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2016年02月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 22

    白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。気の毒な事だ。白楽天、お前は何を言っているのか。釈尊の真の教えをまだ聞いたことがないために、三歳の子供がどんなものかわかっているかどうか。また子供がこの世に生まれて来た事に関連して、その基本的な理論がわかっているかどうか。もし三歳の子供の実態を知っている人は、三世諸仏(過去・現在・未来に亘ってこの世に出られた真実を得られた方々)を知るであ...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 21

    白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。一般的に言って釈尊の説かれた教えと言うものは、師匠について初めて教えを聴き始めた時と、修行を積んで究極のものに到達してから教えを聴くのと変わりはない。これを最初も正しければ終わりも正しいと言い、善い原因は善い結果を生むといい、初めが釈尊の教えに合致しておれば、終わりも釈尊の教えに合致しているという。釈尊の説かれた教えの中における原因・結果...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 20

    白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈です。 白楽天は白将軍という有名な将軍の子孫ではあるが、白楽天自身はたぐいまれなる詩人であった。人が言い伝えたところによると、中国において二十四人の優れた文学者の中の一人に数えられている。白楽天は文殊菩薩の生まれ変わりだと言われたこともあるし、弥勒菩薩の生まれ変わりだと言われた事もある。その詩文の優れた味わいと言うものは天下に鳴り響いている。文学者の...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 19

    唐の時代に生きた有名な詩人白楽天(白居易)は、江西大寂禅師の孫弟子である。白楽天が抗州の長官だった時に、鳥窼道林禅師に弟子入りして仏道修行をした。 ある時白楽天が問うた。「釈尊の説かれた教えの一番根本的な意味合いはどう言う事でしょうか」と。鳥窼道林禅師答えて言う。「悪い事をやらず善い事を行うということに尽きる」と。白楽天言う。「若しその様でありますならば、三才の子供でも言うことができま...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 18

    仏教には昔から、有名な偈として「諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教」という仏教の基本的な教えが伝わっています。これまでは「諸悪莫作、修善奉行」を勉強してきましたが、「自浄其意、是諸仏教」に入ります。 自浄其意と言う言葉の意味は、1・悪い事をやらないというのは誰かと言うと自分自身である。2・悪い事をやらないということは人の気持ちを浄くする。浄くなった人と言うのは誰かと言うと自分自身である。3・悪い...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 17

    道元禅師の説示は続きます。しかしながら、仮にもたくさんの善のうちのたった一つの善というものが現実に行われるならば、それは、宇宙全体が善を行う事であり、自分の体全体で善を行うことであり、現実の世界が善を行う事に他ならない。この善に関連した原因・結果と言うものも、やはり同じ様に実際に行う事により生まれて来るところの現実の実在である。原因・結果の関係は原因が先で、結果が後に出て来ると言う継続的な関係では...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 16

    道元禅師の説示は続きます。善を行うと言う事はただ自分で行う、実際にやると言う事に過ぎないけれども、それを頭で考えようとしても考えきれるものではない。いま一所懸命やっている状態と言うものは、実に生き生きとした見方に基ずく活動であるけれども、頭の中であれこれ考えて割り切れるものではない。またそういう行動と言うものは、この現実の世界を頭の中で割り切るために、現実にこの場面に生まれて来ているものではない。...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 15

    道元禅師の説示は続きます。様々の善と言うものは、原因や環境によって生ずるものではなく、原因や環境によって消滅するものではない。様々の善は我々の行動を通して現実のものになるのであるけれども、この現実の世界がすべてが善ではない。原因とか環境とかと言うものも、生まれるとか消滅するとかというものも、様々の善というものも、それぞれいずれも、最初が正しければ終わりも正しいという状態がそれぞれのものについてある...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 14

    道元禅師の説示は続きます。説法の現れ方が様々であるのと同じように、善の現れ方も千差万別である。しかも様々な説法が全部同じような関係にあるということは、釈尊が生きておられた時代になされた説法も、ただ時間において行われた。その点ではあの説法も、この説法も時間において行われた。説法も善行も現実の時間において行われるものだけが問題になる。頭の中では善いこと、悪いこと、いくらでも考えられるけれども、実際にや...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 13

    仏教には昔から、有名な偈として「諸悪莫作」「修善奉行」「自浄其意」「是諸仏教」という仏教の基本的な教えが伝わっています。道元禅師の説示は「衆善奉行」に入ります。衆善奉行とは様々の善い事を行うということ。この言葉の中における様々の善いことと言うのは、善性、悪性、無記性と言う三つの性質の中の善性である。善いという性質の中に様々の善い行いと言うものがあるのであるけれども、人間が何もやらないうちから善と言...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 12

    道元禅師の説示は続きます。仏(真実を得た人)の姿は、空間のようなものであって、その時の場面の状況によって形を現し、その有様は水の中に映った月と同じである。その場その場でどうにでも変わる。海に月が映れば波があるから波に砕けて様々に変わる。静かなバケツの中に映れば月はまん丸くなっている。水の状況がどうであるかによってどうにでも変わると同時に、人間の行いも瞬間、瞬間でどうにでも変わる。本来悪と言う様な事は...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 11

    道元禅師の説示は続きます。露柱であるとか、灯籠であるとか、自己であるとか、様々の対象をこの様に勉強してくることは、現実に存在するところの法(宇宙秩序)である。法(宇宙秩序)が現に我々の眼の前に現れている姿である。 主観(自分自身の側から物事を考え)、客観(自分以外のものを中心として物事を考える)その両方の考え方が兼ね具わらないと仏道にならない。 人間の存在と言うものが、主観的なものでもなく客観的なものでもな...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 10

    道元禅師の説示は続きます。悪事とは、ただ現実にやらないだけである。たとえば、他の木は枯れているのに、冬でも緑の葉が繁っている松を、哲学的にこれを考えて松は本来ないものだと言ってみたり本来あるものだと言ってみたりするけれども、その理論は両方とも間違いである。 松は人間によってつくられたものではない。 ただ冬の松がこの大自然の中の一つの情景としてあるに他ならない。秋の季節に咲き誇る菊も、普通の哲学的な論...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 9

    道元禅師の説示は続きます。この様に参究してくると、この世には様々の悪と言うものがあるけれども、それらは本来ないものだという理論が現実のものとなってくる。我々の日常生活において悪事をやる、やらないは自分の行動次第であり、悪事をやらないという具体的な事実に助けられて、諸悪莫作(様々の悪事をやってはいけない)との見方が徹底し、坐禅を通して決定的に断定されるに至るのである。つまり坐禅をやっていれば悪事がどこ...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 8

    道元禅師の説示は続きます。凡夫が仏(真実を得た人)になる場合でも、自分が何か特別のものに変わると言う事ではないと言う事を、歩いたり、立ち止まったり、坐ったり、寝たりという二十四時間の生活の中でよくよく考えてみるべきである。仏になるという事は、今までの自分自身が急に変わってしまい別のものになってしまうと言う事ではない。変わると言う事よりも、余分なものがなくなり、自分自身の本来の姿に返ると言う事に他なら...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 7

    道元禅師の説示は続きます。物質を基礎に我々の日常生活が着々と行われていく事から生まれてくる力が、日常生活をより善い方向に持っていってくれる。山、河、大地、太陽、月、星と言うふうな自然の環境を舞台にして、我々が日常生活をし、そして善悪の実践を行っていくのであるが、その事は我々が住んでいる世界の環境である山、河、大地、太陽、月、星等が、我々自身に修行をさせる、我々自身に実践をさせる、我々自身に善悪を誤...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 6

    道元禅師の説示は続きます。具体的な日常生活において、 善悪を問題にしているうちは、現実の実態と言うものとはかけ離れている。 実際に悪をやらなければ、悪そのものもどこかに消えてしまう。 自分達の日常生活において、どうしてもこれだけはやらざるを得ないと言う決まった悪はありはしない。 瞬間瞬間にやるかやらないかだけの問題であって、やらなければそれまでだ、やらなければならないと決まったものは何もない。 善悪を...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 5

    道元禅師の説示は続きます。この最高の教えというものを、ある場合には徳の高い僧侶から聞き、ある場合には経典から聞くのであるが、最初、人間の耳にどう響いてくるかと言うと、「悪い事をするな」と聞こえるのである。「悪い事をするな」と聞こえない教えは、釈尊の教えではない。悪魔の教えであろう。銘記せよ。「悪い事をするな」と聞こえる教えこそ、まさに釈尊の説かれた教えである。 しかし、この「悪い事をするな」と言う...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 4

    道元禅師の説示は続きます。今ここにいうところの悪い事とは、善性・悪性・無記性(善でもない悪でもない性質)の中の悪である。この悪と言う性質は、突然どこからか生れて来るというふうなものではない。そして善や無記もまた、悪の場合と同じようにいずれもどこからか生まれて来る、何か汚れと言うものと関係があるものではなくて、善も悪も無記も、いずれもこの我々の住んでいる世界の現実の姿である。そしてこのような善も悪も無...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 3

    諸悪莫作の巻、本文に入ります。過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすことなく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えとは、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。これは過去七仏(釈尊以前の六人の仏と釈尊を含めて七人)の共通の戒めであり、古仏(過去...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 2

    「諸悪莫作」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視する思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方があるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々に解釈できる。だからAの人が善い...

  • 正法眼蔵 諸悪莫作 1

    「諸悪莫作」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「諸悪莫作」と言うのは、いろいろな悪をやってはならない、あるいはやらないということで、仏教には昔から「七仏」の通戒として知られている諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教と言う有名な偈(詩)が伝わっておるわけであります。「七仏」と言うのは、釈尊以前に六人の仏がいたという信仰を基礎にして、釈尊も合わせて非常に古い時代からおられた仏(真実を得られた人)と言...

  • 正法眼蔵 谿声山色 22

    道元禅師の説示は続きます。そこで竜牙居遁禅師が言われた「過去において、仏道の真実と言うものがわからなかったならば、さあ今わかってしまおう。この現世において今の生身の体で、過去の積もり積もった様々の災いを全て超越してしまおう。過去の仏(真実を得られた方々)も、真実を得られるまでは今の我々と少しも変わらなかった。もし真実を得てしまえば、今の我々も昔の仏になった人々と少しも変わらない。この竜牙居遁禅師が言...

  • 正法眼蔵 谿声山色 21

    道元禅師の説示は続きます。修行に対して、いくら自分自身を励ましても、体がだるい、気持ちもたるんでどうにも動きが取れない、そういう場合には真心を専一にして、過去の真実を得られた方々(釈尊・達磨大師など)に対して「自分はどうも怠け癖が抜けません、自分は仏教に対して不信の気持ちが生じました」と言う非を正直に告白すべきである。この様にする時は、告白した効果によって自分自身がそこでもう一度清浄な状態に立ち返...

  • 正法眼蔵 谿声山色 20

    道元禅師の説示は続きます。この世の中には仏(真実を得た人)もたくさんいる。素晴らしい人もいれば、そうでない人もいるけれども、それらの一切が谿声山色(谷の響きや山の姿)である。それと同じような自然のありのままの姿だということを捉えることに他ならない。この様に我々の生きている世界には様々な事象や様々な事態と言うものがあり、谷川が滔々と流れ響きを伝えているが、それはそのまま釈尊の説法であり、釈尊の教えの賛嘆...

  • 正法眼蔵 谿声山色 19

    道元禅師の説示は続きます。仏道を習い始めた初心者の感情を交えた考え方では、仏道とはどんなものか推測することが出来ず、推測できたとしてもとんでもない見当違いをしている。初心者には仏道とはどんなものか頭で考えてみても中々わからないところであるけれども、一所懸命努力した結果は、最後のものに行き着かないということではない。徹底した境地で釈尊の教えの一番奥深いものに到達した状態と言うものは、初心者がほんの頭...

  • 正法眼蔵 谿声山色 18

    道元禅師の説示は続きます。経典に帝釈天が降りて来て修行者の意気込みを試したり、悪魔がやって来て修行者の邪魔をしたと言う話が載っている。修行者が名誉や利得に惹かれている時には、そういうものの影響から逃れられない。修行者の側に隙があった時に、様々な邪魔が入るということを言っている。しかし、慈悲の心で大きく、深く、広く人々を救済しようという願いが長い年月にわたっている場合には帝釈天や悪魔から邪魔をされる...

  • 正法眼蔵 谿声山色 17

    道元禅師の説示は続きます。インドにおける祖師方も、仏教を信じない人々(非仏教徒)や、理屈や感覚だけで仏道を勉強しようとする人々、あるいは俗世の権力者や国王から危害を加えられたと言う事がある。しかし危害を加えられたからと言って、その危害を加えた非仏教徒の人々が祖師方より優れていた訳ではなく、また祖師方の思慮が浅かった結果でもない。達磨大師はインドから中国に来られ、嵩山に逗留され仏道修行をされたけれども...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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