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2016年09月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 仏性 37

    龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。我々は物の形を言う場合に、長い・短い・四角・円い等、様々な形容詞を使うけれども、そういう一切の形容詞がどういう意味を持っているかという点については、この龍樹尊者の示されたありのままの姿というものに学ぶべきである。体というものがよくわかり、現われるという事がよくわかっていないならば、龍樹尊者が円月相(丸い月と同じ様な欠けるける事のない円満な姿)と言われた...

  • 正法眼蔵 仏性 36

    龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。龍樹尊者が説法で「仏性は、大きい小さいと限定できない等々と言われた主張は、世間一般の常識的な立場の人々や、声聞(仏教を理屈で学ぶ)・縁覚(仏教を感覚で学ぶ)の人々と同じ立場の主張だと考えてはならない。仏性を考えると言うと、途轍もなく大きいもの、茫然としたものと言う理解の仕方をしがちであるけれども、そういう理解の仕方は間違った考え方を長年にわたって持ってき...

  • 正法眼蔵 仏性 35

    龍樹尊者の説話について説道元禅師が注釈されます。我々の人生において様々な働きがあるけれども、その働きのすべてが、耳で聞こえ、目で見えるものだけではない。耳で聞こえないもの、目で見えない働きというものが日常生活の中にはいくらもある。したがって本当の意味での説法は、目で見える、耳に聞こえると言う形だけのものではない。龍樹尊者が過去に多くの場所で説法された回数は、ほとんど数え切れない程であり、今は仮にそ...

  • 正法眼蔵 仏性 34

    龍樹尊者の教えを聞いた人々は、その教えの優れていることを知り、最初の考え方を切り替えて仏道を勉強してみる気になった。そこで、龍樹尊者は再び自分の席で坐禅をして自分自身の姿を現された。自由自在な境地を現されたその姿は、ちょうどまん丸になった月の姿と似ていた。そういう形で龍樹尊者が自由自在の境地に坐っていた時に、説法を聞いていた人々はあたかも龍樹尊者の姿がそこにはない様な印象を受けた。この説法を聞いて...

  • 正法眼蔵 仏性 33

    龍樹尊者は魔訶迦葉尊者から数えて第十四代目の教団指導者で、梵語ではナガ-ルジュナといい西インドの人である。龍樹尊者はかつて南インドに行った。南インドの多くの人々は、世俗的な日常生活における幸福を目的とした行為を正しいと信じていた。そこで、尊者はこの国の人々に対して釈尊の説かれた素晴らしい宇宙秩序の教えを説かれた。しかしこの尊者の教えを聞いた人々が互いに言う。人々言う:人間は努力する事よって幸福が得...

  • 正法眼蔵 仏性 32

    六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。釈尊が「最高で均衡のとれた正しい真実」というものを説かれた。この「最高で均衡のとれた正しい真実」というものは、仏性に他ならないのであるから、その仏性に他ならないところの「最高で均衡のとれた正しい真実」は無常そのものを説かれているのである。恒常的な変化をしないものではなくて、常に変転して動いていくものが釈尊の説かれた「最高で均衡のとれた正しい真...

  • 正法眼蔵 仏性 31

    六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。聖者と言えども、一日一日と年をとっていくという点では変わりがない。凡人と言えども、一日一日と年をとっていくという事については変わりがない。聖者であれ、凡人であれ、具体的な生身の人間として生きている場合が無常(変転常ないもの)仏性である。抽象的に「聖者だ、凡人だ」と頭の中の区別だけで考えたところには仏性というものはない。もし仮に抽象的に仏性は永遠...

  • 正法眼蔵 仏性 30

    大鑑慧能禅師が門人の行昌に説示して言われた。 無常(変転常ないもの)を仏性というのである。有常(恒常的なもの)とは善悪の判断で、あれはいい、これは悪いと決めつけていく理性である。大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師がさらに注釈されます。ここで大鑑慧能禅師が言っている無常とは、外道(仏教を信じない人々)や二乗(頭や感覚で仏教を学ぶ人々)の想像できる範囲のものではない。外道、二乗の人々は「仏性は恒常的なもので、...

  • 正法眼蔵 仏性 29

    六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。大鑑慧能禅師が言われた「人間には南の出身、北の出身といろいろあるが、仏性には南だの北だのというものはない」という言葉を、長い期間にわたって何回となくそれを拾い上げて検討してみるべきである。その動作そのものが力量の源となるであろう。大鑑慧能禅師の言われた言葉を、静かに取り上げて検討し、それを打ち捨てて、そういう問題から超越すると言う事をやるべき...

  • 正法眼蔵 仏性 28

    六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。四祖大医道信禅師と五祖大満弘忍禅師は問答の中で、無仏性と言う言葉を使われたけれども、迦葉仏や釈尊が言われた悉有仏性という言葉と全く意味内容は同じである。釈尊の言われた悉有仏性と言う言葉がどうして無仏性と同じものでない事があろう。この様に「悉有仏性」と言う釈尊の言葉があったればこそ、我々の本来の性質は、有るとか無いとかを超越していると言う意味で...

  • 正法眼蔵 仏性 27

    中国の第六祖大鑑慧能禅師が言われた。 人間には南の出身、北の出身といろいろあるが、仏性には南だの北だのというものはない。※西嶋先生解説このことはどういうことかというと、南とか北と言ってみても、人間が勝手に決めた名前だ。その点では、下足の番号札と同じようなものだ。一番とつけようと、三番とつけようと、五番とつけようと大した変わりはない。だから、太陽の出る方が東で、太陽の沈む方が西だというふうな東とか西...

  • 正法眼蔵 仏性 26

    第六祖大鑑慧能禅師と第五祖大満弘忍禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。大満弘忍禅師は大鑑慧能禅師に対して言われる際に、五領南の人々は無仏性(仏性という名前を付けることさえもったいないような尊い性質)を具えていると言われたのである。仏教というものに出会い、釈尊の教えを聞く最初の段階において、なかなか機会に巡り合わず、また聞くことのできない教えというものは、衆生無仏性なり(生きとし生けるものは...

  • 正法眼蔵 仏性 25

    第六祖大鑑慧能禅師と第五祖大満弘忍禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。「一切衆生悉有仏性」と言う言葉を聞くと、我々には生まれながらに仏性と言う尊い性質が具わっていると理解しがちであるけれども、仏性に関する基本的な考え方というものは、我々が真実をつかむ以前から本来の性質として具わっていると言う事ではない。仏性というものは、人間が成仏(真実を得た人)になった時に同時に具わるものである。この基本...

  • 正法眼蔵 仏性 24

    中国における第六祖大鑑慧能禅師が、かつて黄梅山において第五祖大満弘忍禅師の弟子になった最初の時点で、大満弘忍禅師に質問された。大満弘忍禅師問う:お前は何処からやってきたのか。大鑑慧能禅師答える:私は五嶺南の地方から来た者でございます。大満弘忍禅師問う:お前は一体何が目的でやってきたのか。大鑑慧能禅師答える:自分は仏になりたいと思います。大満弘忍禅師言う:五嶺南の出身者には仏性がない。いまさら仏にな...

  • 正法眼蔵 仏性 23

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。ここで「無」と言う言葉が使われているけれども、その無と言う言葉が使われている個々の例は、「その個々のものがあるとか、ないとかという言葉で決めつける事のできない何かだ」という事を言っておられる事に他ならない。空という言葉、(あるとか、ないとかと言うふうに決めつけられないものという表現)が、本当の意味での無というものを表現する力...

  • 正法眼蔵 仏性 22

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。大満弘忍禅師が大医道信禅師の言葉に答えて言うには「仏性というものは我々の言葉では中々捉えがたいものであるから、何もないというのである」と。この様な言葉から考えてくると、空(有とか無とかという言葉)では表現できない状態というものは、無という「ない」という言葉とは意味内容が違うという事をここではっきり言われている。そして仏性とい...

  • 正法眼蔵 仏性 21

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。ここで、大医道信禅師が無仏性(仏性と言う名前をつけるのさえもったいないほど素晴らしい性質)と言われた事は、ほんのひと時のあいだ坐禅をやって、三昧の境地に入るということが無仏性と言う言葉の意味だと言う学び方もある。この様に考えてくると、仏性がしっかり発揮されている時を無仏性と言うのであろうか。仏性を得たいと思う気持ちを起こし...

  • 正法眼蔵 仏性 20

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。大医道信禅師は大満弘忍禅師に対して「お前には仏性はない」と言われた。この言葉の意味は「お前は無仏性という性格を持っている。仏だ、仏でないというふうな表現を乗り越えた本質的なものを持っている」と別の表現の仕方で言われたのである。ここで大医道信禅師言われた趣旨は、「お前は言葉では表現する事の出来ない、名前では呼べないところの誰...

  • 正法眼蔵 仏性 19

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。大医道信禅師の質問に対して大満弘忍禅師が「自分の姓は仏性というものであります」と言う返事をされた。この大満弘忍禅師の答えがどういう意味を持っているかというと、具体的な本質というものは仏性と呼ばれます、と言う意味に他ならないし、我々が持っている本質的なものは言葉ではなかなか説明できないから、仮に仏と言う名前を付けているに過ぎ...

  • 正法眼蔵 仏性 18

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。大医道信禅師が言っている事の意味は「お前の姓は一体何か」と言っておられるけれども、その「何」と言う言葉の意味は、言葉では表現する事のできない何かだということを言っているのであり、それは具体的な現実そのもの、本質的なものを言っているのである。その具体的な本質的なものを言い表そうとして、言葉では表現することのできない何かと言っ...

  • 正法眼蔵 仏性 17

    五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師が注釈されます。これらの祖師方の言われた事を考えてみるに、大医道信禅師が大満弘忍禅師に対して「お前の姓は一体何か」と問いかけをしたことについては、その狙いとするところである。昔の仏教の指導者がお互いに問答を交わした場合には「姓は何というか」と言う問いかけの他に「どこの国の人か」と言う問いかけで仏教に関する問答を行った例もある。ここでの趣旨と...

  • 正法眼蔵 仏性 16

    中国における第五代目の教団指導者である大満弘忍禅師は蘄州黄梅県の人であった。大満弘忍禅師は父親のいない境遇に生まれ、子供の時からすでに真実というものが何かということがわかっていた。これがいわゆる裁松道者であり、松を植えることを仕事として生きていた。はじめ、蘄州の西山に住んで松を植えていた。ところがたまたま、中国の第四代教団指導者である大医道信禅師がそこに来られて、松を植えていた道者に告...

  • 正法眼蔵 仏性 15

    馬鳴尊者の言葉について道元禅師の注釈は続きます。そしてまた仏道修行によって得られる境地も、六種類の神秘的な働き(六通)も、この仏性から発現するといわれているけれども、ここで知ることができる。様々の仏道修行によって得られる境地の発現の原因は、皆同じように仏性によって現れて来るのである。一切の神秘的な働きもこの仏性から現れるのであり、また仏性を超越したところで現れるのであって、それらがいずれも本質的に仏...

  • 正法眼蔵 仏性 14

    摩訶迦葉尊者から数えて十二代目の教団指導者である馬鳴尊者が、十三代目の教団指導者である迦毘摩羅尊者に仏性によって成り立っている世界を説くに当たって言う。山・川・大地は、みな仏性によって建立されているのであり、三昧(仏道修行の結果によって得られる境地、坐禅によって得られる境地)も六通(人間が持つ六種類の神秘的な働き)も仏性が基礎になって発現するものである。馬鳴尊者の言葉について道元禅師が注釈されます。こ...

  • 正法眼蔵 仏性 13

    釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。ここではっきり知っておかなければならないことは、「時間におけるこの世のあらゆるものをよくよく観察してみるべきである」と言う言葉の意味は、我々が与えられている二十四時間のうちの一瞬と言えども無駄に過ごさない事に尽きる。時期が来たならば仏性が現れるだろうと言う考え方をしているならば、何時までたっても仏性は到来しない。我々が現在の瞬間において生きていると言う事...

  • 正法眼蔵 仏性 12

    釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。古くから仏教を勉強している人々がえてして考えがちなところは、いま現在においては仏性がないけれども、いずれ仏性が現れて来るのであるからその時期を待つのだと考えている。この様な心構えで一所懸命仏道修行をして行くと、そのうち自然に仏性というものが現れてくる時期に出会えるだろうと考えている。その時期が到来しないのならば、師匠について様々の教えを聞いたとしても、あ...

  • 正法眼蔵 仏性 11

    釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。仏教においては様々の智慧というものを説いている。有漏智(様々な障害を少し伴った智慧、様々な欲望その他が絡み付いている智慧)・無漏智(有漏智がなくなった智慧)・本覚(生まれる前から本来自分たちが具えているところの智慧)・始覚(いま初めて自分に与えられたところの智慧)・無覚(智慧は本来ないと言う理解の仕方)・正覚(正しい智慧が具わっている)。智慧に関連してもいろいろな考...

  • 正法眼蔵 仏性 10

    「大般涅槃経」において釈尊が言われてる。   仏性というものの意味を知りたいと思うならば、具体的な時間におけるこの世のあらゆるものをよくよく観察してみるべきである。自分の現在における与えられた時間というものをしっかりと見つめるならば、仏性はすぐに現れてくる。釈尊の言葉について道元禅師が解釈されます。ここで釈尊が「仏性というものの意味を知りたいと思うならば」と言われているが、その知ると言う事は、単に...

  • 正法眼蔵 仏性 9

    「仏性」について道元禅師の注釈は続きます。仮にこのように、仏性は草や木の種のようなもので、だんだんに大きくなるという考え方をしたとしても、その種や花の実は何かと言えば、それらはいずれも、我々の日常生活における瞬間瞬間の赤心(真心)であり、赤心に基づいた行動である。それ以外にありえないというふうに学ぶべきである。果実の中には種があり、その種の中に根や茎が見えるわけではないけれども、種から根や茎などが...

  • 正法眼蔵 仏性 8

    仏性について道元禅師の注釈は続きます。この世の一切というものは、個々バラバラに分かれている単なる物質の集積ではない。またこの世の一切というものは、心というものを中心にしてまとめられたところのたった一つのものでもない。この我々の住んでいる世界とは、一体何かと言えば拳を振り上げるというふうな、日常の具体的な行動に現れるところの現実そのものであるから、それが大きいとか小さいとかというふうに表現するわけに...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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