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2016年05月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 11

    大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。大証国師の心と言えども、何の理由もなしに西の川でボ-トの競争を見ているという馬鹿げた事がある筈がないし、洛陽の近くの天津橋の上で猿の見世物を見ているという馬鹿げた事がある筈がない。釈尊の説かれた教えの中における体、心を保とうとするならば、同じように釈尊の教えに基づいたものの考え方を学ばなければならない。釈尊の説かれた教えにおいては、大地す...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 10

    大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。釈尊の説かれた教えの中で心というものをどう勉強するかというと、心というものが我々の体の中に個々に入っているということではなくて、この世界全体というものがあればこそ心というものがある。この我々の住んでいる世界を他にして心というものが別にあるわけではない。心と言ってみても、それが人によって言葉によって説明されるというものではなくて、宇宙全体が...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 9

    大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師が注釈されます。このような大証国師と大耳三蔵との間の説話は、話として知っていなければ具合が悪いし、聞いていなければこの話を聞いた時にどう理解したらいいのか見当がつかず困るであろう。釈尊の教えをしっかりと坐禅を通して身につけた人と、経典だけを勉強して理屈の上だけで仏道を勉強した人とでは同じであるはずがない。天と地ほどの開きがある。坐禅を通して仏道をしっかりと...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 8

    大証国師が唐の皇帝の師匠をしていた時期に、大耳三蔵と言う僧が遠くインドから洛陽の都にやってきた。大耳三蔵は「自分は修行の結果、佗心通(他人の気持ちを見抜くことが出来る能力)を持っている」と自慢していた。そこで唐の粛宗皇帝は大証国師に命じて大耳三蔵が佗心通を持っているかどうか試験をさせたところが、大耳三蔵は大証国師をちらっと見るや、早々に礼拝して大証国師の右側に立った。そこで大耳三蔵に大証国師問う:...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 7

    道元禅師の注釈は続きます。過去・現在・未来において真実を得られたたくさんの方々が、いずれもこれは言葉や理屈ではつかまえることが出来ないものだということを体験することによって断言された。真実を得られた人の心と言ってみても、垣根、壁、小石であると言うだけの事でしかない。仏道の真実を得られた方々は、過去においても、現在においても、未来においても、釈尊の心と言うものは理屈や言葉ではつかまえることのできない...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 6

    道元禅師の注釈は続きます。「過去の心をつかまえる事が出来ないということはどういう意味でしょうか」と質問されたならば「我々の日々の生き死にだ」と返事をすればいい。「現在の心もつかまえる事が出来ないといわれていますが、その意味はどういうことでしょうか」と質問されたならば「日常生活そのものの事を言ってるのだ」と返事をすればいい。「未来の心はつかまえる事が出来ないという言葉の意味はどういう意味でしょうか」...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 5

    道元禅師の注釈は続きます。仏道で言われている釈尊と同じ境地というものは、区切られた時間ではなしに三世(過去・現在・未来)という永遠の意味を持ったものである、永遠の存在である。我々の心というものと永遠いうものとの間柄を考えて見ると、永遠と心とはほんのわずかの食い違いもなく全く離れていないというものではあるけれども、また逆にその二つのものが離れたものであるという論議するならば、十万八千里の途方もない距...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 4

    道元禅師の注釈は続きます。この徳山禅師と老婆との間の話を考えてみるに、徳山禅師がかつて真実を解明していなかったと言う事は、今この説話を読んでみることによってハッキリわかるところである。しかしながら、このとき老婆が徳山禅師をして何も言えないようにしたからといって老婆が本当に真実を得た人かどうかと言う事はまだ断定できない。自分(道元禅師)がこの老婆の気持ちを推察してみると、とりあえず心不可得(心はつか...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 3

    道元禅師の注釈は続きます。 残念なことではないか。数百巻に及ぶ経典の注釈に関する権威であり、しかも数十年の長きにわたって「金剛経」を講じてきた徳山禅師が、身なりのあまり立派でない老婆から、たった一つの質問を受けたところがどう返事をしていいかわからない状態に落ちてしまったということは。師匠から教えを受けている人と、師匠から本当の教えを受けていな人との違い、あるいはしっかりした伝承を受けている人と受け...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 2

    道元禅師の注釈は続きます。徳山禅師がかつてまだ一人前でなかった頃、「金剛経」と言う経典にについては学識豊かな人であった。その当時の人は徳山禅師のことを「金剛経」に明るい最高の権威と言っていた。当時金剛経の注釈をする人が八百人以上もいたといわれているけれども、その中でも一番の権威者であった。ことに青竜寺の僧侶がつくった注釈について熟達していたばかりでなく、さらに八貫目に及ぶ注釈書をつくって、徳山禅師...

  • 正法眼蔵 心不可得(後) 1

    心不可得(後)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。九十五巻本の「正法眼蔵」では、この「心不可得」の巻は二回出てくる。 前の心不可得、後の心不可得と言われている。日付けが同じであって、一つは「衆に示す」これは道元禅師が実際にやられた説法と想像される。一つは「書いた」となっているので、説法の原稿とも考えられる。しかし、この推定はいまだ充分な検討を経ない憶測であるから、詳細は後の学者の研究を待ちたい。心...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 8

    道元禅師の説示は続きます。哀れなことではないか。徳山禅師も、老婆も、過去の心も未来の心も、質問も、それに対する返答も、ただただ五里霧中の状態になってしまっている。 徳山禅師はそれから後も、大した解明をしたとも見えない。ただ荒々しい様々な出来事、落ち着きのない日常生活というものがあったに過ぎない。長い間、竜澤の崇信禅師のもとで修行をしていたならば、頭に生えている得意の角が折れて本当の人間になりえた時...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 7

    道元禅師の説示は続きます。徳山禅師がどう考えていいのかわからなくてまごまごしているときに、老婆は餅を三つ取りだしてそれを徳山禅師に与えたらよかろう。そして徳山禅師が餅を取ろう手を出した時に老婆はここで「過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得」という「金剛経」の文句を教えてやればよい。もしもまだ徳山禅師が迷いに迷っていて、せっかく差し出した餅を取ろうしないならば、餅を一つ取り上げて徳山禅師の頬っぺ...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 6

    道元禅師の説示は続きます。ではここで、私(道元が)が試しに二人に代わって言うべき言葉を言って見せよう。まず徳山禅師は老婆の質問に対して「そのような事を言うならば、お前は私に餅を売らんでもよろしい」と。この程度のことを、もし徳山禅師が言う事が出来たならば、かなり出来た人と言う事が出来よう。 そしてまた、老婆に対して徳山禅師が次のような質問をするかもしれない。「過去・現在・未来のいずれの時間においても、...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 5

    道元禅師の説示は続きます。大宋国(中国)における僧侶達が、徳山禅師が老婆に対して答える事ができなかった事をただ訳もわからずに笑い、老婆が途轍もなくよく出来たと誉める事は、非常に頼りない話である、非常に愚劣な話である。徳山禅師がしっかりしていなかった事はハッキリしているけれども、老婆の方もハッキリしていたかどうかそれはわからない。なぜかと言えば、老婆を疑うだけの理由がないわけではない。 この老婆と徳山...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 4

    道元禅師の説示は続きます。数百巻の書籍の解釈をするところの最高権威者とも言われ、また数十年にわたって「金剛経」を講じてきた僧侶が、身なりの粗末な老婆の質問を受けて、その質問に返事ができなかった事は非常に残念な事ではなかろうか。正しい師匠に出会って正しい師匠から教えを引き継いで、正しい釈尊の教えを聞いた事のある人と、まだ正しい教えを聞かず、まだ正しい師匠と出合ったことのない人とでは、その内容が非常に...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 3

    道元禅師の説示は続きます。徳山禅師はある時、釈尊以来代々の祖師方によって受け継がれてきたところの最高の教えがあると聞き、「金剛経」について自分以上の注釈をした人がいるはずがないと腹を立てた。 怒りを抑える事が出来ず、経典、注釈をたずさえて山川をわたって旅行していった。 そして、たまたま竜澤と言う場所における崇信禅師の仏教教団の事を知り、その教団に行って勉強しようと思いそこに向かった。 その旅の途中で...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 2

    心不可得の巻、本文に入ります。 釈尊が言われた。過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得 (金剛般若経より引用)釈尊が言われた言葉にについて道元禅師が説示されます。過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、心と言うものはつかまえることが出来ないと言う事が釈尊以来代々の祖師方が勉強された結論である。その方々がどういう生き方をされてこられたかというと、心というものはつかまえることが出来ないとはっき...

  • 正法眼蔵 心不可得(前) 1

    「心不可得」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「心不可得」とは、心というものはつかむことが出来ないということであって、我々は普通、心はつかむことが出来ると思っている 。だから「自分の心」とか「人の心」とかというし、頭の中で反省すれば、自分の心が何かあるように感じている。ところが仏教哲学では、昔から心はとらえられないというのが原則であって、たとえばそういう点では面白い話として、達磨大師と弟子の太...

  • 正法眼蔵 法華転法華 26

    法華転法華について道元禅師の注釈は続きます。大鑑慧能禅師が「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず、究尽すること能く是の如くなれば」と言われた。ここで言われている事は、心が迷っていても、心が悟っても、そう大したことはない。心が迷っていれば傍がうまくやってくれるし、自分がしっかりした時には自分で積極的に動きが出来るけれども、結局は宇宙が動かしてくれると言う事でもある。だから迷っても悟っても、そう...

  • 正法眼蔵 法華転法華 25

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。今この法華経を勉強する事によって、大鑑慧能禅師の法華経に対する解釈の仕方を聞き、大鑑慧能禅師の解釈に出会うことが出来た。過去において沢山の真実を得られた方々がいるが、その中でも特に優れた方にお会いする事が出来たと言える。この我々の住んでいる宇宙そのものが、過去において真実を得られた方々のつくられた世界、あるいはそういう方々が生きておられた世界...

  • 正法眼蔵 法華転法華 24

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。釈尊が亡くなられてから四、五百年後に小乗仏教に対して大乗仏教が説かれた。「妙法蓮華経」もその大乗仏教が説かれた時代に生まれた経典である。その経典の中にも「今日、釈尊が大乗仏教を説かれる」と書かれていて、その様なあり方で、この宇宙というもののの実体に触れていくといういき方があるのである。宇宙は様々の形で活躍いるのであるけれども、現に宇宙がこの様...

  • 正法眼蔵 法華転法華 23

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。また塔の中の古仏(過去における真実を得た人)が霊鷲山に現れる場合には、その霊鷲山そのものが、古仏の方々の国土として永遠の時間において現れるのである。 この地上に現れるとか塔の中に入るとかという関係も凡夫の常識的な考え方で、宝塔の中で途轍もなく尊く、この地上の世界がそれほど価値のないものだという見方をしてはならない。この世の中で一所懸命生きていく...

  • 正法眼蔵 法華転法華 22

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。また法華経の中には、仏の前に価値の高い塔が出現したと言う話があるけれども、その様に価値の高いものもこの世の中には存在し、その高さは五百由旬(インドにおける単位)である。そしてその尊い塔の中に真実を得られた仏が坐っていたという宇宙の現れ方もあり、その広さは二百五十由旬である。またその様な塔が大地から湧き出して、それが空中にあるという宇宙のあり方も...

  • 正法眼蔵 法華転法華 21

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。宇宙の中で真実を得たと言う事は、釈尊の説法を聞いた霊鷲山の人々と決して異なるものではない。そしてまた、釈尊を中心にして仏教徒がたくさん集まったと同じように、たくさんの人々が集まって仏道を勉強するということは、必ず宇宙が活発な姿で動いていくと言う事と同性質のものである。また空間にたくさんの人々があって、仏の世界をつくるという事もある。これも宇宙...

  • 正法眼蔵 法華転法華 20

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。法華経の中に、一時仏住(あるとき仏がどこどこに住んでおられた)という記述がある。この言葉は、ある瞬間における仏のあり方というものを、この世の中の実体としてとらえるべきであると言う事である。様々な人がこの世に現れるが、その現れ方は真実を知り真実の世界に入る形での現れ方もあるし、また釈尊と同じような考え方や見方になって、この世の中に現れてくる場合も...

  • 正法眼蔵 法華転法華 19

    「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。「法華経」の中に、地面の中からたくさんの仏(真実を得た人)が涌き出てきたという記述があるけれども、これは単に「法華経」の中で地面から仏がわき出てきたということだけではなしに、我々自身がこの世の中(宇宙)に、生を受けて出てきた。そのことは非常に尊い事である。 地面からたくさんの仏が現れてきたということは、この宇宙の中における尊い方々の出現であるけれ...

  • 正法眼蔵 法華転法華 18

    「心悟れば法華を転ず」に入る前に西嶋先生の話です。前回までは「心迷えば法華に転ぜられる」というところを説いたわけでありますが、今度は「心悟れば法華を転ず」という個所に入ります。前にやった「心迷えば法華に転ぜられる」というのがダメで「心悟れば法華を転ず」というのが優れているということでは決してない。ここで説かれているのは、何が何だかよくわからないけれども、宇宙が自然に我々を動かしてくれるという面もあ...

  • 正法眼蔵 法華転法華 17

    「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。そうしてみると、我々が今、現に姿を備え、現に本質を持っているということは、法界(宇宙全体)において本来の行いをしていると理解したらよいのであろうか。微塵(個別的な、具体的な世界)の中で、本来の行いをしていると理解したらよいのであろうか。実体をよくよく見るならば、そこには驚きもないし、疑いもないし、恐れもないし、おじける事もない。ただ宇宙が...

  • 正法眼蔵 法華転法華 16

    「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。微塵を見るとき、同時に法界を見ないというわけではない。法界を体験するとき、同時に微塵を体験しないと言うわけではない。多くの真実を得られた方々(諸仏)が、この法界を体験されるに当たって、我々の体験というものが多くの真実を得られた方々の体験によって追い出されてしまうというわけではない。時間の前後こそあれ、諸仏も我々も初めもよければ、中ごろもよ...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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