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2017年05月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 仏向上事 12

    洞山悟本大師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。「仏向上事」という事を体験として自分が理解するためには、まさに坐禅と言う奥深い境地を学んで初めてその事が可能になるであろう。我々は仏道を勉強していく以上、真実を得た後もさらに真実を追及していく人があると言う事を承知すべきである。仏向上人とは、悟った後も一所懸命坐禅をするという生き生きとした日常生活をすることに他ならない。しかしながら、このよう...

  • 正法眼蔵 仏向上事 11

    洞山悟本大師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。真実を得られた後も、さらに真実を求めて一生懸命に生きておられた方々は沢山いたけれども、洞山悟本大師こそは真実を得られた方々の中でもさらに優れた境地に達した人である。なぜそのように言うかというと、洞山悟本大師以外の真実を得られた方々は、真実を得た後も、さらに真実と一体になって努力していく日常生活があるという事を、夢にさえ承知しておられる方がいな...

  • 正法眼蔵 仏向上事 10

    大先輩である洞山悟本大師が説示されて言う。我々は仏向上人(真実を得た後も、なお真実を求めて一所懸命生きていく人)があるという事を知らなければならない。そこで僧問うその仏向上人とは、一体どういう人を言うのでしょうか。洞山悟本大師言う。それは真実を得た人と言うふうな抽象的な名前で呼べる人ではない。 同じ質問について雲門禅師言う。「仏向上人」というものは、何か名前をつけて呼ぶわけにいかないし、それがどんな...

  • 正法眼蔵 仏向上事 9

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。洞山悟本大師が「わしの場合でも、しゃべらない時点が来た時に、初めて人の言葉が耳に入って来る」と言われている言葉の状況にこそ、まさに多少は話相手になるという力量がふくまれている。この様に多少は話相手になる力量を具えているという状況が「仏向上事」を体得した状態である。それは真実をすでに得てしまった後も、その真実を得たという事が少しも外に目立たずに...

  • 正法眼蔵 仏向上事 8

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。そしてまた、人の言葉が耳に入る時は、日常会話から全くはずれて第三者的な立場にいるんだと言うふうな頭の中だけの捉え方でもない 。なぜかというと、人の話を聞いている時には一所懸命聞いている、つまり、相手の話し相手になって一所懸命相手の話を聞いている状態であるから。その点では、 人の話が耳に入っている時、人の話を聞いている時には、日常会話というものが...

  • 正法眼蔵 仏向上事 7

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。さらに僧侶が「和尚の様にすでに真実と一体になった方にとっては、話をしながら人の話も聞けると言う事があるんでしょうか」と質問したけれども、ここに言っている意味は和尚を問題の対象として「和尚ならば話をしている時にも、人の話を聞くに違いない」と想像したわけではない。またこの質問をした対象が洞山悟本大師自身と言うわけでもない。しかしながらこの僧侶が現...

  • 正法眼蔵 仏向上事 6

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。この様な具体的な、舌や耳や眼や体や心とかいうものを素材にして我々の日常生活が行われているのであるから、人が話をしている時には、相手の話が耳に入らないと言うごく普通の日常会話があり得るのである。舌や耳や体や心とかという素材だけを取り上げて、それが会話の実態だと主張してはならない。人の話を聞いていないということが、自分が話をしているという事と一致...

  • 正法眼蔵 仏向上事 5

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。日常生活における普通の会話を考えてみるならば、聞くとか聞かないと言う言葉にこだわる必要は少しもない。ごく自然に話をし、ごく自然に人の話を聞くという状態であって、聞くとか聞かないと言う事にこだわっているものではない。普通の日常会話と言うものは、聞くとか聞かないとかと言う言葉で区別をしてその事を問題にするような必要は全くない。自分が話を...

  • 正法眼蔵 仏向上事 4

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。「仏向上事」というのは、誰が見てもわかるようなものではないし、何もかも押し隠してしまって誰にも見せないというものでもない。人に常にありありと見せているものではないし、人の持っているものを自分のものにすると言う態度でもない。それであればこそ、日常生活における普通の会話の中でごく普通のやり取りをしている時に「仏向上事」と言うものが現れてくるのであ...

  • 正法眼蔵 仏向上事 3

    洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師が注釈されます。今ここでいうところの「仏向上事」に関する言葉は、洞山悟本大師が初めて言われたところである。そして、洞山悟本大師以外の真実を得られた方々はいずれも、洞山悟本大師の言葉を学ぶ事によって、真実を得た後もさらに日常生活を通じて真実を求めていくという事を具体的な日常生活の中で体得することができたのである。まさに銘記すべきである。洞山悟本大師の言われた「仏...

  • 正法眼蔵 仏向上事 2

    「仏向上事」の巻、本文に入ります。中国の筠州という地方におられた高祖洞山悟本大師(洞山良价禅師)は、潭州という地方におられた雲厳曇晟禅師の直接の正当な後継者である。釈尊以来三十八代の祖師方がいずれも真実を体得してその事をひけらかす事なく日常生活を淡々と送られた。洞山悟本大師はその三十八代目に当たる。また洞山悟本大師から代々の祖師方を数えて三十八代を数えると釈尊の代に到達する。ある時、洞山悟本大師が説...

  • 正法眼蔵 仏向上事 1

    「仏向上事」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「仏向上ノ事」というのはどういうことかというと、真実というものをつかまえた後も、やはり坐禅はしていかなければならんという事を言っておられるというふうにも理解することができます。よく仏教の中では、悟りというものを非常に大切にして、悟るまでが修行で、悟ったらもう修行の必要はないという考え方があるわけであります。そうすると悟るまでは夜も寝ないで、あるいは...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 48

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。人の価値を見抜くだけの眼力がある場合には、どの人が真実を得ているか承知する事が可能なはずである。宏智正覚禅師の優れた素質や優れた力と言うものを十分に承知しておられた天童如浄禅師は、人の価値を知り、真実を得た人が誰であるかということを十分に知るだけの力量を具えていたという事ができる。そこでまさに知ることができる、洞山良价禅師の立てられ...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 47

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。宏智正覚禅師の書かれた坐禅に対する戒めと言うものは以上の通りである。過去における様々な時代の長老の中で、宏智正覚禅師の様に坐禅というものの中身を的確に捉えておられる「坐禅箴」は他に見当たらない。諸国には様々の仏道修行をしている人々がいるけれども、いま仮に宏智正覚禅師が書かれた坐禅箴と同じ程度の坐禅箴を書こうとするならば、たった一回き...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 46

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。鳥がこの空というものを飛ぶならば、空を飛ぶという事だけがある。しかも空を飛ぶということは、こういうものだと言葉では説明がつかない。鳥が空を飛ぶという事は宇宙そのものである。宇宙とは何かといえば、鳥が一所懸命に空を飛んでいる事実そのものである。この飛ぶという事が一体どのような大きさのものであるかという事がわからないとしても、頭の中で考...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 45

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。また坐禅の境地を譬えて言うならば、空が広くてこれという限界がないような状態であり、遠い空を悠々と鳥が飛んでいるような状態である。この場合の「空が広い」というのは、我々が住んでいる現実の空というものを言っているわけではない。我々の普段見ている空というものは、いくら広いといっても無限の広さを持ったものではない。まして、あそこ、ここという...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 44

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅の中身は、結局その岸の上に立って測量する足場になる様な岸というものがあるわけではない。またそういう無限の世界というものが中に浮かんでいるような空間というものもない。そういう膨大な世界というものが下に沈んでいって底に行き着くという事でもない。坐禅の中身は一体どんなものだろうと考えてみる人もいない。※西嶋先生解説坐禅というのはこうい...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 43

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。たとえば、川の底の砂や小石がすっかり見えるほど水が澄んでいる小川で魚が悠々と泳いでいる、そういう状態が坐禅の中身である。坐禅の形容としての水がきれいだという事の意味は、この世における水というものはそう徹底してきれいなものではない。何が徹底してきれいかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時の我々そのものが、徹底してき...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 42

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。何らかの言葉の中に規則を見つけ出して、それに従って一所懸命行動してはならない、これらの形容は坐禅における自分自身で自分を照らしている坐禅の境地を言っているのである。坐禅の中身と言うものは、主観と客観という二つの対立関係ではない。二つのものに分かれていないから、どちらがよくてどちらが悪いというふうな選択はない。そしてこの様な事態を渾然...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 41

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅をして自分自身を照らしていたというその状態というものは、ああしたい、こうしたいと言う特別の作為はなかったけれども、それがきわめて素晴らしいものである。何か中身があって「アッ、これが坐禅だ」と言うものが感じられるかと言うと、きわめて僅かな動揺の兆しというものも表れてはこない。ただ坐っているだけである。この場合のきわめて僅かとは宇宙...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 40

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅という形を整えて仏という形を保つならば、すでに分別を経験し尽くした具体的な仏と言うものが坐禅の形でいまここに坐っている。分別の考えがないと言う事は、一切の智慧が具わっているという事である。智慧が具わっていると言う事は、頭の中だけの問題ではなしに、体全体、心全体で現実に坐禅をしている自分自身が今ここにあると言う事である。別の言葉で...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 39

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。我々がものを考えるという事と何かがわかるという事とは一つのものになっていて、人に教えられたからわかると言うものではなしに、考えるという事もわかるという事も乗り越えたところに、自分の力でわかってくるものがあるという事に他ならない。その何かがわかってくると言う事が、抽象的な心の中だけの問題かというと決してそうではない。この宇宙がどういう...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 38

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅によって何かが分かると言う状態というものは、非常に微妙なものである。その内容というものを考えてみるならば、いまだかつてほんの僅かと言えども、物事を差別してこちらがいい、あちらが悪いという考え方がないということである。※西嶋先生解説我々は今日の文明で、ものを考えるという人間の能力を非常に大切にするわけであります。このことは大切なこ...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 37

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。特別の環境に限定される事なく一切を照らすと言う場合の照らすとは、理屈の上で理解できたと言う場合にはっきりとしたということではない。また理屈ではなしに神秘的な形で一切のものが何となくわかったと言う状態でもない。※西嶋先生解説宗教というものを考えると、すぐ神秘的なものと結びつけて理解するという立場がありますが、仏教はそういう神秘的な宗教...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 36

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。宏智正覚禅師が「様々の事柄に積極的に触れることなしに一切を知る」と言われているけれども、ここで言われている知るとは、頭で考えてわかったと言う意味での知るとは内容が違う。頭で考えてわかったというのは、小乗的な立場で考えたという事にならざるを得ない。また理解するという意味での知るでもない。ものを理解できたという事は、人間が努力して一所懸...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 35

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。代々の祖師方のかなめ。それは趙州禅師の弟子の鉄觜覚が法眼文益禅師に対して答えた「亡くなった趙州禅師は抽象的な言葉で坐禅について説明された事はありません」と言う一語に尽きている。祖師方が大切にして来たものは、抽象的な言葉で説明できるものではない。抽象的な言葉で説明できないと言う原則そのものが、代々の祖師方がわが身そのものとして保持して...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 34

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師が注釈されます。この「坐禅箴」の中に書かれた坐禅に関する戒めの要点は、坐禅こそは偉大な機能が現に目の前にすでに現れている状態であり、それは耳で聞こえるとか目で見えるとかと言う感覚的に捉えられるものを乗り越えたところの威厳のある姿であり、永遠の意味を持ったものではあるけれども、日常生活における目の前の具体的な自分自身のあり方でしかない。おかしな理屈で仏...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 33

    敕諡宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」は続きます。何となくわかってくると言う事ははなはだ微妙であって、頭の中で考えて色々と区別すると言うものの考え方ではない。その様な考え方は入り込む余地がない。また体全体で、何となく周囲が明るくなってくると言う実感であるから、その実感というものは人為的な形ではなしに、自然に素晴らしい状態に到達する事ができる。いまだかつて千分の一、十万分の一と言うほんの僅かな余分なも...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 32

    敕諡宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」は次に述べるものである。仏教界の諸先輩が大切にされていたものが坐禅の中にある。それを説明してみよう。坐禅をしている時は様々の事柄に積極的に触れてはいないけれども、言葉では表現できない様な状態で何となく自分の体、自分の心と言うものがほのぼのと明るくなってくる。理屈でわかると言う事ではないけれども、何となく事態と言うものが体全体で感じられる。その様に具体的な何かとい...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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