

先生
お経の意味を文字を通して勉強することは面白いことではある。今日、本屋さんへ行きますと、「般若心経」に関する解読本も何冊かあります。何十冊になるかもしれない、で、いろんなことが書いてありますけれども、道元禅師が言われたことは「般若心経」の意味が知りたいと思ったら、坐禅をして、自分の体全体で何を感ずるかを実感する方が早い。それが本当の「般若心経」の意味だということを言っておられるわけだ。

だから、ここで「観自在菩薩、行深般若波羅密多時」と言うのは、坐禅をやっている時に何を感じたかと言うと、この世の中の一切のものが「ない」と考えれば、「ない」とも感じられるということを体全体で実感した事だ。「般若心経」についても、今日いろんな解釈が沢山の人によって書かれておりますけれども、それは言葉の上での説明であって、仏道と言うのはそういう理屈ではない。仏道とは何かといえば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、坐っておる時の実感だという事をこの「摩訶般若波羅密」の巻では説かれておるわけです。

だからそういう点では、仏教に対する勉強の仕方も、「正法眼蔵」の場合ではちょっと違うわけです。普通は経典を読んでいろんな注釈を勉強して、ここの文句はこういう意味、ここの文句はこういう意味ということで、経典の意味が分かれば仏道がわかるはずだということで、みんな一所懸命勉強しているわけです。ところが道元禅師が考えられたことは、釈尊の教えと言うものは坐禅の中に入っているのだと。だから中国に坐禅が伝わってこなかった以前、つまり達磨大師がインドから中国に坐禅を持って行かなかった以前にも、経典はいろいろ伝わっておったけれども、したがって「般若心経」なども経典としてはすでに、とうの昔に中国に入っていたわけだけれども、その本当の意味と言うものは、達磨大師が中国に行かれて坐禅を中国人に教えた時に初めて本当の意味が理解できるようになったという考え方ですよね。

だからそういう点では、経典に対する理解の仕方についても、道元禅師は独特の考え方をしておられた。我々の立場から見ると、今日の様に情報が発達して、いろんな理屈が何億というふうにある時代になって見ますと、そういうものを整理していく立場と言うものがどうしても必要になってくる。今日、情報と言うものは非常にたくさんあるわけです。その情報のどれが正しいか、どれが誤っているかを捉える立場と言うものがどうしても必要になる。

そういう点で、道元禅師は、頭の中であるいは文字で知識を詰め込むことが我々の本当の理解に役立つのではなくて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる状態そのものから本当のものが生まれて来る。だから「般若心経」の一々の意味と言うものを理解する事よりは、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる瞬間を持つことの方が、仏道と言うものを身につける一番の早道だという考え方で、ここのところも述べておられるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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