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2017年04月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 坐禅箴 31

    それらの人々が書物に書き残したところを検討してみると、ただ本源に帰還することだと考えているようである。ただ単に思慮を停止したり、静寂に思いを凝らしたりという努力であって、天台宗で言う観想の坐禅、練磨の坐禅、薫育の坐禅、実習の坐禅というような四段階にも達しておらず、十地や等覚とか呼ばれる菩薩の境地にも及ばない。その様な境地であるから、どうして釈尊以来代々の祖師方によって伝えられて来た坐禅を伝承してい...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 30

    それぞれの寺院においては、本来、坐禅をする時間と言うものが定められている。そして住職以下たくさんの僧侶たちは、いずれも坐禅をする事を自分たちの本来の勤めとしている。また仏道を学びたいと言う人が来ると、坐禅を勧めて坐禅この様な事情から、昔から今日に至るまで坐禅に関する自戒の言葉を書いた長老の方も一人二人はおられるし、坐禅に関するやり方を書き残された長老の方も一人二人はおられるし、坐禅に関する戒めを書...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 29

    釈尊の光に輝かされるという事は、この坐禅というものに努力し、この坐禅というものを勉強したことに他ならないと承知すべきである。愚かな人々は、釈尊の輝きというものは太陽や月の光と同じようなものであろうかとか、宝玉の光と同じようなものであろうとかと考える。しかしながら、太陽の光や月の光や宝玉の光と言うものは、人間が経過すると伝えられいる六種類の境涯と言うものを次々に経巡っていくごく普通の因果関係の中にお...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 28

    インドにおいても中国においても、釈尊の教えが伝わるという事は、例外なしに坐禅という形で真実を得た人が伝承していくことに他ならない。なぜならば、釈尊の教えにおいて最も大切な中心というものは坐禅の境地というものである。仮に釈尊の教えの伝えられないところがあるとするならば、それは坐禅が伝えられていないからであり、釈尊以来代々の祖師方によって伝えられてこられたところは、この坐禅と言う基本的な考え方のみであ...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 27

    道元禅師の注釈は続きます。南嶽懐譲禅師の指導していた教団には、この様な工夫があり努力があった。 また薬山惟儼禅師が指導していた教団には前に述べたような言葉が残されている。 銘記せよ。釈尊以来代々の祖師方が、一番大切なものとして代々受け継がれて来られたところのものは、すなわち坐禅をすることによって、即座に釈尊と同一の人格になるという事であるということを。 過去において仏と言われ祖師方と言われた方々とい...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 26

    道元禅師の注釈は続きます。人が普通に坐っている姿というものは、坐った形での仏( 真実を得た人)に外見は似ており、あるいは仏が坐った状態に外見は似ているようではあるけれども、人間が仏になるという意識的な努力をしている場合もあり、すでに仏となってしまった人がそこにいるというふうな状態であるという二つの場合の区別があることと関連して考えるべきである。確かに坐禅をすることによって自然に仏になってしまった人と...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 25

    坐禅に関してまた別の言葉がある。「坐相(坐っているときの姿)に執着するならば、仏道の基本的な原則の全てに通達したことにならない」と。この言葉について道元禅師が注釈されます。坐相に執着するという事は、坐相はどうでもいいという考え方にとらわれて坐禅をしているときの姿を穢すことである。ここで言っている言葉の意味は、すでに坐るという形で仏(真実を得た人)になっている以上、坐相に執着しないということはあり得ない...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 24

    馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師言う。「お前がもしも坐禅をしているならば、そのときの状態というものは、仏の境地を超越した状態である」と。         南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈です。南嶽懐譲禅師の言葉に従ってさらに坐禅と言うものを勉強していくと、今度は仏の境地を超越するという性格があるのである。坐禅をしているまさにその瞬間というものは、仏というものを超越しているのである。仏の境地を超越...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 23

    また南嶽懐譲禅師言う。「仮に坐禅を実際に勉強した場合には、仏(真実を得た人)というものが、必ずしも固定した姿のものでないという事がわかってくる。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。坐禅というのはどういうものかという事を言おうとするならば、この様な南嶽懐譲禅師の言葉にならざるを得ない。坐禅をやっている一人一人の姿というものはそれぞれが様々の内容の坐禅をしている。各人各様の内容を持った坐禅...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 22

    坐禅を表現した言葉として南嶽懐譲禅師言う。「坐禅を実際にやってみると、坐禅というもが日常生活の坐ったり寝たりという動作と全く同じものとは言えないという事がわかってくる」と。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。南嶽懐譲禅師がこの言葉によって何を言おうとされたかと言うと、坐禅は坐禅であって、他の日常生活と少し様子が違うということを言われたのである。※西嶋先生解説この事は、我々がふだん坐禅...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 21

    そこで南嶽懐譲禅師がさらに示して言う。「お前が坐禅を勉強しているという事は、実は坐った形で仏そのものになっていることだ」と。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。南嶽懐譲禅師が言われた言葉を大いに勉強して、釈尊以来代々の祖師方によって伝えられてきたところの大切な要点というものを判断し自分のものにすべきである。我々はふだん坐禅というものを勉強しているけれども、それが一体根本的にはどういう...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 20

    南嶽懐譲禅師の「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」という質問に対して、馬祖道一禅師は答える事なく黙っていた。馬祖道一禅師の態度について道元禅師が注釈されます。馬祖道一禅師が返事をしないで黙っていたと言う事情をうかうかと見過ごしてはならない。馬祖道一禅師が示した態度というものは、敷瓦のような価値の低いものを投げ捨てて、価値の高い宝玉を取り上げるという態度であり、首の向...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 19

    南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。牛を打つ(心の問題として坐禅を考えていく)というやり方が世間一般の考え方としてあるけれども、釈尊の説かれた教えの中において、牛を打つとはどういうことかをさらに学んでみなければならない。それは去勢された水牛に譬えられた自分自身を打つことなのであろうか、鉄の牛に譬えられた師匠としての心のあり方を打つことなのであろうか。泥の牛に譬えられた一般人の心境を打...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 18

    南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。また「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」と言われているところから見ると、車を打つという場合もあり、牛を打つという場合もあるということを勉強しなければならないようにも思われる。※西嶋先生の話ここで「車を打つ」とか「牛を打つ」とかという事で何を意味しているかというと、坐禅に関連して言うならば、坐禅を心の面から見るという...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 17

    馬祖道一禅師の「それでは一体どうしたらいいのでしょうか」という問いに対して、南嶽懐譲禅師言う。「人が仮に牛車を走らせている場合に、車がどうしても前に進まなかったならば、車を打った方がよいか、あるいは牛を打った方がよいか」と。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。ここで「牛車が進まないならば」と言っているが、牛車が進むというのはどういう事なのか、牛車が進まないと言うのはどう言う事なのか。...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 16

    馬祖道一禅師の「敷瓦を磨いて鏡をつくる事ができるのでしょうか」という質問に対して、南嶽懐譲禅師言う「敷瓦を磨いて鏡をつくる事ができないならば、坐禅をする事によって仏になるという事ができるかどうか」と。道元禅師の注釈です。この南嶽懐譲禅師の言葉からはっきり知れる事は、坐禅をやりながら仏になる事を期待して待っていると言う考え方ではない。坐禅をしている事にすでに絶対の意味があるのであり、仏になる事を目的...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 15

    南嶽懐譲禅師が「敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と答えたのに対して、馬祖道一禅師問う「瓦を磨いて鏡をつくる事が出来るのでしょうか」と。道元禅師の注釈です。敷瓦を磨いて一所懸命いいものを作ろうと努力する固い信念を持った人は、自分自身で一所懸命努力して人の力を借りる必要がないけれども、敷瓦をいくら磨いても鏡を作る事ができないという事も明々白々とした事実である。敷瓦を磨くという事が鏡をつくる事と全...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 14

    南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。古鏡も明鏡も一所懸命に磨く事によっていいものが生まれてくる。どんな素質というものも、磨かなければ曇ってしまうし、どのような素質でも、磨けば光を増し、社会に通用し、社会から高く評価される能力に成長していく。その事はまさに磨くと言う動作そのもの、日常生活の努力そのものにある。※西嶋先生解説この「正法眼蔵」には古鏡の巻というものがあって...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 13

    馬祖道一禅師の質問に南嶽懐譲禅師が答えて言う「自分は敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。この言葉の意味をはっきりと理解しなければならない。南嶽懐譲禅師が「敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と言っておられるけれども、この言葉には必ずはっきりとした意味があるはずである。まさにこの現実の世界に実在するところのはっきりとした存在...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 12

    南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。我々の日常生活における人生に対する理解と言うものを考えて見るならば、仏教を勉強し、釈尊の教えを聞き、坐禅を勉強すると言うような様々の事があるけれども、そう言う様々な仏道修行の努力というものが中々わかったと言う問題につながらない。単に仏と言う様なものがわからないと言う事だけではない。我々が常に飲んでいる水を考えてみても、水...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 11

    馬祖道一禅師が「自分は坐禅をして仏になりたいと思っています」と返事をしたので、とっさに南嶽懐譲禅師は一つの敷瓦を取り上げて石の上に押し当てその敷瓦を磨き始めた。師匠が何をしているのかよくわからないので「師匠、何をしておられるのですか」と馬祖道一禅師は質問した。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。南嶽懐譲禅師がやっている事は、敷瓦を拾い上げて石の上に当てて磨いでいるの...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 10

    南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。馬祖道一禅師の言われたところでは、坐禅というものは「必ず仏になりたい」と言う努力でやっているのが実情である。坐禅と言うものは、例外なしに仏になりたいと言う一心で一所懸命やるものである。坐禅を実際にやる前に、さあ何とか少しましになろうと言う決断があって坐禅が行われるのである。坐禅が終わった後でもその坐禅の境地を維持して日常...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 9

    南嶽懐譲禅師問う:お前は一所懸命坐禅をしている様だが、一体何をねらいにして坐禅をしているのか。馬祖道一禅師言う:仏になろうとして一所懸命努力しています。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師が注釈されます。馬祖道一禅師が言われた「仏になろうとしています」という言葉の意味を十分に知ってよく理解する必要がある。ここで仏になると言っているけれども、その仏になるという事は一体どういう意味なのか...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 8

    南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。そして、彫刻された龍にも、本当の龍にもそれぞれ価値がある。木に彫った龍も本物の龍もそれぞれ雲に乗り、雨を呼ぶところの力というものは持っている。この事は勉強してみなければわからない。自分自身よりはるか彼方に隔たったところの高尚なものをむやみやたらに大切にする必要はないし、あれは途轍もなく遠いことだから自分の役に立たないと言って、軽く見るという事も決...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 7

    馬祖道一禅師は南嶽懐譲禅師に仏道を学び、一対一で南嶽懐譲禅師から釈尊と同一の心境を伝承して以来、間断なく常に坐禅の修行を怠らなかった。ある時、馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師が質問した:お前は一所懸命坐禅をしている様だが、一体何をねらいにして坐禅をしているのか。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。この質問を静かに十分考えてみる必要がある。その十分に考えてみなければならないという理由はどうい...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 6

    薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。釈尊の教えを勉強したいと思うならば、坐禅によって真実を得ると言う事が例外なしに行われるところである。そしてその基本的な考え方は仏になりたい、悟りたいと言う気持ちを持たないで、ただ坐禅をするという事である。ただ坐禅をする境地は、仏になるとかならないとかという事とは別の状態であるから、法(宇宙秩序)がそのまま坐禅する人の状態として具体...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 5

    薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師が注釈されます。また別の主張をする一群の人々がいて次のように言う。坐禅によって真実を究めるという事は、初心者や晩学者にとっては必要なものである。しかし坐禅の修行は必ずしも釈尊以来、誰でもが修行しなければならないところのものではない。修行さえできているならば、たとえ歩く場合にも心身の安定はあり得るし、坐っている場合にも心身の安定はあり得る。話している時にも黙...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 4

    薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。したがって坐禅をしている際の境地というのは、釈尊がものを考えた境地と同じではない。宇宙大の大きさでものを考えるのか、あるいは宇宙の立場でものを考えるのかと言う言葉だけでも表現出来ない。ものがわかったという境地で考えるのかと言うとそうでもない。ものを理解すると言う境地で考えたのと同じかと言うと別のものである。この様に薬山惟厳禅師は坐禅の境地...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 3

    薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。この僧の質問に対して、薬山惟厳禅師は「究極的には考える事ではない」と言われた。坐禅の境地を説明する場合に、この「考える事ではない」と言う言葉を使用する事は薬山禅師の明晰さの現れである。そして坐禅の境地と言うものに関連して「考えないと言う境地」を考える場合は、例外なしに「考える事ではない」と言う言葉を使用せざるを得ないのである。この考えない...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 2

    薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師が注釈されます。薬山惟厳禅師の言葉がいま述べたようなことであることを実際に勉強して、それによって坐禅(動かずに坐っていること)の意味を学ぶべきである、それによって坐禅というものを正しく伝承すべきであり、この様な勉強の仕方というものが、坐禅と言うものが釈尊の教えの中心として今日まで伝承されて来たところの勉強の仕方である。この坐禅における不動の境地を考えた諸先輩...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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