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2016年06月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 古鏡 18

    雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答について道元禅師が注釈されます。ここで雪峰禅師が言われている「現実は主観と客観との絡み合いである」とは、「言葉で表現する事のできない何かである」と学ぶべきである。そこで取り敢えず、雪峰禅師が説かれた古鏡(永遠の価値を持った鏡)について学んでみよう。「一つの古境と見立てて考えることが出来る」と言われた「一つ」とは、辺涯が永久になくなって、内と外の区別が全くなくなった状態...

  • 正法眼蔵 古鏡 17

    雪峰義存禅師が、ある時たくさんの僧に示して言う。「現実は主観と客観との絡み合いであるけれども、この主観と客観との絡み合いが一体どういうものかということを理解したいと思うならば、自分の現在の境地を、一つの「永遠の意味を持った鏡」と見立てて考える事が出来る。なぜ鏡に見立てる事が出来るかと言うと、外国人が鏡の前に来ると、鏡の中に外国人の姿が現れ、中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる。この様に我々の境...

  • 正法眼蔵 古境 16

    南嶽懐譲禅師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。もし海が涸れてしまうならば海の底が出てくると常識的には考えられる。しかし、仏教的な立場から考えるならば、海が涸れてしまったと言う事は、海がなくなった事であり、底もないという事になる。そういう理論を勉強してみるべきである。我々が住んでいる現実の世界というものは、ぶち壊していいような何物もないし、自分自身がその現実の世界に大いに刺激されて、動揺を...

  • 正法眼蔵 古鏡 15

    南嶽懐譲禅師と僧の問答について、道元禅師が注釈されます。我々の周囲を取り巻いている様々の姿・形というものは、一体これが何だということはなかなか決めにくいけれども、その根源をたずねてみると、鏡――我々の体や心というものを通して見られ、つくられたものだという証というものが、この南嶽懐譲禅師の言葉によってはっきりと知ることが出来る。鏡というものは、それが単に金属ともいえないし宝玉ともいえない。また鏡という...

  • 正法眼蔵 古鏡 14

    南嶽懐譲禅師の教団において、ある僧が南嶽懐譲禅師に質問した。僧問う鏡(の素材である金属)を鋳直して像を造った場合、(鏡のぴかぴかとした)光はいったいどこに行ってしまうのですか。禅師答えて言うお前さんがまだ出家していなかった時分の姿・顔かたちというものは、出家して頭を丸めて以降は一体どこに行ってしまったのか。僧問う像を造った場合には、材料は同じ金属でありながら、なぜ鏡として光ること、物を映すということが...

  • 正法眼蔵 古鏡 13

    大鑑慧能禅師が大満弘忍禅師に差し上げた偈について、道元禅師の注釈は続きます。我々の体や心というものも、何か実体があってそれに姿が映ると言うことではない。だから体や心に実体がないと言うことも大切な考え方である。よくよく考えて見る必要がある。そして我々の体や心そのものも、非常に優れた鏡であって、それが活躍しているときには、そのままそれについていけばいい、ついていくしかない。そういう点ではその場その場の...

  • 正法眼蔵 古鏡 12

    大鑑慧能禅師が大満弘忍禅師に差し上げた偈について、道元禅師が注釈されます。この大鑑慧能禅師の言葉をよく勉強してみなければならない。大鑑慧能禅師に関しては、世間の人々は「永遠の価値を持った真実の人」と言っている。圜悟克勤禅師が言われるには「大鑑慧能禅師は永遠の価値を持った真実の体得者であって、その前に自分は頭をひれ伏して礼拝する」と。銘記せよ。圜悟克勤禅師によって真実の体得者であると呼ばれた大鑑慧能...

  • 正法眼蔵 古鏡 11

    大鑑慧能禅師は摩訶伽葉尊者から数えて第三十三代目の教団指導者である。かつて黄梅山において第五祖大満弘忍禅師の弟子として仏道修行をしておられたとき、大満弘忍禅師に差し上げた偈に言う。仏道修行で求めている真実というものには本来、客観的な何かというものがあるわけではない。その真実をとらえるところの鏡というものも、客観的に台があってそこに何かが映るという形のものでもない。本来の我々のあり方というものを考え...

  • 正法眼蔵 古鏡 10

    伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。心と眼とが同じようだと言われていることをさらに説明するならば、心は心としての本来の姿を現し、眼は眼としての本来の姿を現していることに他ならない。その点では、それぞれが実体を現しているという状態そのものが心であり眼である。心――ものを考える主体も、その本来の姿を現しているし、眼――すなわち物を見る主体も、その本来の姿を現しているという意味...

  • 正法眼蔵 古鏡 9

    伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。大円鑑には、内・外と言う言葉が使われているけれども、その内――心というものに重点を置いてみても、それには形があり姿がある。ものを考える主体もあればものを見る主体もある。そしてまた、心と眼とが同じようにものを見る、 同じ見方をすると言う実情も具わっている。その外――外界の世界に関連しても、形があり姿がある。その形・姿にも、ものを考える主体...

  • 正法眼蔵 古鏡 8

    伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者との問答について道元禅師の注釈は続きます。伽耶舎多尊者は幼い頃から、何か自分の中に一つの基準というものがあって、自分自身がわからないことをその基準に尋ね、その基準に従って行動したということが具わっていたに過ぎない。その点では、生まれつき物事を判断する智慧が具わっていたと見る事ができる。この大円鑑(偉大な円い鏡)が、伽耶舎多尊者が生まれたと同時にこの世に現れたと見た方が正し...

  • 正法眼蔵 古鏡 7

    伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。   仏道を学ぶ人々が知っておかなければならないことは、仏道において智慧は確かに説くけれども、智慧だけが仏道の全てではない。真実を得られた方々がいづれも持っていた大円鑑(偉大な円い鏡)というものは、確かに我々が生まれた時からこの大円鑑をも持っているということが一つの経験として否定できないところではあるけれども、さらにその上に論じてお...

  • 正法眼蔵 古鏡 6

    伽耶舎多尊者が師匠の僧伽難提尊者に出会った時の問答です。伽耶舎多尊者が外出したある時、僧伽難提尊者が歩いてくるのに出会った。伽耶舎多尊者は真っ直ぐ進んで僧伽難提尊者の前に立たれた。僧伽難提尊者言う。「お前が手に持っているものは、一体何を表わしておるのか」と。この「お前が手に持っているものは、一体何を表しておるのか」という言葉は、問いかけのように聞こえるけれども、これは質問ではなくて、一つの主張だと...

  • 正法眼蔵 古鏡 5

    伽耶舎多尊者の例を引いて「古鏡」について具体的な説明は続きます。伽耶舎多尊者が僧侶となって、戒律をさずかって以降はこの円い鏡は見られなくなった。つまり僧侶になった事によって一切のものが具わってきた。そこで円い鏡という特別なものがなくてもすむようになった。このような様子を見て、近隣の人々も遠方の国の人々も同じように、非常に素晴らしい事だと賞賛を惜しまなかった。まさにこの娑婆世界(地球世界)においては...

  • 正法眼蔵 古鏡 4

    伽耶舎多尊者の例を引いて「古鏡」について具体的な説明は続きます。子供時代の尊者が睡眠をとる時には、円い鏡がその上を覆って花笠の様になり、また正坐をする時には、その円い鏡は尊者の目の前にある様にみえた。総じて尊者の動きに従って、円い鏡もついて回ったと言う事が出来る。円い鏡が単に尊者の体に具わっていたと言う事だけではなくて、尊者は過去・現在・未来の仏教行事で何かを知りたいと思う事があると、この円い鏡を見...

  • 正法眼蔵 古鏡 3

    古鏡(永遠の価値を持った鏡)が人間には具わっているという考え方が、この「古鏡」の巻の基礎にあります。そこで摩訶迦葉尊者から数えて第十八番目の仏教教団の指導者であった伽耶舎多尊者の例を引いて「古鏡」について具体的な説明に入ります。第十八代目に当たる伽耶舎多尊者は、インド西域のマダラ国の人であった。姓は鬱頭監と言い、父の名は天蓋、母の名は方聖であった。その母親が「一人の巨大な神が、大きな鏡を持って母親...

  • 正法眼蔵 古鏡 2

    「古鏡」の巻、本文に入ります。過去においてたくさんの先輩方が真実というものを把まれて、師匠から弟子へと一系に伝えて来たものを、ここで言葉で表現するならば、古鏡(永遠の価値を持った鏡)という言葉で表現することもできる。その古鏡に映る姿は、あの人の持っている古鏡とこの人の持っている古鏡は別だと言う事ではなくて、その姿も材料も同じである。同じ様にその境地というものを体験し、同じ様にそれを現実の場面におい...

  • 正法眼蔵 古鏡 1

    「古鏡」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。この「古鏡」の巻も大変難しい巻。「古鏡」とはどういうことを言っているかというと、古い鏡ということで、古というのは永遠という意味を持っている。「古今」という言葉があると同時に、今と昔ということを含めて、永遠という意味を表わすときに、古という字を使う。だから古仏という言葉もあると同時に「古鏡」とは「永遠の意味を持った鏡」ということになる。この「永遠の意味を...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 23

    「心不可得」について道元禅師が注釈されます。またある時、大証国師に僧問う「過去の真実を体得された先輩方がもっておられた心というのは、一体どういうものでしょうか」と。大証国師言う「垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である」と。この問答も「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。またある時、別の僧大証国師に問う「真実を得られた先輩方の普段の気持ちとい...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 22

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張はまだ続きます。先に述べられた長年の修行を積まれた五人の方々は、そろいもそろって五人とも大証国師の持っておられた性質、実体というものがはっきりわかっていない。釈尊の教えを勉強する上で、まだ力が足りないように思われる。はっきり知っておかなければならないことは、大証国師はあらゆる時代を通じて真実を体得した人として通用する方であり、正法眼蔵(釈尊が説かれた正...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 21

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きますこの玄沙師備禅師の言葉を聞いて、雪竇明覚禅師は「敗けた、敗けた」といった。つまり玄沙禅師の言葉の境地が非常に高いから「自分はとてもかないません」と言う事を言った。この「敗けた、敗けた」という言葉は、玄沙師備禅師の言葉が真実であるという見方をした時にこのように言うべきである。もし雪竇明覚禅師がもう少し力量があって、玄沙師備禅師の言葉がどうも本当...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 20

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。また仰山慧寂禅師は「大証国師は前の二回は外界の世界に意識を移していたが、その後は自分自身と一体となる境涯に入ったので、三耳三蔵は大証国師を見ることが出来なかった」と言っている。この仰山慧寂禅師については、小釈尊と呼ばれるほど仏道の理解においては優れているという評判がインドにまで高く響いていると言われているけれども、このような妥当でない発言を...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 19

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。さてここで五人の大先輩の方々を自分(道元禅師)が検討してみると、まだまだ不十分なところがある。趙州従諗禅師はこの大証国師と三耳三蔵との問答を批評して「大証国師は大耳三蔵の目と鼻の先にいたから、大耳三蔵の目には入らなかった」と言っているけれども、この説明は一体どういうことなのか。基本というものがはっきりしないうちに末端の話をすると、このような...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 18

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。総じて大証国師の体や心は、特別な神秘的な働きや、修行をして体験を得るという考え方をする人々の知る事の出来ない境地である。また大証国師の体や心は大証国師その人でもおそらくわかりはしないであろう。なぜかというと、大証国師の行動は久しい以前から、すでに仏(真実を得た人)になりたいという作為的な努力を捨てている。釈尊といえども大証国師の心境をのぞい...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 17

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。大証国師が試験をされた趣旨から言うならば、仮に三回目に大耳三蔵が何か答えたことがあったとしても、一回目、二回目の答と同じようなことであるならば、釈尊の説かれた教えの基本原則と言うものではない。そして大証国師が期待しておられたところではないから、やはり叱るべきである。大証国師が三回も質問したと言う事は、大耳三蔵が万一にも国師の言葉の意味を理解...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 16

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。そこで大証国師が大耳三蔵を叱って言うには「この野狐の化け物め。お前は佗心通といっているけれども、一体どこにそういう能力がお前にはあるのか」と。この様に大証国師が言ったけれども、大耳三蔵はさらにどう言っていいかわからなかった。大証国師と大耳三蔵との問答をよくよく考えてみるに、五人の方々がこれにいろいろと論評をされているけれども、いずれも大証国...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 15

    大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。いま自分(道元禅師)は五人の大先輩に対して疑問を持つ点が二つある。一つは、大証国師が大耳三蔵を試したところの趣旨というものを、この五人の方々はわかっていないということである。もう一つの問題は、大証国師の持っておられた体、心というものが一体どういう実体のものかということを、この五人の方々はわかっていないということである。※疑問をもった一つ目の理...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 14

    道元禅師の注釈は続きます。我々の偉大なる師匠である釈尊の説かれた宇宙秩序というものは、声聞・縁覚などの小乗仏教徒たちのような野狐よりややましな人々の説くところとは決して同じではない。しかしながらこの大証国師と大耳三蔵との問答、あるいは問答に関する説話については昔から代々の大先輩がこの問答を検討して、それに関する主張というものが残っている。ある僧が趙州従諗禅師に質問した。「大耳三蔵はなぜ三度目には、...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 13

    大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。インド出身の僧侶であっても、論師(経典に関するいろいろな議論)だけをしてきた師匠、あるいは経典を中心に勉強してきた人々は決して大証国師の実践的な仏道によって得た境地というものを知ることは出来ない。仮に経典を通じて勉強してきた程度の人々の知っているところであるならば、経典の論議に関してやかましい議論を闘わしている師匠たちも知っているであろう...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 12

    大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。また大証国師がおられる場所がわかるはずがないという理由も明白である。大耳三蔵は大証国師から「今、自分はどこにいるか」と言う質問を三回も受けておりながら、この質問の言葉を本当の意味では聞いていなかった。だから大証国師が一体どういう質問をしているかという意味さえ分からなかった。もし大証国師の言葉の意味がわかったならば、大耳三蔵がおそらく質問を...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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