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2017年03月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 坐禅箴 1

    「坐禅箴」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。この「坐禅箴」の箴というのは、竹の針という意味でありまして、古代の中国においては病気を治す一つの方法として、竹の針を体にさして直すというやり方があった様であります。今日でも鍼灸という治療法がありまして、それは今日では白金の針を使っておるようでありますが、白金の針、あるいは金の針がなかった時代には、竹の針で治療したという時代もあった様であります。この竹...

  • 正法眼蔵 大悟 19

    米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。悟りを得た後、様々な思いを起こし、様々の迷いを持つと言う事も、悟りの中における迷いと言う捉え方も出来る。確かに迷っているけれども、やはり悟りの中の一部でしかないと言う理解も出来る。そういう点では、我々の頭というものは様々に混乱して、百の考え千の考え方が頭の中に充満してどうにもならないと言う事があったとしても、それもまた悟りであろ...

  • 正法眼蔵 大悟 18

    米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。しかも仰山禅師の回答が「悟りと言うものはないわけではないけれども、いくら悟ったといってみたところで過去の事も心配になる、未来の事も心配になると言うのが実情だ」と言われたということは、過去の事を心配し、未来の事を心配するのも、悟りの中の出来事だと言われているのである。ここで仰山禅師が、自分の考えが二つに分かれてどっちをとったらいい...

  • 正法眼蔵 大悟 17

    米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。「現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものが必要でありましょうか」と言う質問は「この世の中に悟りなんてものはあるはずがない」と言っているわけではないし「悟りというものがあるからしっかり修行して早くつかめ」と言う事を言っているわけでもない。「いつか悟りがやってくるから、気長に待ちなさい」と言っているわけもないし...

  • 正法眼蔵 大悟 16

    米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。「現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものを必要としますか」という弟子の質問についても静かに参究し、従来の考え方と言うものを頭を切り換えて十分に考えてみる必要がある。最近、大宋国において頭をまるめて外見だけは仏道修行をしている人が沢山いるけれども、その人々が言うには「悟る事が目的であってそれ以外に目的はない」...

  • 正法眼蔵 大悟 15

    京兆の米胡禅師が弟子を仰山慧寂禅師の所へ差し向けて質問させた。弟子問う:現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものが必要でありましょうか。仰山慧寂禅師言う:悟った、仏道わ分かったと言う事実がないわけではない。しかし、仏道と言うものがわかったとしても、自分の日常生活においては、過去の事をくよくよ考えたり、まだ来ない未来に対してそわそわしたりと言う事がないわけではない。そういうことを...

  • 正法眼蔵 大悟 14

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。この様に迷いと悟りというものとの関係は、雪山童子が悟りを得て雪山童子以外のものになったということではない。雪山童子が本当の意味で雪山童子になるという事が真実と一体になるという事の意味であり、木が木であり、石が石である事が、木や石にとっての真実である。※西嶋先生解説雪山童子というのは、釈尊が過去の生涯において持っておられた名前で一所懸命仏道修...

  • 正法眼蔵 大悟 13

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。ここで休静禅師が鏡が割れた場合とか木から花が落ちた場合とかと言う言葉を使っているけれども、その使っていることの意味を取り上げて、大悟(真実を得た境地)の人が逆に迷った時のことを具体的に現実に味わって見るべきである。これは大悟ということは仏(真実を得た人)になることだと言い、逆に迷うということは凡人と同じような状況になることだと言っているように受...

  • 正法眼蔵 大悟 12

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。ここで説いている説話はそのような意味ではない。「悟った境地の人がさらに迷った時の様子は、どんなものでありましょうか」と質問しているのであるから「まさに迷っている瞬間は、一体どういうものでしょうか、そして、一度悟った人がまた迷いの中に入り込んでしまった状態は一体どういうものでしょうか」と言う質問をしているのである。この様な時点においてどの様な...

  • 正法眼蔵 大悟 11

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。「仏道修行をして悟りというものをしっかりと把んだ境地の人が、迷ってしまった場合にはどうなりますか」という僧侶の質問に対して、休静禅師が答えて言われるには「割れた鏡が姿を映すという事はないし、木から落ちた花がもう一度木に戻る事はない」と言われた。この休静禅師の教えというものは、鏡が割れたその瞬間のことを言っておられるのである。まだ鏡が割れても...

  • 正法眼蔵 大悟 10

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。悟る(真実を得る)という事はどう言う事かと言うと、悪い事は悪いとはっきりわかる事である。迷うと言う事をまた別の言葉でいうならば、自分自身の実態と言うものをありのままに認めると言う事でもある。あり余った所で、さらにほんの僅かなものを付け加えると言う事が、悟ると言う事の状況であろうし、物が足りなくなって、ほんの僅かでも欲しいと言う状況のところで、...

  • 正法眼蔵 大悟 9

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。そこでとりあえず考えて見る必要がある。悟った人(真実と一体になった境地の人)が逆に迷った状況と言うものは、悟っていない人(真実と一体になっていない境地の人)と全く同じなのであろうか。悟った人が逆に迷う場合には、悟りと言うものを素材として迷う人をつくりだすのであろうか。自分以外の何処か別のところから迷いと言うものを持ってきて悟りを隠して逆に迷うの...

  • 正法眼蔵 大悟 8

    華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。迷っていないという状態が悟る(真実を得た)ことではない。そうかといって、迷っていないことが悟りではないという事であるならば、大いに真実を得るために、その材料を作るために、悟る準備として迷おうとそういうバカげたことでもない。真実を得た人がさらに真実を得るという事もあるし、迷っている人が真実を得ると言う場合もある。真実を得た人がいると同時に、真実...

  • 正法眼蔵 大悟 7

    京兆にある華厳寺の休静禅師に対してあるとき僧が質問した。「仏道修行をして仏道の真実というものをしっかりとつかんだ境地の人が、ふとした動機で迷ってしまった場合にはどうなりますか」。質問に対して休静禅師答える「割れた鏡が姿を映すという事はないし、木から落ちた花がもう一度木に戻る事はない」と。この問答について道元禅師が注釈されます。ここで僧侶が質問している事柄というものは、形の上では確かに質問の形をして...

  • 正法眼蔵 大悟 6

    ここで私(道元禅師)は臨済禅師に質問してみたい。「悟っていない人を見つける事は難しい」と言われたけれども、それと同じ様に「悟っている人を見つけることも難しい」という事がわかってこないと、あなた(臨済禅師)の言葉は仏道の理解としてまだ十分だとは言えない。※西嶋先生解説 ここまで読んでくると一般的なものの考え方からすると、よくわからないと言う事になる訳であります。そしてここで道元禅師が言っておられることは...

  • 正法眼蔵 大悟 5

    臨済院に住んでおられた義玄禅師が言われるには、「この偉大な唐の国において、悟っていない人を見つけようと思っも、悟っていない人を一人として見つけることはできない。臨済義玄禅師の言葉についれ道元禅師が注釈されます。いまここで臨済義玄禅師が言っておられるところは、正しい伝統に従って代々受け継がれてきたところの非常に大切な仏教思想の中心である。それが間違っているという事は決してあり得ない。大きな唐の国と言...

  • 正法眼蔵 大悟 4

    真実を得た状態に十分満足していると言う事は、とりもなおさず我々の日常生活であり、それは、生まれつき我々が真実と一体であると言うところから生まれてくる。なぜそうかというならば、我々は自分たちの人生において真実とは何かと言う事を常に頭において一所懸命勉強しているからに他ならない。※西嶋先生解説なぜ我々が仏道を勉強しようという気になったかというと、我々は生まれつき真実と一体になっておるから。真実と我々が...

  • 正法眼蔵 大悟 3

    それからまた師匠なしに得られる智慧と言うものがある。それは高徳の僧侶に教えを受けることでもないし、経典によって得るものでもない。外見とは別に奥深く内蔵されている本質というものでもないし、外から見える姿というものでもないし、自分自身を否定し転換することでもない。自分以外の者との関係でややこしい関係があるということでもなしに、現実の世界において堂々とその身を現していると言う智慧もある。これら様々の智慧...

  • 正法眼蔵 大悟 2

    仏道修行をしてその成果を得た人々というものは、事態がどうであるかと言う事を悟って、それ以後、仏道の成果というものの究極に到達するという事が言えるのであるけれども、その悟ったと言う事だけが仏(真実を得た人)と言うものの全てではない。仏というものは悟りというものと全く同じであると言うわけではない。真実を得られた方々は悟りと言う枠を跳び出してしまっていると言う状態があり、真実を得たという事は、仏としての状...

  • 正法眼蔵 大悟 1

    「大悟」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「大悟」というのは、大いに悟るという事で真実をつかむという事。この真実をつかむという事を大切に考える仏道の宗派もあるわけであります。悟りというふうに捉えて、悟りさえすれば、もう後はどんなことをやっても間違いは起こさないというふうな考え方もあるわけでありますが、道元禅師は、悟りというものについての評価はもちろんしておられるわけでありますが、そうかといって...

  • 正法眼蔵 神通 34

    百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。この様に考えてくると、釈尊の教えというものは例外なしに神通(神秘的な働き)を基礎にして到達するのである。六種類の刺激に執着しないという事、それを乗り越えるという事、その事が仏道を我が身につけるということの出発点である。そのような形において仏道修行の究極に到達した場合には、ほんの一滴の水と言うものが、大きな海を飲み込んでしまう、あるいはそれを...

  • 正法眼蔵 神通 33

    百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。四果(四番目の成果)とは何かと言えば、仏教の基本原則は四つの詩句によって唱えられているが、そういう仏教の基本的な考え方を我が身に受け取りしかもそれを保持していくことである。四つの詩句を受持するとは、この我々が住む全ての世界のどこにおいても、眼・耳・鼻・舌という感覚器官が、それぞれ貪りを持たず汚される事がないと言う事である。貪らないと言う事は...

  • 正法眼蔵 神通 32

    百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。釈尊の教えというものを正しく伝承してきた人々でないならば、誰がこのような基本的な理論というものがあるとさえ耳にすることができるであろう。自分自身の大切なものを忘れて、自分以外のところに目的を求めて駆けずり回る努力が、自分自身に還帰するための行動だというふうに錯覚している人ばかりである。※西嶋先生解説我々は外に向かって駈けずり回っている場合...

  • 正法眼蔵 神通 31

    百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。我々は六種類の感覚器官(眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識)を持つており、眼でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いをかぎ、舌で味を味わい、神経を通じてそれらを頭に伝達するという働きがあるけれども、これらの六種類の感覚器官によって受け入れる刺激というものに一切執着しないという事が六神通(六種類の神秘的な働き)である。この「執着しない」ということは、仏教界の...

  • 正法眼蔵 神通 30

    百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師が注釈されます。いまここに神通(神秘的な働き)について述べて来たけれども、釈尊以来代々の祖師方によって師匠から弟子、師匠から弟子へと受け継がれてきたところの神通というものは、いま述べたような働きである。真実を得られた方々の神秘的な働きとは、真実を得た後にもさらに真実を求める人の事であり、偉いのか偉くないのかよくわからない最も不可思議の人の事である。それは自分...

  • 正法眼蔵 神通 29

    百丈大智禅師が言われた。我々は、眼や耳や鼻や舌で様々の刺激を味わうけれども、それらの刺激に対して貪りを持たず執着しないならば、このような人を四行の詩句を拝受し、それを保持している人、仏道修行における四段階の成果をすでに把握した人と名付ける。我々は六種類の感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通して外界の刺激を受け入れているけれども、その六種類の感覚器官がいずれも執着を持たないことを六種類の神秘的な働...

  • 正法眼蔵 神通 28

    釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。この様に考えてくると、仏教界で真実を得られた沢山の方々が持っておられた六通(六種類の神秘的な働き)は、様々の神々、鬼神、その他、仏道修行をしている人でも、頭だけで仏道修行をしようとか、感覚だけを通してのみ仏道に通達しようと努力している人々にとって到底及び得るところではない。※西嶋先生解説          その点では、行動を通して、坐禅を通して仏...

  • 正法眼蔵 神通 27

    釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。仏道修行をしている人々よ。真の仏(真実を得た人)というものは、形がどうこうと言う問題ではなく、また真の法(宇宙秩序)というものも、決まりきった形というものはない。世の中はこういうものだと独断的に決めつけて、そうでなければおかしいと言う形で判断し得るものではない。常に瞬間瞬間に変化していて、一定の外見と言うものはありえない。我々人間はえてしてその姿...

  • 正法眼蔵 神通 26

    釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。釈尊の神通(神秘的な働き)とは、色彩の世界に入っても色彩に溺れることなく、音声の世界に入っても音声に溺れることなく、香いの世界に入っても香りに溺れることなく、味の世界に入っても味に溺れることなく、感触の世界に入っても感触に溺れることなく、法(宇宙秩序)の世界に入っても、法に溺れることがない。したがって、色彩・音声・香り・味・感触・宇宙秩序と言う六種...

  • 正法眼蔵 神通 25

    釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。この様な事情から臨済義玄禅師が言われた。かつての仏教界の先輩が言うには、釈尊の全身に具わる優れた姿というものは、いずれも世間の人情に合わせながら法を説こうとされたのである。釈尊は三十二の優れた姿を持ち、八十種類の優れた特徴を持っていると伝えられているけれども、その真意は人々が断見(因果関係を否定する考え方)に陥ることを避けるために言われた事であっ...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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