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2017年06月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 恁麼 5

    雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。この様な言葉では表現できない何かと言うものは、真実を得た人の頭でも考える事ができないし、我々の心で考えようとしても考える事ができないし、宇宙の大きさで考えようとしても考える事ができないし、我々の住んでいる世界全体で考えようとしても考える事ができない。我々の置かれている実情とは、すでに言葉では表現することのできない何かであるのだから、どうして言葉で...

  • 正法眼蔵 恁麼 4

    雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。我々自身が言葉では表現できない何かであると言う事実を知るべきである。一体何によって我々が言葉では表現できない何かであると知る事が出来るのであろうか。我々は日常生活において、どういう根拠かわらないけれども、突如として言葉では表現できない何かが得たいと言う気持ちを起こす。その様に言葉では表現できない何かを得たいと言う気持ちを起こす事が、自分...

  • 正法眼蔵 恁麼 3

    雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。体というものを考えてみても、体自身がすでに個人的な存在ではなく、生命は時間の経過とともに変化して、ほんの僅かの時間も停止させることはできない。年若かった頃の輝かしい顔は一体どこに隠れてしまったのであろうか、それをもう一度見つけようとしても、どこにそれを見つけたらいいのかわからない状態が我々の人生である。よくよく考えてみるに、過去における出来事とい...

  • 正法眼蔵 恁麼 2

    雲居道膺禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。ここで雲居禅師が言っておられる言葉の意味は、言葉で表現できない何かというものを得たいと思うならば、まさに言葉では表現できない人そのものになってしまう事である。言葉では表現できない人そのものになってしまったのであるから、どうして言葉で表現できない何かを得られるとか得られないとかと言って心配する必要があろう。この言葉の意味はどういうことかというと、直接...

  • 正法眼蔵 麼恁 1

    恁麼(いんも)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。恁麼というのは、宋の時代の日常会話に使われていた「あれ」「それ」「何」と言うふうな意味の言葉であります。仏道というものの究極というものは何かという事が問題になるわけでありますが、釈尊の教えに従えば、我々の生活における究極のものというのは、現実そのものであって、言葉では表現できないという原則があるわけであります。今日のようにものを考えるという事が非常...

  • 正法眼蔵 仏向上事 31

    黄檗希運禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。黄檗禅師の言われた仏向上事(真実を得た後も真実に沿って日常生活を送って行く事態)というものは、現代における根拠のない事をしきりに主張する人々にとっては、理解したり事態を率直に認めたりという事は到底不可能な事であろう。根拠のない事を主張する人々は、釈尊の説かれた宇宙秩序の教えに関連しても法融禅師に及ばないところがある。仮に釈尊の説かれた宇宙...

  • 正法眼蔵 仏向上事 30

    黄檗希運禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。仏道修行を真剣にやっている場合には、必ずこの様な真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力してやっていくと言う大切な状態が現実のものとして現れるのである。仏向上事(真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を一所懸命やって行く事柄)というものは、自分が真実を得て仏の境地に到達した後も、さらに真実を得た人々を常に頭において日常生活の中に見出して毎日...

  • 正法眼蔵 仏向上事 29

    黄檗禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。牛頭山法融禅師は中国の第四代目の教団指導者である大医道信禅師のもとで長年にわたって修行を積んだ弟子であり、縦横無尽に論議するだけの力量は具えていた。仏教に関係した事柄についても、経典に関する師匠や論議に関する師匠たちと比較するならば、インドにおいても中国においても決して不足なところはない力量であったけれども、残念な事には、真実を得た後もさらに...

  • 正法眼蔵 仏向上事 28

    黄檗希運禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。ここで黄檗禅師が言われている釈尊以来代々の祖師方によって長い間伝承されてきた事柄というものは、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのものを言うのである。これを正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)と言い、きわめて平隠さに満ち溢れた至福の心境とも言うのである。この様な状態は誰にでも具わっているけれども、たいていの場合はそれに気ずかずに一生を...

  • 正法眼蔵 仏向上事 27

    黄檗希運禅師が言われた。本来、出家人(家庭生活を離れて僧侶になった者)は、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのやり方があるという事を承知すべきである。たとえば、中国における四祖大医道信禅師の弟子にあたる牛頭山法融禅師は、論議に関連しては自由自在で非常に優れた才能を持っていた。しかしながら、真実を得た後もさらに真実にそって日常生活を安定した状態で送っていくと言う、真実を探求していく上での...

  • 正法眼蔵 仏向上事 26

    石頭無際大師と道悟禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。我々の住んでいる世界の実情というものは、人に強制されるからでもない、自分が努力をするわけでもないけれども、各人がそれぞれ独自の存在として自由自在の境涯にいるのである。「大空が白い雲が飛ぶ事の邪魔をしない」と言う言葉によって、表現された実態なり外見なりというものをここでは取り上げておられるのである。まさにこの様な境地に我々が立った場合に...

  • 正法眼蔵 仏向上事 25

    石頭無際大師と天皇道悟禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。さらにこの言葉に敷衍して述べるならば、大空というものが、大空の邪魔をするという事は決してない。そして大空は大空が飛ぶ事の決して邪魔にならないと言う事が実情であると同時に、白い雲もまた白い雲で独自の存在として自由闊達に大空を飛んでいるのであって、白い雲が白い雲自身の邪魔をするというようなことはあり得ない。そしてさらに、白い雲の飛んで...

  • 正法眼蔵 仏向上事 24

    石頭無際大師と天皇道悟禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。道悟禅師は「一段と進んだ境地において、ほかに問題の本質を表現するような言葉がありますか」と質問した。仮にこの道悟禅師の質問に対して、石頭無際大師が別の言葉で仏道の大意を表現する事が現実にできたならば、石頭無際大師はさすが真実を得た上にさらに仏道の追求をしていくという境地を具体的に実現しておられたという事がわかる。ここで「別の言葉」...

  • 正法眼蔵 仏向上事 23

    石頭無際大師と道悟禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。真実を得たいと言う気持ちを起こし、修行し体験をするという事態はないわけではない。しかしながらその内容というものは、頭の中で理解できるという性質のものではない。その究極の趣旨というものは、人間の頭で「わかった」というふうなものではない。修行や体験というものがないわけではない。また修行や体験というものがあるとも断定はできない。我々の修行、...

  • 正法眼蔵 仏向上事 22

    石頭無際大師の教団で天皇寺の道悟禅師が質問した。釈尊が説かれた教えの根本的な意味というものは、一体どういう事でありましょうか。石頭無際大師言う。釈尊の教えの根本というものは、つかめるとか、認識出来るとか、知る事ができるとかというふうなものではない。道悟禅師問う一段と進んだ境地で、さらに別の表現がありますでしょうか。石頭無際大師言う大きな空というものは、白い雲がいくら飛んでも、限界があって白い雲が飛...

  • 正法眼蔵 仏向上事 21

    智門光祚禅師にある時僧が質問した。昔から「仏向上事」と言う言葉で、真実を得られた方々がさらに真剣に日常生活を送って行くと言う事柄があると聞いておりますが、一体それはどう言う内容のものでありましょうか。智門光祚禅師答えて言う.旅行用の杖は太陽や月の光があって始めて役に立つ。僧侶の使う杖は絶えずその先に太陽や月をぶら下げている様なものだ。智門光祚禅師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。ここで言...

  • 正法眼蔵 仏向上事 20

    盤山宝積禅師が言われた。向上一路(真実を得たとか得ないとかという境地を乗り越えて、絶対の世界、現実の世界、法の世界の中に生きているという自覚をしっかり持った場合)には、その境地というものは、たくさんの真実を得られの方々でさえ、なかなか伝承することのできない非常に優れたものを持っている。  盤山宝積禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。ここに言われるところの向上一路とは、一ただ一人盤山宝積禅禅師だ...

  • 正法眼蔵 仏向上事 19

    あるとき曹山本寂禅師に洞山悟本大師問う。お前の名前は何というか。本寂禅師答えて言う。自分の名前は本寂と申します。さらに洞山悟本大師問う。人につけられた名前として本寂と呼ばれることはわかった。人につけられた名前ではなく、もっと本質的な立場で自分自身の事をどう表現するかを言ってみよ。本寂禅師答えて言う。自分は何も申しません。洞山悟本大師問う。どうしてお前は、何も言わないのか。本寂禅師答えて言う。自分の...

  • 正法眼蔵 仏向上事 18

    洞山悟本大師と雲居道膺禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。人々から雲居道膺禅師と言う名前で呼ばれ、普通の生活をして来たという事が当然あると同時に、さらに一歩進んで一段と本質的な問題に立ち返った立場において考えるならば、道膺と言う名前は問題ではないと言う立場もある事を学ぶべきである。この様に雲居道膺禅師自身が、さらに一段と本質的な境地に立つならば、自分が道膺と言う名前で呼ばれている事は問題で...

  • 正法眼蔵 仏向上事 17

    雲居道膺禅師が大先輩である洞山悟本大師のところへ行って教えを受けた。あるとき洞山悟本大師問う。お前の名前は何と言うか。雲居道膺禅師答えて言う。道膺と申します。さらに洞山悟本大師問う。道膺と言う名前がお前の名前であるという事は分かった。ただ、そう言う人間がつけた名前ではなしに、さらにそれ以上の本源的な立場において、お前を何て呼んだらいよいのか。雲居道膺禅師答えて言う。単に名前を付けられた常識的な世界...

  • 正法眼蔵 仏向上事 16

    浄因枯木禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。そしてまた、真実を得た人に対して相手を批判するだけの力量があればこそ、本当の真実を得た人に出会うのである。また本当の真実を得た人にであう事が出来たからこそ、その相手を批判する事が出来たと言う事が実情である。この様に普通の常識では捉える事の出来ないほど途轍もなく大きな規模の人物であるから、他人に会えば何の意味もなくニッコリと笑う。頭のよい人物などと...

  • 正法眼蔵 仏向上事 15

    浄因枯木禅師の説法について道元禅師が注釈されます。浄因枯木禅師が六種類の感覚器官はすべて満足ではないと言っておられる言葉の意味は、仏道修行をした結果、師匠のお陰で、眼はむくの木の玉に換えられ感情的にものを見なくなった。鼻は竹筒に換えられいい臭いはいい臭いとして感じ、悪い臭いは悪い臭いとして感じる様になった。頭蓋骨は屎尿を汲む柄杓に換えられてしまって、どんな汚いものにも嫌だと言う感情を持たなくなった...

  • 正法眼蔵 仏向上事 14

    芙蓉道楷禅師の後継者である浄因枯木禅師がたくさんの人々に説示して言われた。仏道修行においては、真実と一体となった後もさらに真実を求めて一所懸命日常生活を送っていく事があると言う事が分かって、初めて多少は話をするだけの力量も生まれて来るものだ。そこで諸子に問うが、仏向上事(真実と一体となった後もさらに真実を求めて一所懸命日常生活を送っていく)とは、一体どの様な事態なのかそれぞれの言葉で表現してみるがよ...

  • 正法眼蔵 仏向上事 13

    洞山悟本大師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。「仏向上事」という事態を使いこなすことができるような人はまさに、真実と一体になったのちもさらに真実と少しの区別もない状態で生きていく人がいるという事さえすっかり忘れてしまうのであり、仏向上人という言葉では表現できないような実態があるという事を知ることをも超越するのである。この様に真実と一体になった人がさらに日常生活を淡々と続けていく状態がある...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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