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2016年08月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 仏性 7

    仏性について道元禅師の注釈は続きます。しばしば起こりがちなことであるけれども、昔の長年の修行を重ねた先輩方が、ある場合にはインドへ行き仏道を理解して、あらゆる人々を教化指導した例は、漢の時代から宋の時代に至るまで稲、竹、葦の数と同じくらい無数にあるけれども、それらの仏教界の諸先輩方の多くは単に物質的なものが動いた事を目して、人間の心理作用、頭の中で動く動きを仏性によって物事を捉えた状態だと考えてい...

  • 正法眼蔵 仏性 6

    仏性と言う言葉を聞いて、仏道を勉強している多くの人は、先尼外道(セニカと呼ばれるバラモン僧)の主張する考え方が仏教の考え方だと思っている。釈尊が生きていた時代に、先尼外道が唯心論(この世の一切は魂の所産である)と言う考え方を主張した。しかし先尼外道の考え方は仏教的な考え方ではない。なぜ、仏道を勉強している多くの人は、先尼外道の主張する考え方を仏教の考え方だと思っているのか。その理由は、それらの人々が...

  • 正法眼蔵 仏性 5

    釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。また別の立場から見るならば、この世の中というものは、本来、永遠の過去からずっと続いて存在しているものだと言葉だけで決めつける事も当たらない。なぜかというと、この世の中は、永遠の過去から永遠の未来にまたがって実在として続いているものである。また、現在自分が生きているという瞬間瞬間にこの世の中が生まれるのかと言うと、必ずし...

  • 正法眼蔵 仏性 4

    釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。この世の中の一切の生きとし生けるものの存在が、何らかの努力によって累積されるものであるとか、何らかの客観条件から生まれたものであるとか、実在として現に存在するものであるというふうな解釈が仮に当っていたとするならば、仏教界において真実を得られた沢山の方々の体験も、それらの方々が把握された真実も、釈尊ご自身がもっておられた...

  • 正法眼蔵 仏性 3

    釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。ここではっきり知っておかなければならないことは、真実そのものの性質によって保たれているところのこの現実の世界は、あるとかないとかという頭の中で考えられた存在ではなくて絶対の存在である。したがって、この世の中の一切という言葉は釈尊の教えを基礎とした言葉であり、釈尊ご自身が述べられたところであり、釈尊がものを見られたその真...

  • 正法眼蔵 仏性 2

    「仏性」の巻、本文に入ります。「大般涅槃経」において釈尊が言われた。「すべての生きとし生けるものは、すべて仏(真実を体得した人)としての性質を有し、また一たび仏となったものは、永恒の存在として変異することがあり得ない。釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師が注釈されます。この「大般涅槃経」に説かれている言葉は、我々の偉大な師匠である釈尊の言葉である。この言葉は釈尊だけの考えで...

  • 正法眼蔵 仏性 1

    「仏性」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。仏性というのは仏の性質という事で、真実を得た人が持っているところの性質という事が言葉の意味であります。ただそこで仏というのは何かというふうな問題に入っていきますと、仏教では一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは悉く仏性を具えている)と言う考え方があるわけであります。この「衆生」というのは、一切の生物、そして単に生物だけではなしに、一切のこの世の...

  • 正法眼蔵 看経 22

    大先輩である薬山惟儼禅師が、高沙弥に質問して言う。禅師問う:お前は真実を得たといわれているけれども、経典を読むことによって真実を得ることができたのか、師匠の説法を聞くことによって真実を得ることができたのか。高沙弥答える:自分は経典から得たわけでもありませんし、また師匠の説法を聞いて得たわけでもありません。禅師問う:世の中には経典も読まなければ、説法も聞かないたくさんの人々がいる。それらの経典も読ま...

  • 正法眼蔵 看経 21

    現在、釈尊以来の伝統を保持している教団においては、経典を読むその読み方については様々の種類がある。一つには、寺院にたくさんの寄付をした人が寺院に来て、僧侶に対して「どうかお経を読んでください」と頼み、その頼みに従って僧侶が全員で経典を読む場合がある。あるいは何がしかのお金を寺院に寄付して、「毎日お経を上げてください」という頼み方をする場合もある。あるいは僧侶自身が自発的にお経を読む場合もある。この...

  • 正法眼蔵 看経 20

    雲居道膺禅師の教団に一人の僧侶がいて、ある時、自分の部屋で経典を読んでいた。その時、窓の外を通りかかった雲居道膺禅師がその僧に質問した雲居道膺禅師問う:お前さんが今、声を出さずに読んでいる経典は一体何の経典だ。僧答える:これは「維摩経」であります。雲居道膺禅師言う:私はお前に経典の名前が「維摩経」だと言うふうな事を聞いたのではない。お前が読んでいる経典は、言葉で説明する事のできない何かを教えている...

  • 正法眼蔵 看経 19

    冶父道川禅師の話に入る前に西嶋先生が解説されます。前回の薬山唯儼禅師は経典を読むことは、常日頃はやらなくてもいい事であって、自分の目が冴え過ぎている、あるいは自分の頭が冴え過ぎている時に、それを曇らせるために経典を読むのだと言われた。ところが冶父道川禅師の言葉は、薬山禅師の立場と全く逆に、経典を読むことそのものを真正面から最高のものとして肯定しておられる。仏道というのは、このように相矛盾する考え方...

  • 正法眼蔵 看経 18

    薬山唯儼禅師と僧侶との問答について道元禅師の注釈は続きます。このように考えてくると、眼と経典とが完全に一つになった状態でないならば、眼の鋭さを和らげて本当の意味でものが見える様になり、教典を読める様になると言う効果というものは出にくいものである。眼の鋭さを少し減らして、本当のものが見えるようになるという事は、眼と経典とが完全に一つになった時に他ならない。それからまた薬山禅師が、「たとへ経典が牛の皮...

  • 正法眼蔵 看経 17

    薬山唯儼禅師は、常々人に対して経典を読む事を許されなかった。ところが、ふだん弟子に対して「経典を読んではならん」と言っていた薬山禅師がある日、経典を手にして自分で読んでおられた。そこである僧が質問した。僧問う:和尚は常々、人に対して経典を読む事をお許しになりません、それがどうしてご自分から経典を読んでおられるのですか。薬山禅師言う:仏道修行によって、あまりものがはっきりと見え過ぎるから、ちょっとそ...

  • 正法眼蔵 看経 16

    大先輩である洞山悟本大師について言えば、ある時役人が洞山大師のために昼食を用意し、浄財を寄進して、洞山大師に「大蔵経」を読んで下さいとお願いした。洞山大師は坐禅をしていた椅子から下り、役人に向かって一礼した。役人も洞山大師に対して一礼した。そこで洞山大師はその役人と一緒に坐禅の椅子の回りを一回廻って、ふたたび役人に対して一礼した。そしてしばらくしてから、役人に向かって「自分達がどう言う事をやったか...

  • 正法眼蔵 看経 15

    益州大隋山の大隋法真禅師は長慶寺の大安禅師の後継者であった。大隋法真禅師のところへある時、一人の老婆に寄進を頼まれた使者がやって来た。使者は老婆に頼まれた浄財を献上した。そして、大隋法真禅師に「大蔵経」を読んで下さいと言う老婆のお願いを申し出た。そこで大隋法真禅師は、坐禅の椅子から下りてその椅子をぐるっと回って使者に向かって言った。「さあ、これで大蔵経を全部読み終わった」と。使者は戻って、老婆に趙...

  • 正法眼蔵 看経 14

    趙州従諗禅師の説話について道元禅師が注釈されます。今述べた趙州禅師の話から次のような事が知れる。老婆は「大蔵経」の全部を読んだとか、半分を読んだとか言っているけれども、老婆の言う「半蔵」とは一巻に他ならないのだから、「一蔵」はその倍の二巻にあたり、したがって「一蔵、半蔵」は結局老婆の立場でいう経典三巻に相当する。しかしながら、趙州禅師が「経典を読む事がこれで終わった」と言ったときの事情は、趙州禅師...

  • 正法眼蔵 看経 13

    趙州従諗禅師の話に入る前に西嶋先生が解説されます。今日から入っていく部分は、お経を読むという事の意味を今までとはまた別の立場から説明するくだりになるわけであります。別の立場から説明するというのはどういうことかと言いますと、仏教とは人間の行動する世界の問題を取り上げた考え方という事が言えるわけであります。そのことを具体的に言いますと仏道修行を積んだ僧侶が足を運ぶ、ご飯を食べる、手洗いに行くというふう...

  • 正法眼蔵 看経 12

    般若多羅尊者と国王との問答について道元禅師の注釈は続きます。しかしながらここで考えている境地というものは、煩悩があるとか、煩悩がないとかと言う理性的な智慧の世界で考えられた境地のものではない。それは、汚れているとか汚れていないとかという形での現実世界の中の出来事ではない。それは、汚れと言うものを超越した絶対の現実世界におけるあり方である。したがってこの様な出息、入息の境地(現実の行動の世界の出来事)...

  • 正法眼蔵 看経 11

    我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」五つの集合体の事である。五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。※西嶋先生解説――色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)想蘊(その感覚的に受け入れたものを頭の中であれこれと考える働き) 行蘊(その考えに従って自分の体を動かして様々の行動をする働き) 識蘊(その行動の結果、自分の心や頭の中に形...

  • 正法眼蔵 看経 10

    般若多羅尊者と国王との問答について道元禅師の注釈は続きます。不髄は渾髄なり(周囲に引きずり回されない、周囲に拘束されないと言う事は徹底して周囲に従っていく事である)。すんなりと日常生活をしようと思っても、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりと言う事が実際である。吐く息と言えども、見方によっては物の一部に他ならないけれども、しかもそういう物質的な基礎を踏まえながら、自由自在の生活をしていくというのが仏...

  • 正法眼蔵 看経 9

    般若多羅尊者(東インドの摩訶迦葉尊者から数えて第二十七番目の仏教教団の指導者)が、東インドの国王に招待されて正式の食事を受けている際に、国王から質問された。国王言う:僧侶の方々は、いずれも経典を読むことをなさいます。ところがあなたは決して経典をお読みになることがありませんが、それはどういうわけでございましょう。般若多羅尊者答えて言う:自分の吐く息は独立独歩であって、周囲の環境に煩わされていない。吸...

  • 正法眼蔵 看経 8

    法達の偈を聞いて大鑑慧能禅師が言われた。「お前は本当の意味で法華経の趣旨がわかったのであるから、今日以後は念経僧と自分を呼んでもよい」と。明記せよ。大鑑慧能禅師の言葉によって、釈尊の教えの中には経典を単に文字として読むだけでなくて、自分の心のあり方として常に持っている僧侶があることが知れる。そのように釈尊の教えの中には、念経僧という僧がいるということは、大鑑慧能禅師の直接のお言葉であるから誤りであ...

  • 正法眼蔵 看経 7

    大鑑慧能禅師の偈(詩)について道元禅師が注釈されます。この大鑑慧能禅師の偈の教えから知る事が出来ることは、心が迷った場合には周囲の環境によって引きずり回され、心が落ち着いている時には周囲の環境を引きずり回す事が出来る。また心が落ち着かない時には、「法華経」の意味に引きずり回され、心が落ち着いた時には、「法華経」の意味を読み取る事が出来る。ところが、この迷いとか悟りとかと言う差別の世界を乗り越えるなら...

  • 正法眼蔵 看経 6

    大鑑慧能禅師の教団に、法華経を唱えて一所懸命に仏道の修行をしていた法達と言う僧侶がやって来た。この法達と言う僧侶は、すでに法華経を三千回唱えたと自分で話していた。そのとき、大鑑慧能禅師は法達に対して「法華経」を読む事の意味を伝える意図から偈(詩)をつくって説いて言われた。「心が様々の考え方に引きずり回されて迷っている場合には、周囲の環境によって自分自身が引きずり回される。心が落ち着いて環境がはっきり...

  • 正法眼蔵 看経 5

    薬山禅師は長い期間にわたって、法堂(説法する建物)に上がって正式の説法をする事がなかった。そこで監院(寺院の中で事務を取り扱う)の職にある僧侶が申し上げて言った。僧言う:寺院の沢山の僧侶たちが、長い間、師匠の説法を聞きたいと希望しております。薬山禅師言う:よし、それでは説法してやるから鐘を打って知らせよ。監院の僧侶は喜んで鐘を打つと、少人数ではあるけれども、僧侶が法堂に集まって来た。そこで薬山禅師...

  • 正法眼蔵 看経 4

    世間における名誉や評判を得たいがために、釈尊の教えとは異なった論議をする人々は、釈尊の説かれた仏教経典を実際に実践し体験する事は出来ない。それであればこそ、経典では「若樹若石」あるいは「若田若里」の切実な伝承があり受持があるのである。※西嶋先生解説――「若樹若石」「若田若里」について。釈尊は生まれる以前はどの様な境涯を送られたかという事の話の中に、雪山童子という話が出てくる。この雪山童子というのは、...

  • 正法眼蔵 看教 3

    経典を読むことは、釈尊の真実を究めるための一つの重要な方法である。そのやり方については、経典の内容を頭に思い浮かべる念経もあるし、心静かに経典を読む看経もあるし、声を出して大声で経典を読み上げる誦経もあるし、経典を書き写す書経もあるし、経典をいただく、受けとるという受経もあるし、その経典を持ち続けていくという持経もある。これらの経典に関する様々な行動はいずれも、仏教界で真実を得られた方々の修行であ...

  • 正法眼蔵 看経 2

    「看経」の巻、本文に入ります。釈尊の説かれた、最高にして均衡のとれた正しい真実を実践し体験するという事は、ある場合には優れた師匠を通してこれを学び、ある場合には経典を勉強してこれを学ぶ。自分が教えを受けるべき高徳の僧侶とはどういう人かというと、自分の本質というものがすっかり外側に出てきた仏教界の諸先輩を言うのである。経典というのは、読む人自身の事がすっかり書いてあるものが経典である。※西嶋先生解説―...

  • 正法眼蔵 看経 1

    「看経」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。今日、看経というと大きな声をあげて「観自在菩薩・・・・」と大声に唱えるのが看経と言われていますが、道元禅師の「看経」の巻のお考えというものは、必ずしもそういうふうに声をあげて経典を読むという事ではなしに、むしろ静かに読んで経典の意味を理解し考えるという事が「看経」の意味になるとみてよいかと思います。この経典を読むという事については、元来、仏道というのは...

  • 正法眼蔵 古鏡 51

    南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。。瓦であれ、鏡であれ、一所懸命磨いている時の状態は他の時とは様子が違う。坐禅をやっている時には、はたから想像していた状況と全く状況が違う。しかしながら、ここで南嶽禅師が言っている事は、真実を得られた南嶽禅師の事であるから、まさに真実そのものの言葉であろうし、結局のところは瓦を磨いて鏡を作るという事に他ならないのであろう。したがって、...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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