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2017年01月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 仏教 27

    また九種類の経典というものがある。これは九分経(九種類に分かれた教え)というべきであろう。その内容がどういう内容を持っているかというと、1スートラ(普通の経典)2ガ-タ-(詩句の形で説かれた経典)3本事(過去における仏教に関連した出来事)4本生(釈尊その他が過去においてどういう生き方をされたかという過去の物語)5未曾有(奇跡に類するような出来事)6因縁(仏教に関連した様々の物語)7譬喩(釈尊の教えを譬喩の形で説...

  • 正法眼蔵 仏教 26

    このような形で青原行思禅師に対して石頭希遷禅師が礼拝した動作、南嶽譲懐禅師が師匠から仏教の大意というものを聞かれたときに「言葉で表現しようとするとどうもぴったりしません」と言われた言葉、玄沙師備禅師が「一切要らない」という主張をされた、このような思想を実際に行動の上で、言葉の上で取り上げて、実際に活用することができるという事は真実をつかんだ人にだけできる事である。その当事者が一人の人間として堂々と...

  • 正法眼蔵 仏教 25

    これらの経典はすべて、釈尊の眼目(ものの見方)である。釈尊の骨であり髄である。釈尊が常日頃やっておられた行動である。釈尊が持っておられた輝きであり装飾である。釈尊の国土である。したって教典を読む事が釈尊に直接お目にかかる事であり、釈尊について語る事は十二種類の経典を語る事である。※西嶋先生解説この辺では普通「不立文字、教外別伝」というふうな主張で、文字は問題でないんだ、あるいは経典以外に釈尊の教えと...

  • 正法眼蔵 仏教 24

    十二分教(十二部経)にはたくさんの内容がある、その中の一端をこれから述べてみよう。十二分経はなかなか聞く機会がない。釈尊の教えが世の中に行きわたっている時には、この十二分経と言う言葉を聞く事が多い。ところが釈尊の教えが衰えてすでになくなってしまった時代には十二分教と言う呼び名を聞く事ができない。また釈尊の教えが一般に広まっていない時代にも、この十二分教と言う言葉を聞く事ができなかった。長い間にわたっ...

  • 正法眼蔵 仏教 23

    本文に入る前に西嶋先生の話です。この「正法眼蔵」の仏教の巻というのは、仏教哲学と実践というものとの関係を説いておられるわけでありますが、その仏教哲学の代表として三乗というものをこれまで説明してきたわけであります。しかしそれと同時に仏教哲学のもう一つの現れ方として、経典というもの、十二種類の形に分けたところの経典というものも、同じように仏教哲学の代表としてここに挙げて説かれるわけであります。なぜ道元...

  • 正法眼蔵 仏教 22

    六波羅蜜の中にも、その他六種類の波羅蜜というものが存在するわけであるから、六・六・三十六の真実に到達する手段が現実にあるはずである。。我々の日常生活というものは、様々の問題に絡まれ束縛されておりながら、しかも現在の瞬間においてすでに真実と一体になっている、まさに真実の世界に到来したといわれるのである。※西嶋先生解説 これが仏道というものの一つの非常に特徴的な思想で、我々は普通常識的には、我々は力が...

  • 正法眼蔵 仏教 21

    真実に到達するための六つの方途「六波羅蜜」とは、1布施波羅蜜・2持戒波羅蜜・3忍耐波羅蜜・4精進波羅蜜 ・5禅定波羅蜜・6般若波羅蜜を言う。これらはいずれも最高の真実そのものである。※西嶋先生解説1布施波羅蜜とは、人に何かあげたから、それがいい結果をもたらすという事ではなしに、人に何かを与えようというふうな心のゆとりというものが人間の普通の状態。だからそういう普通の状態に自分の身、気持ちがある。2持...

  • 正法眼蔵 仏教 20

    三番目の仏教徒のあり方は菩薩乗。この菩薩乗というのは、六種類の真実に到達するための教え、行い、体験を通して、最高にして均衡のとれた正しい真実というものを成就するという行き方である。その最高で均衡のとれた正しい真実というものを成就する行き方はどういうことかというと、意識的に何かを一所懸命やってつくり上げると言う事ではない。何もしないでのんびりしている事でもない。それは今、瞬間的に始まったと言う事でも...

  • 正法眼蔵 仏教 19

    銘記せよ。我々は十二因縁と言う形で、無明・行・識・名色というような十二の対象を持っているけれども、その一番最初の無明(何が何だかハッキリしない混沌とした状態)と言うものも、自分自身の現在における心と言うもの以外にはありえないし、それに続く行・識と言う対象もまた、自分自身の現在の瞬間における心のあり方と言うものに他ならない。現在の瞬間における無明というものが、実は自分自身の心そのものであって、それは...

  • 正法眼蔵 仏教 18

    十二因縁をもう一回たどって見よう。一番最初に何が何だか分からない混沌(無明)がある。そこでとにかく行動(行)をする。その行動をする事によって人間の意識(識)と言うものが生まれる。その意識というものが生まれると同時に、外界の世界(名色)と言うものが見えてくる、あるいは聞こえてくる。そうして六種類の感覚器官(六入)と言うものが発達して、外界の刺激に触れる(触)。そうしてその刺激を受け入れる(受)。その...

  • 正法眼蔵 仏教 17

    二番目の仏教徒のあり方は縁覚乗。縁覚乗というのは、客観世界(外界)の刺激を感覚を通して受け入れて、それによって仏道を勉強していく行き方である。もっと具体的に言うと、我々の住んでいる世界は、十二種類の原因・結果の関係で成り立っているのであるけれども、その十二種類の原因・結果の関係を勉強することによって、究極において平安な境地に達するということである。では十二因縁とはどういうものかというと1・無明(何が何...

  • 正法眼蔵 仏教 16

    この様な苦諦・集諦・滅諦・道諦という四つの考え方を基礎にして、人生問題を考えていくことによって、生老病死という人生における様々の難問題を解決して、涅槃(きわめて平静な幸福な境地)というものを究めることができる。この四諦論を考えていく場合に、よくありがちな誤りは、苦諦と集諦とは仏教以外の考え方であつて、滅諦と道諦は仏教の考え方であると言う主張である。これは仏教を論議だけの問題として論じていく場合の見方...

  • 正法眼蔵 仏教 15

    三乗十二分教には非常に沢山の内容がある。その中の一端をこれから述べてみよう。三乗とは(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の三種類を言う。その最初に出てくるのが声聞乗。声聞乗とはどういう仏道修行の方法かというと、理論を通して哲学的に仏教を勉強していくいき方である。その中心というのは四諦論になる。四つの考え方を基礎にして仏道を勉強し、真実を得る事に努力をする修行方法である。四諦とは何かというと、苦諦・集諦・滅諦...

  • 正法眼蔵 仏教 14

    ここで玄沙師備禅師が「すべて必要ない」と言っておられるけれども、この言葉の意味は、必要がない、使わないと言う意味ではないし、そんなものは要らない、破棄してしまえばいいという意味でもない。たとえば達磨大師が遥々とインドから中国に来られた、まさにその行いによって説かれた教えの趣旨とは、あらゆる抽象的な教えを必要としない様な厳然たる事実であったに他ならない。釈尊の教えの中に、三乗十二分教と言う抽象的な教...

  • 正法眼蔵 仏教 13

    そしてこの僧侶の質問に対して玄沙師備禅師禅師が言う、「三乗十二分教と言う仏教哲学や仏教経典による教えはすべて必要がないと言う事が、達磨大師が遥々とインドから中国に渡られて来られたご趣旨である」と。この玄沙師備禅師の言葉というものは、まさに仏道の真実を説かれた言葉である。この様な釈尊の教えの真実を述べられた場面において、本当の意味の釈尊の教えが厳然として存在すると言う事を学ぶべきである。玄沙師備禅師...

  • 正法眼蔵 仏教 12

    玄沙師備禅師にある僧侶が質問した。「三乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)という形で説かれた仏教哲学や、十二分教(十二種類の形で仏教経典の中に説かれている抽象的な教え)は別に伺わなくて結構ですが、達磨大師が遥々とインドから中国に渡られて来た、そのご趣旨というものはどう言うものでありましょうか。玄沙師備禅師答えて言う。「三乗、十二分教と言う仏教哲学や仏教経典による教えは、すべて必要がないと言う事が達磨大師のイ...

  • 正法眼蔵 仏教 11

    巴陵顕鑒禅師にあるとき僧が質問した。「インドから遥々と中国に来られて、坐禅の修行を伝えられた達磨大師の教えというものと、それ以前に経典の形で中国に伝えられた仏教の思想的な内容とは同じものでありましょうか、別のものでありましょうか」と。この質問に巴陵顕鑒禅師答えて言う「鶏は寒いと寒さをしのぐために木の登り、鴨は寒いと水の中に潜り込んで寒さをしのぐ」とこの問答について道元禅師が注釈されます。この言葉を...

  • 正法眼蔵 仏教 10

    この様な理由から、昔から今に至るまで、釈尊の説かれた教えにおける真実を学ぶ人々は、いずれも今まで行われてきたところの様々の仏教に関する教えというものの、どれが正しくどれが間違っているかを選択して判断するには、例外なしに釈尊並びに釈尊と同じ様に真実を得られた方々に学んでいるのである。その判断と言うものを他の人々に問うという事はない。したがって、釈尊なり釈尊と同じ境地に達せられた方々の正しい判断という...

  • 正法眼蔵 仏教 9

    本文に入る前に西嶋先生の話です。道元禅師は仏教に関する限り、実行ということ、実践ということ、修行ということが非常に大切ではあるけれども、そうかと言って、経典に表わされた教えというものを全く捨て去ると言うふうな考え方は誤りだ。文字による勉強も大切だし、実践による修行も大切だ。両方が兼ね備わったところに仏道修行があるという主張をされているわけであります。その点では、この仏教という思想は、単に抽象的な教...

  • 正法眼蔵 仏教 8

    非常に優れた一つの心とは、決して心というものが客観世界と別にあるわけではなくて、土があり、石があり、砂があり、小石があるという事が我々の心があるということの唯一の証左でしかない。このように土や石や砂や小石とかというものも所詮は、我々の心があればこそそこにあると同時に、心、土、石、砂、礫という言葉を超越して、眼の前に土があり、石があり、砂があり、小石がある。釈尊が伝えられた最高の一つの心というものを...

  • 正法眼蔵 仏教 7

    ここではっきり知っておかなければならないことは、釈尊の心とは何かという問題に関連して、釈尊の心とは釈尊の持っておられた眼の玉であり、日常生活において使い古したところの木の柄杓である。釈尊の心とはこの世の一切のものであり、あらゆる世界そのものであるから、山も、国も、大地も、太陽も、月も、星も、釈尊の心と全く一つのものである。※西嶋先生解説 このことはどういうことを言っているかというと、よく私がマッチ...

  • 正法眼蔵 仏教 6

    釈尊の説かれた教えの中における一つの心とは何か、あるいは一つの心を中心にして説かれた釈尊の教えとは何かという事をまだ聞いたことがない癖に、釈尊の説かれたたった一つの心と別に釈尊の教えがあると主張する。しかしながらおまえ方(教外別伝を説く人々)の言うところのたった一つの心というものは、釈尊が説かれたところのたった一つの心というものとは別である。釈尊の説かれた教えの他に、たった一つのこころがあると主張し...

  • 正法眼蔵 仏教 5

    「ある人の言葉」について道元禅師が注釈されます。この主張はまだ、釈尊の説かれた教えの実際の行動と言うものになっていない。行動の世界において生き生きと動き回るという境地にかけている。体全体に示されたところの威厳のある姿というものがまだ伴っていない。この様な事を言う人々が仮に数百年、数千年前に仏教界に現れれて、自分たちこそ仏教界の先輩であると主張していたとしても、釈尊の説かれた教え、釈尊の説かれた真実...

  • 正法眼蔵 仏教 4

    ある人が言うには「釈尊がその一生にわたって様々の経典に述べられた教えというものを説かれたけれども、その経典に説かれた以外に、非常に優れた一つの心というものを摩訶迦葉尊者に正しく伝えられて、それが正しい後継者から正しい後継者へと一系に伝えられてきた。したがって抽象的な理論というものは、その場その場における遊戯的な議論であって、別に伝えられた心というものこそは、我々の心の中に内在するところの真実である...

  • 正法眼蔵 仏教 3

    釈尊がこの人間界において八十年生きられたけれども、その釈尊の年月というものと、十劫、二十劫という永遠に近いきわめて長い時間とを比較した場合には、一日と八十年ぐらいの違いがあるであろう。釈尊の八十年の生涯が長いか、たった一日の真実の人生というものが短いか、その辺の事は判断がつきにくい。その点では、無限に長い時間が持っている性質と、釈尊の八十年にわたっての生涯における価値とを比較してみた場合には、いか...

  • 正法眼蔵 仏教 2

    「仏教」の巻、本文に入ります。過去において諸仏(真実を得られた方々)がたくさんおられるけれども、それらの方々が言われた言葉というものが仏教である、釈尊の教えである、真実の教えである。このような真実の教え、真実の言葉というものは、諸仏(真実を得られた方々)が、やはり諸仏(真実を得られた方々)に対して説かれ、人に聞かせようとすることよりも、真実なるがゆえに説かれたところであるから、真実の教えとして正しく伝承...

  • 正法眼蔵 仏教 1

    「仏教」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「仏」がつく言葉で「仏教」「仏法」「仏行」「仏道」があります。この四つのものが、どういう関係にあるかと言う事から考えていきたいと思います。仏教というのは、理論とか哲学と言う意味が、言葉そのものの中に入っているわけであります。それから仏法というのは、釈尊の説かれた教えという意味もありますが、その他に我々の住んでいる宇宙そのもの、釈尊が説かれた形において捉...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 51

    この様な宇宙が真実を説いていると言う考え方からするならば、三世諸仏(過去・現在・未来と言う永遠の時間の中で真実を得られた方々)は、過去・現在・未来のあらゆる時間において、宇宙によって教えられているのである。三世諸仏は過去・現在・未来のあらゆる時間において、真実そのものによって教えられているのである。三世諸仏は過去・現在・未来のあらゆる時間において、自分自身によって教えられているのである。我々の日常生...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 50

    我々は仏道修行を一所懸命やっているのであるが、圜悟克勤禅師の様に、この天地が非常に激しい炎となって燃え盛っていると言う実感までは得られないかもしれないとしても、疑いもなく我々は大きな天空の下で日常生活を送っているのであるから、その天空の下で行われている我々の個々の生活と言うものは、はっきり自分たちの領分として持ち続けている。そしてまた自分以外の人々、あるいは自分を包んでいる客観の世界も、ぞれぞれの...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 49

    このように雪峰義存禅師の境地というものは、どちらが正しいとかどちらが正しくないとかという境地を超越した立場で説かれているのであるけれども、玄沙師備禅師もその主張の中には、なるほどと思われることもあるしなるほどと思われないこともある。雪峰義存禅師もある場合には問題を取り上げて検討しておられるけれども、ある面では問題を突き放して主張、その結論を自分自身で言うより人に任せるという態度の説き方もしている。...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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