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2016年11月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 行仏威儀 16

    過去における仏教界の諸先輩が様々の形で「全宇宙」と同じ様子を具えた威風のある姿、「全大地」と同じ内容を具えた威風のある姿を説いているけれども、それらをどう学ぶかという事で考えるならば、明々白々としていて疑う事の出来ない我々の日常生活そのもの、現実そのもの、行動そのものが宇宙全体とまったく同質のものだと学ぶべきである。そして、この宇宙が何物も隠していないと言う事だけではなしに、ほんの小さな存在である...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 15

    我々の住んでいる世界を、無数の国土と表現したり、蓮華のような世界だと表現したけれども、それらはほんの一つの表現に他ならない。 仏教を勉強している多くの人々は、「全宇宙」という言葉を聞くと、人間の住んでいる娑婆の世界だと思ったり、東西南北の四つの大陸全部と考えたり、人によっては中国だけを天地一杯と考えたり、また別の人はこの日本だけが全宇宙だと考えたりする。そして「全大地」と言う言葉についても、単純に...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 14

    また考え方を変えてみるならば、我々の住んでいる世界というものは、頭でものを考えようとすると、天と地とほどに実体と理想とは遠い距離に隔たってしまう。そういう世界であればこそ、実際に行動で現実に対処するならば、真実に至るという事は必ずしも難しくはない。真実を実践する事によって威風のある姿を具えているならば、真実と一体になって体もきわめてゆったりした状態に置かれると言う事を理解すべきである。※西嶋先生解...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 13

    我々は様々な行動を行い様々な行動から離れ、同じ門を出たり入ったりして日常生活をやって行くのであるけれども、この我々の住んでいる世界は、一切が明々白々として隠されたものは何もないのであるから、釈尊が説かれた蜜語(声に出さない言葉)、蜜証(言葉で言わずに心の中で密やかに示された体験)、蜜行(人には見えないところで行われた実行実践)、蜜付(人には見えない形で後世の人々に与えた教え)等が実際にあるのである。我々の...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 12

    行仏威儀(行動する仏に具わる威風)というものを勉強してみるに当たって、一つの勉強の仕方がある。自分自身の意識からすると、ここに真実があり、ここに自分がある、と言う考え方が基礎になって行動を考えるわけであるけれども、実際の行動の場面になるならば、大鑑慧能禅師と南嶽懐譲禅師との場合の様に、自分自身であり、その相手であり、その自分自身、あるいはその相手に具わる威風が、まさに「行仏威儀」の実体であり、それは...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 11

    大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。釈尊の教えを実践するためには、釈尊の教えを棚上げしなければならないという事があるばかりではなく、自分自身の真実に対する燃える様な気持ちのために、釈尊の教えも消えてしまってただ一所懸命やるという実践の場面だけが出てくる場合もある。何もかもが問題にならなくなって、ただ一所懸命にやるという事の中に無限の価値があると言う事を忘れてはならない。真実を得られ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 10

    大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。まさに銘記すべきである。この大鑑慧能禅師、南嶽懐譲禅師の様に実際の行動を通して仏道を実践していくことが「行仏威儀」のきわめて優れた例に他ならない。この様な状態が真実を得られた沢山の方々の念願したところであり、自分もそうであり、お前もそうだという状態で生きておられた。 「お前も自分もまた同じ様な状態にわが身を置いている」と言われた大鑑慧能禅師の言葉...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 9

    大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。このようなところから考えてくると、「お前」と呼ばれた南嶽懐譲禅師も、理屈抜きに一所懸命毎日坐禅をしているから「仏」と呼ばれたのである。大鑑慧能禅師も理屈抜きに一所懸命毎日坐禅をしているから「仏」と呼ばれるに値するのである。このように考えてくると、この一所懸命日常生活をやっている手がニ本足が二本の生き物は、自分というレッテルを張ることもできないし、お...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 8

    仮に仏も一人もいない、人間も一人もいないという場面においても、百千万劫と言うような無限に近い年月を経過したとしても、行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)に対しては、誰もそれを汚すことができない。したがって、行動を通して真実を求めていく場合には、修行とか体験とかというものは、現実の具体的なものとしてあるのであって、頭の中で考えて修行が先で体験が後、と言う考え方で汚すというわけにはいかない。そ...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 7

    行仏(現実の世界で行いを通して真実と一体になっている仏)は、決して自分自身の持っている束縛に拘束されないのである。法華経の中に「自分は菩薩行(真実を求めて一所懸命努力する人の行い)を実際に実践した。その成果である生命が今猶(いまなお)尽きることなく、永遠の意味を持っている」と言われている釈尊の言葉がある。まさに銘記すべきである。「永遠」とは、頭の中で考えて、空(くう)にあって連綿として今でも続いていると...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 6

    論議や経典や論蔵などによって、理屈を通して釈尊の教えをはるか遠いところで聞いた人々の中でも、次のような事を言っている人もいる。「この我々が生きている世界の本質と言うものに関連して、我々の住んでいる世界の本質とは一体何かと言う考え方を起こすならば、理解がつかなくて迷いに迷っている姿に他ならない」と。この言葉は、この我々が住んでいる世界の本質というものに関連して、この世界の本質と言う考え方が起こって来...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 5

    行動を通してこそ、初めて仏道の世界に入って行くのである。修行を行動でしないならば、釈尊の教えと似たような様子はしていても、実際には人間にとって邪魔になる教えに巻き込まてしまって、それから脱け出す事が出来なくなってしまうのである。仏縛といっているが、この言葉の意味は、真実を頭の中や言葉の上だけで真実と理解し、現実のいま目の前にある外界を受け入れ、現実の目の前にある物事に対する理解に縛られてしまうこと...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 4

    我々が実際に行動する事と、ものを考える事とは、まったく別の世界の出来事である。この行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)は、与えられた瞬間瞬間に威厳のある姿が現実に具体化していくのであるから、その与えられる瞬間の直前においても、すでに威厳のある姿が具体的に現れ、その威厳のある姿は日常生活の瞬間瞬間に現れてきている。その様な威厳は人に何かを教えようよする場合に、その人が本当のものを掴んでいる場合...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 3

    まさに銘記すべきである。たくさんの仏(真実を得た人)と呼ばれる方々が、釈尊の説かれた教えの中にわが身を置いている状態は「さとり」を必要としないのである。悟ってから仏になるのではなくて、悟ろうと悟るまいと坐禅をしていれば仏である。そして、悟りを開いた後にも、さらに一所懸命仏道修行に励んでいくという、その日常生活のあり方がわかってくると、悟ったとか、悟らないと言う事はどうでもよくなって、ただ毎日坐禅を...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 2

    「行仏威儀」の巻、本文に入ります。諸仏(真実を得られた方々)は、例外なしに実際に行動し具わる威厳のある姿(威儀)を実践している。これこそが行動を通して真実と一体になっている仏(行仏)の実体である。※西嶋先生解説――ここで「行仏」という事を説いておられるわけでありますが、例えばこの「正法眼蔵」弁道話の巻の中に「修せざるに現れず、修せざるにはうることなし」という言葉があるわけで、仏道とは実際にやらなければ出て...

  • 正法眼蔵 行仏威儀 1

    「行仏威儀」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「行仏威儀」というのは何かというふうに考えてみますと、まず「行仏」の行は行うという意味、「仏」とは仏、行う仏というのはどういう意味かということが、まず最初に問題になるわけであります。この「行う」という事に関連しても、我々は人間の働きにはどういう種類があるかと言う事と関連づけて理解する必要があろうかと思います。人間の働きを大きく分けますと、三種類ある...

  • 正法眼蔵 仏性 82

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書の問答について道元禅師の注釈は続きます。我々の住んでいる現実の世界はこの様な世界であるにもかかわらず、動くならば「仏性がある」と考えたり、動かなくなったら「仏性がない」と考えたりする。また、我々の意識があるときには「魂がある」意識をなくなったならば「魂がない」と考える。また、我々の頭脳的な働きがある時には「仏性がある」頭脳的な働きがなくなった時には「仏性がない」と誤って固...

  • 正法眼蔵 仏性 81

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。別の例でこのことを説明するならば、たった一つの音によって現実の世界のありのままの姿が説かれていると言う事が現にあるということであると同時に、法を説くという事、現実を示すという事は、特別の言葉があるわけではなくて、現実の音が現に聞こえているという事に他ならないのである。法というものを考えてみても、抽象的な教えがあるわけではなくて我々...

  • 正法眼蔵 仏性 80

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。長沙景岑禅師が「物質としての力がまだなくなっていないまでだ」と言われたことは、この言葉のうちに、仏性というものがよく現されていると言えるであろう。物質的な力が仏性であるかどうかと言う疑問も持つべきである。また、仏性が物としての力だと言う考え方をするべきなのであろうか。仏性と物としての力とが二つあって、それが両方出て来ていると言うわ...

  • 正法眼蔵 仏性 79

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。この質問に対して長沙景岑禅師は「つまらん事は考えるな」と言われた。この言葉の意味は一体どういうことであろうか。「つまらん事は考えるな」と言う事に他ならない。それでは、頭と尻尾と両方が動いている時には特別な事を考える必要もなく、ただ現実がそこにあるのだと言う主張をされたのであろうか。その二つが動いているというのは具体的な事実であって...

  • 正法眼蔵 仏性 78

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。ミミズが二つに切れたけれども、それをつなぎ合わせて一匹のミミズと考えているのであろうか。その点では、頭と尻尾の両方が動いていると言っているけれども、均衡のとれた状態(坐禅)においては、逆に心も体も躍動する状態にあるし、智慧が本当に身についた時には、常識的には考え及ばないような斬新な考え方が出て来る。その様な坐禅とか智慧から生まれてく...

  • 正法眼蔵 仏性 77

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答です。弟子の竺尚書問う。ミミズが二つに切れて、頭の方も、尻尾の方もピクピクと動いている。仏性は頭の方と尻尾の方と、一体どちらにあるのでしょうか。長沙景岑禅師言う。つまらんことを考えるな。弟子の竺尚書言う。「つまらんことを考えるな」と言われるけれども、現にこの様に頭の方も尻尾の方もピクピク動いているではありませんか。長沙景岑禅師言うこれは、頭の方も尻尾の方も、物とし...

  • 正法眼蔵 仏性 76

    道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。雲居道膺禅師は「仮に釈尊の説かれた教えの周辺の事柄を学ぶ事について考えてみても、すでに誤って理性を活用しすぎてしまったと言う事に他ならない」と言われた。この言葉は、理屈であれこれ考えて様々な事を心配するよりも、現実にふれ、現実に直面し、日常生活を一所懸命生きろと言う事である。この様な雲居禅師の言葉から考えていくならば、全部ではなく、半分だけ釈尊の教えの...

  • 正法眼蔵 仏性 75

    道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。趙州禅師は「過ちを犯す」と言う説明をされたけれども、ことさらそういう説明をする事がどうしても必要だと言う事にはならない。現に犬は犬として犬らしく動き回っているその状態というものは、人間がその解釈上するのと同じ様に犬までが理屈をこねて、仏性が自分の体にあるとかないとかと言っているわけではない。そういう理屈を全部乗り越えて、犬は犬らしく動き回っているに過ぎ...

  • 正法眼蔵 仏性 74

    道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。趙州従諗禅師が言われた。:犬はすでに具体的な存在であるから、それをさらに犬という皮の袋の中にいれる必要はないのであるが、第三者がそのことを十分承知していながら、しかもすでに存在している犬をさらに犬という皮の袋の中に入れるという過ちを犯すためである。この言葉は、そのまま世間に通用する言葉として、長い間にわたって様々なところで言われてきた言葉であるけれども...

  • 正法眼蔵 仏性 73

    道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。僧がさらに質問した。:犬が現に目の前にいるという事は、仏性が現に目の前にあるという事は認めるとしても、どうして仏性というものが犬という皮の袋の中に入り込んでいるのでしょうか。この僧侶の言っていることの意味を考えてみるに、現に今あるというだけの意味なのか、過去から未来にわたってずっと続いてあるという意味であるのか。現に目の前にあるという意味で質問した場合...

  • 正法眼蔵 仏性 72

    道元禅師が趙州従諗禅師の無(仏性はない)と答えられた言葉を借りて、有(仏性はある)と言う主張をされます。趙州従諗禅師にある僧が質問した。:犬には仏性(仏の性質)があるのでしょうか、ないのでしょうか。この質問は、この僧侶が趙州従諗禅師が一体どんな返事をするかということを期待しながら問いを仕掛けたものであろう。この様なところから考えてみると、仏性というものについて意見を述べたり質問したりするという事は、仏...

  • 正法眼蔵 仏性 71

    「狗子に仏性ありや否や」という問答について道元禅師の注釈は続きます。趙州従諗禅師が言われた:犬に仏性があるとか、ないとかと言う論議が行われるのは、過去の行動によって積み上げられた「ものの考え方」というものがあるから、仏性があるとか、ないとかと言う事が問題になるのである。この言葉の意味は、物事をはたから第三者的に批評する立場からするならば、過去の行動によって積み重ねられたところの「ものの考え方」とい...

  • 正法眼蔵 仏性 70

    「狗子に仏性ありや否や」という問答にに入ります。趙州従諗禅師にある僧が質問した。:犬には仏性(仏の性質)があるのでしょうか、ないのでしょうか。この問題の趣旨をはっきりさせておく必要がある。狗子とは犬の事である。この質問は、「犬には仏性があるはずだがと質問したわけでもなければ、ないはずだと質問したわけでもない。「あなたは、本当の意味で仏道修行をしておりますか」と言う質問をしたに他ならない。趙州従諗禅...

  • 正法眼蔵 仏性 69

    潙山禅師と仰山禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。仏性(仏としての性質)を明白に現わすとは、片一方の目を開くことなのであろうか。片一方の目を失ってしまうことなのであろうか。つまり、片目の人がもう一つ目をつけて、両目でものが見える様になった状態と言うべきなのであろうか。あるいは、片目の人が、余分な目をつぶしてしまって目の見えない状態になった時に、一切が見えてくる状態なのであるうか。このどちらの...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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