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2016年12月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 行仏威儀 47

    銘記せよ。三世諸仏(過去・現在・未来と言う永遠の時間の中で真実を得られた人々)のために、炎が説く教えを大地に立って聞いていればこそ、真実を得た人と言うことができるのである。この様な真実に関する教えを説く姿は、はたから想像して想像できるものではない。それは弓の名人の師匠と弓の名人の弟子とがお互いに弓を打ち合って、その矢と矢とが空中においてぶつかり合って止まってしまったという状態に他ならない。※西嶋先生...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 46

    (妙法蓮華経見宝塔品)において釈尊が言われた。「すなわち法華経を説くならば、その説くということが私自身と会うことに他ならない。しかしたった一人のためだけに、教えを説くということは難しいことである」と。この様な経典の言葉から考えていくならば、釈尊の教えを説くという事は、釈尊ご自身にお目にかかる事である。なぜならば釈尊の教えを説くという事は釈尊ご自身が「私自身と会うことに他ならない」と言われているのであ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 45

    玄沙師備禅師の言葉には、雪峰義存禅師の言葉と関連させて、この様に批判する余地があるけれども、しかしさすが仏道を勉強した人としての力量は、玄沙師備禅師の言葉の中にも十分に汲み取れる。仏教経典の中では、経典や議論を中心とした師匠たちが、大乗・小乗と言う仏教の区別に従って局限された範囲で、本質を論議したり外見を論議したりするけれども、そういう狭い範囲の論議を乗り越えて、釈尊以来代々の祖師方によって継承さ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 44

    玄沙師備禅師は、三世諸仏(過去・現在・未来の時間の中で真実と一体になった人々)が釈尊の教えを聴いているその事が、三世諸仏の現実のあり方だと言っているけれども、その現実のあり方というものは三世諸仏以外のものがあって、それから教えられるものではない。法(宇宙秩序)は、各人自身が持っているのであって、人から教えられ押し付けられるものではない。炎を考える場合には、現実の仏そのものをつかめばいいのである。炎と...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 43

    玄沙師備禅師の言葉についてさらに道元禅師の注釈は続きます。玄沙師備禅師の言葉の中では、炎が三世諸仏(永遠の時間の中で真実と一体になった人々)のために釈尊の教えを説き、その説かれる教えを三世諸仏が大地に立って謹んで拝聴していると表現されたけれども、その事が釈尊の教えを説いたと言う表現にはなっていないし、三世諸仏が釈尊の教えを説いているとも表現されていない。三世諸仏が説かれる釈尊の教えと全く同じ内容のも...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 42

    玄沙師備禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。ここで釈尊の教えを説く、釈尊の偉大な教えを説くと言われているけれども、この二つの言葉に何らかの差異はあるのかどうか。釈尊の教えを説くという場合に、この言葉の意味は必ずしも法を説くというだけの意味ではない。法を説くということは、聞き手があろうと聞き手がなかろうと行われるものである。他人のために説くだけが説法ではない。雪峰義存禅師の言われた言葉は、言...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 41

    今度は玄沙師備禅師の言葉についてさらに道元禅師が注釈されます。「炎そのものが、過去・現在・未来あらゆる時代の真実を得られた方々に、釈尊の教えを説くのであり、過去・現在・未来あらゆる時代の真実を得られた方々は、その教えを地面に立ったまま聴講しているのである」という玄沙師備禅師の言葉を聞いて、雪峰義存禅師の言葉よりも、真実を説くと言う点では優れていると言う向きがあるけれども、必ずしもそうは言い切れない...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 40

    雪峰義存禅師が言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。本当の意味で釈尊の教えを説くという事は、理屈や言葉の上だけで釈尊の教えを説くだけではなしに、自分自身の体を動かして与えられた場面において、自分の体を投げ出して行動すると言う事情もあるであろう。よく事態を観察して、その現実の場面においてどう行動していったらいいかと言う事を考える場面もあるであろう。この宇宙を支配している基準を動かし展開させて...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 39

    ここで取りあえず雪峰義存禅師の言われたところの「過去・現在・未来における真実を得られた方々が、火のように燃えあがって、釈尊の教えを説いている」という言葉の意味を勉強してみよう。永遠の時間(過去・現在・未来)の中で、真実と一体になった方々が釈尊の教えを説く道場と言うものは、必ず炎の様に燃え上がった状態においてである。また炎の様に燃え上がった状態は、必ず釈尊の教えを一所懸命に勉強する道場である。この様な...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 38

    雪峰義存禅師、玄沙師備禅師、圜悟克勤禅師が言われた言葉について道元禅師が注釈されます。いまここで三世諸仏(過去・現在・未来における真実を得られた方々)と言う言葉を使っているけれども、その言葉の意味は、この世に存在する、ありとあらゆる真実を得られた方々の意味である。そして行仏(行いを通して真実と一体になった人)とは、三世諸仏に他ならない。この世の中のあらゆる方角に真実を得られた方々がたくさんおられる。そ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 37

    雪峰義存禅師がたくさんの人々に説示して言われた。「三世諸仏(過去・現在・未来、あらゆる時代を通じての真実を得られた方々)が、火のように燃えた姿で釈尊の教えを説いておられる」と。これを拝聴していた玄沙師備禅師が言われた。「自分の見方からするならば、炎そのものがその姿を通して三世諸仏のために釈尊の教えがどういうものであるかということを説くのであり、三世諸仏はその教えを地面に立って聴講している」と。この二...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 36

    人間には、ものを取り込む働きと、それを手放す働きとがある。その二つの要素がちょうどバランスしたところに、その二つのものを乗り越えたところの輝かしい姿というものがある。そういう輝かしさとは何かといえば、いま目の前に見えている坐禅堂であり、仏殿であり、庫裏であり、山門である。そしてさらに、宇宙全体を見通すような眼力があり、この大地をすべて眼中におさめてしまう様な眼もある。何かをする時にその瞬間瞬間に現...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 35

    この世の中には様々な問題があるけれども、その様々な問題がわからないままに一所懸命生きていく我々の日常生活そのものが「行仏威儀」である。たとへ実体がわかったと言う事で、きわめて生き生きとした状態で日常生活を送っている場合でも、その瞬間瞬間に与えられた問題に取り組んで一所懸命生きていく以外に生き方はない。そこで哲学的な論議を取り上げてみるならば、この世の中は全く同質の統一体として捉えるべきであろうか。...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 34

    「宇宙の一切は心そのものである」とか「宇宙は心以外の何ものでもない」というような言葉が昔から言われている。そしてさらに一歩進んだ立場から、本当の意味で心とは何かということを表現した言葉がある。それは何かというと、垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である。 ※西嶋先生解説 これが道元禅師の非常に特徴のある主張であり仏教の主張である。普通、西洋思想では、心というものと外界の事物というものを別のものに...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 33

    昔の僧侶が一隻眼を開明した境地から、単に目で見えるだけのものがこの世のすべてではないと言われた。それは目の前にある様々の問題というものだけがこの世のすべではないと言われたこととも通じている。釈尊がなされた様に実に和やかな表情でニッコリと笑われる場合もあるし、瞬きをされる場合もある。これらの行動と言うものが、行いを通じて真実と一体になっている人に具わる威風のある姿と言うものの一つの時点における現われ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 32

    生とか死とか、体とか心とか、与えるとか奪うとか、従うとか背くとか等は、同じ現実という門を出たり入ったりしていながら別々のものとしては決して出会わないという関係にあるものなのか、個別的な行動を瞬間瞬間にやっていくという過程で体を隠しているけれども、角が外に現れているというとらえ方が当たっているのであろうか。大きな立場で物事を考えて理解しているという事なのか、老練な思索をめぐらして初めて知り得るところ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 31

    このような捉え方、理解というものも、やはり宇宙の一部ではあるけれども、そのような形で、具体的な現実に即して問題を理解していくいき方は自分自身の本当の世界というものを、行動によって実際に具体化していく世界であり、各人一人ひとりの一所懸命の営みというものが、今この場所において現れているという事に他ならない。我々の日常生活はこの様な状態のものであるから、たくさんの古人が言われた言葉の中から、我々が従うべ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 30

    行動というものを通して自分の境地を切り開いていくならば、その行いが次から次へと連鎖的に影響を与えて、生き死ということがどういうものか、体や心というものが一体どういう意味を持っているかと言う問題が、すぐにはっきりとわかってしまうものである。真実を行うとか真実をはっきりさせるとかという問題は、個人が自分の意思だけで無理にやろうとしてもできるものではない。意識的に無理にやろうとする事は、頭が混乱している...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 29

    この様に悟ったとか迷ったとかと言ってみても、行仏(真実を実践していく人)の境地から考えるならば、その人の靴の中で足の指をコソコソと動かしている程度の、ごく些細な事でしかない。悟ったとか迷ったとかと言ってみても、一つの譬えをするならばおならをした時のプッと言う音でしかない。排泄した排泄物の臭いでしかない。そういうものは鼻の穴さえあれば臭いを嗅ぐことも出来るし、耳がありさえすれば聞く事が出来るのである。...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 28

    人間は正しい事を一所懸命やっているならば、人間を拘束する何ものもない世界に生きているのである。兜率天(理想の世界)にすぐさま行く事もできるし、兜率天からすぐ脱け出す事も出来る。兜率天にしっかりと足を踏みしめて生きていると言う状態も可能である。とてつもなく安楽の世界(極楽)にもすぐに行く事ができるし、安楽の世界からすぐ戻ってくる事もできる。※西嶋先生解説この事は、単に言葉の上だけの問題ではない。我々の日...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 27

    人間は正しい事を一所懸命やっているならば、人間を拘束する何ものもない世界に生きているのである。一所懸命やらなければならないことをやっている状態というものは、誰にも、何ものにも邪魔されない状態であって、本人自身が仏になって、その仏にだけ縛られて生きていくのであるから、そういう生き方をするという事は、日常生活において、泥をかぶり水に浸かって一所懸命生きていく境涯ではあるけれども、そういう境涯において十...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 26

    十聖三賢と呼ばれるような菩薩の方々があれこれと一所懸命考えてみても、やはり諸仏(真実を得られた方々)の実体というもの、実践の姿にはとうてい及ぶ事が出来ない。単に言葉の上だけで、文字の上だけで、様々の理屈を勉強している凡夫(普通の人)が、体を通して心を通して真実をつかまれた方々の境地をどうして想像する事が出来よう。ところが実際には仏道を考える場合おいて、凡夫や外道(仏教を信じない人)が考える「本来のもの」...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 25

    行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)の生き方というものは、本来生まれつき悟りを持っているといことはどうでもいいと考える。本来悟りというものはないけれども、いま瞬間に現れたという考え方もどうでもいいと考える。悟りがあるとかないとか言ってみても、そんなことはもどうでもいいと考える。行仏が大切にするところはこのような考え方である。 いま凡夫(普通の人)が考えるには、想念と言うものがあるとかないとか、...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 24

    人間の量が短小ならば、考え方も短小である。人間の寿命が短促ならば、思慮も短促である。どうして行いを通して真実と一体になった人々に伴うところの威風ある姿というものを想像する事ができよう。※西嶋先生解説――このことはどういうことを言っているかというと、人間というものは価値があるのかないのかよくわからんけれども、やることが立派ならば絶対の価値があるという事を言っておられるわけです。人間の値打ちというのはな...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 23

    この仏道の世界において、実際の実践を通して真実と一体になるという教化の仕方が行われるところでは、先ほど述べた胎生・卵生・湿生・化生という四種類の生物があるだけではなく、またその世界としても天上の世界、人間の世界、あるいはこの宇宙以外にも、まだ様々な場所があると考えざるを得ないであろう。この行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)に具わる威風を、ほんのちょっとのぞき見しようとする際には、天上界とか...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 22

    仏教界の先輩が言われた。「釈尊は迦葉仏から正しい宇宙の秩序を伝承し、この地球とは別の世界、兜率天に行って教化を施して、今も兜率天におられる」と。まさに銘記せよ。人間界において二千数百年前に生まれた釈尊は、兜率天に行くとき死去という姿を現すことによって、教化の実を挙げられたが、天上界の釈尊は今でも天上界にあって天上界の教化を行っているのであるそこで仏道を学ぶ人々が承知していなければならないことは、人...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 21

    ある人は、諸仏(真実を得られた方々)は、ただ人間の世界にのみ出現すると言い、人間以外の世界には出現しないと考えている。仮にその様な意見が正しいとするならば、現に仏(真実を得た人)がおられる場所というものは、人間の世界でなければならないのであろうか。このような考え方で、仏の世界、人間の世界というものを、特別な別の世界と考えるようであるならば、人間の世界だけが存在するとか、真実を得た仏の世界だけが存在する...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 20

    銘記せよ。仏道修行における実際の行動というものは、我々の日常生活において瞬間瞬間に生きたり死んだりしている実体そのものである。生きるとか死ぬとかと言う事は、仏教を勉強していく人々のごく普通の道具である。日常生活の生き死にというものは、それを実際に実践する事によって、かけがえのない貴重なものとして日常生活に現実に存在する事となるのであり、その実体は明々白々として、誰にでもわかるところのものである。そ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 19

    仮に無生(生まれることがない)という言葉を聞いた場合でも、この言葉は一体どういう意味を持って持っているのかという事を勉強する必要がある。「無生」と言う言葉を聞いて鵜呑みにし「ああそうか、無生」と言うような態度で、検討もしないでそのままに過ぎてしまってはならない。「無生」と言う言葉だけで満足してしまって「もうわかった、仏道は一切わかった」と言う人は、無仏(仏と言うものがあるかないか)・無道(真実と言うも...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 18

    すでに生命が生まれるという事については、四種類の区別があるということは聞き終わっている。それでは、死ぬという事については一体どのくらいの種類があるであろうか。四種類の生まれる形があるのであるから、やはりそれに見合って四種類の死に方があると考えるべきであろうか。生まれる形は四種類あるけれども、死ぬときの形は三種類だと考えたらよいのか、あるいは二種類だと考えた方がよいのか。単にそういうわずかな数ではな...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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