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2015年11月のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 洗浄 8

    まだ「洗浄」の巻は続くのですが、これから先は寺院生活での用の足し方の作法等が述べられています。管理人は寺院で暮らす僧侶ではないのでこれ以降は省略します。           「正法眼蔵洗浄」           1239年旧暦10月23日           観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。          ※西嶋先生解説「洗浄の巻」全文で、この様に道元禅師は、仏教の教え、釈尊の教えと言うもの...

  • 正法眼蔵 洗浄 7

    道元禅師の注釈は続きます。我が師、天童如浄禅師が懇切な教誡の言葉を、その当時の中国で髪を長くし、爪を長くしている僧侶に与えた言葉に言うには、「頭をきれいに剃ると言う事を理解していない者は、俗人でもなく、僧侶でもない。それは畜類以外の何ものでもない。釈尊以来、仏道の真実を究められた方々は全て頭をきれいにしている。したがって、現在でも頭をきれいに剃っていない者はまさに畜生である」と。この様に多くの僧侶...

  • 正法眼蔵 洗浄 6

    道元禅師の注釈は続きます。十本の指の爪を切る必用がある、十本の指と言うのは、左右両方の手の指の爪をいうのである。足の指の爪も切るべきである。「足の爪、手の爪が、麦の一粒の幅よりも長い状態になったならば、宗教上非難される行為となる」と経典に記されている。したがって、爪を長くしてはならない。爪が長いということは、外道(釈尊の教え以外の教えを信じる人々)のやったところである。しかるに現在の大宋国の僧侶の間...

  • 正法眼蔵 洗浄 5

    華厳経の浄行品に言う。大小の手洗いの用を足す際には、人々が汚れを取り除いて、貪(むさぼり)や、瞋(怒り)や、痴(愚かさ)という人間の弱点と言うものを持たない様にと願うべきである。また手洗いの用を終わって水で手を洗う際には、人々が最高の教えに向い、社会の規範を乗り越えた真実の教えを得ることを願うべきである。また水によって汚れを取り除いたならば、人々が落ち着いた気持ちで何事にも耐え忍ぶ力を具え、完全に汚れ...

  • 正法眼蔵 洗浄 4

    大比丘三千威儀経に言う。体を浄めるとは、肛門や尿道口を洗い、十本の指の爪を切ることである。道元禅師の注釈です。体も心も本来汚れのないものではあるけれども、さらに体を洗うやり方と言うものがあり、それによって心を洗うというやり方がある。そして、ただ体や心を浄めるというだけではなしに、広く国土を浄めることもある。国土は未だかつて、塵にまみれ汚れに染まった事はないけれども、そういうきれいなところでもさらに...

  • 正法眼蔵 洗浄 3

    「洗浄」の巻、本文に入ります。仏教界において真実を体得された諸先輩が守ってこられたところの修行であり体験であるところのものがある。それは不染汙(汚れなし)と言うことの一語に尽きる。仏教界の先輩である中国における六代目の大鑑慧能禅師と、後継者の南嶽懐譲禅師が「仏道の中心は不染汙」であると言っておられる問答がある。大鑑慧能禅師が弟子の南嶽懐譲禅師に問う修証(修行と体験)とかと言うものの、ご厄介になることが...

  • 正法眼蔵 洗浄 2

    「洗浄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。我々の卑近な日常生活を取ってみても、戦前と戦後では日本の、あるいは都市における手洗いの清潔か、不潔かと言う点では雲泥の差がある。年齢の若い方はそういう風なものを実際に見たことがないかも知らんけれども、我々の子供の頃は日本の家庭の手洗いと言うのは実に不潔なものだった、だいたい大きな穴が開いておって、下をのぞくとあまりきれいでないものが見える。匂いも...

  • 正法眼蔵 洗浄 1

    「洗浄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「洗浄」の巻は、主としてどういうことが書いてあるかと言うと、手や足の爪を切れ、ということも書いてあると同時に、手洗いに行っての作法が書いてある。普通、宗教と言うと非常に高貴なもので、日常生活(ご飯を食べたり、手洗いに行ったり)ということは宗教と無関係と言う考え方が多い。ただ仏道と言うのは、人間が何をするかということを中心にした思想であるから、ご飯を食べる...

  • 正法眼蔵 即心是仏 13

    慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。無限の時間、すなわち永遠において真実を知りたいという気持を起こし、それを実践する人も即心是仏(今日ただいまの心こそ真実である)に他ならない。また現在の一瞬における心の中で、真実を得たいという気持を起こして、それを実践する人も即心是仏に他ならない。また握り拳の半分ぐらいの大きさの狭い世界の中で真実を得たいと言う気持ちを起こし、実践する人もまさに「即心是仏...

  • 正法眼蔵 即心是仏 12

    慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。椅子(住職の坐る椅子)、払子(住職が儀式のときに使う道具)によって表現されるところの心と言うものは何かと言えば、椅子そのものであり払子そのものである。それが竹で出来ているとか、木で出来ているとか分析的な見方は必要がない。この様に我々の仏道修行は、ただただ現実に触れ、現実そのものを捉えるという事だから、即心是仏(今日ただいまの心こそ真実である)と言う教えは、...

  • 正法眼蔵 即心是仏 11

    慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。過去における高僧も言われた。素晴らしい汚れのない明晰な心とは何かと言えば、山であり川であり、大地であり、太陽であり、月であり、星である。我々を取り巻いている客観世界そのものが素晴らしい汚れのない明晰な心である。はっきり知る事が出来る。心とは何かと言えば、山であり、川であり、大地であり、太陽であり、月であり、星である。しかしながら、ここで述べられている...

  • 正法眼蔵 即心是仏 10

    慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。以上に述べた様な探求の仕方、これこそはまさしく即心是仏(今日の心こそ真実である)と言う思想の実態であり、この様な教えを取り上げて、同じくその瞬間における心が、真実そのものと一体になっている人に正しく伝承するのである。この様に師匠から弟子へ、師匠から弟子へと代々真実と言うものが伝えられて今日に到達した。ではその正しく伝承されてきた心とは一体何であるかと言...

  • 正法眼蔵 即心是仏 9

    慧忠禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。仏(真実を得られた方)は、この世の様々の事物を取り上げて日常生活を送り、またそういうものを投げ捨てて、様々の事物に囚われない境地で生きている。そのことは、理想の姿と言うものを問題にする立場ではない。日常生活を個々の具体的な事物に即して、一所懸命やって行き、またそれを超越していくという考え方であって、理想を取り上げてどうこうと言う説き方ではない。この事を...

  • 正法眼蔵 即心是仏 8

    道元禅師が慧忠禅師の言葉について注釈されます。南陽慧忠禅師は、中国の第六祖大鑑慧能禅師の非常に優れた弟子であり、また偉大な指導者である。この慧忠禅師が示された教えを理解して、仏道を学ぶ上の手本とすべきである。人間のあり方を体と心とに分けて「心」は不滅であるが「肉体」は必ず滅びると言う考え方は、セニカの考え方であり決してこの教えに従ってはならない。ところが、最近では大宋国においても多くの寺院の最高位...

  • 正法眼蔵 即心是仏 7

    慧忠禅師と僧の問答は続きます。慧忠禅師言う:もしお前が今言った様な説明が南方で行われている仏教の説明であるとするならば、インドにおけるセニカと呼ばれるバラモン僧と同じ様な考え方であり、仏道とは違う考え方である。このバラモン僧の言うところによれば、「この我々の生身の体の中に一つの心があって、この心は痛いとか痒いとかがわかる。体が死に絶えてこの世から消えていく時には、魂は体から抜け出して外に出る。それ...

  • 正法眼蔵 即心是仏 6

    大証国師(南陽慧忠禅師)とある僧の問答です。慧忠禅師は中国の唐の時代の人である。ある僧が慧忠禅師の寺にやって来た。慧忠禅師問う:おまえは何処から来た。僧言う:私は南の方からまいりました。慧忠禅師問う:南方には、どのような高徳の僧侶がおるか。 僧言う:南方には徳の高い僧侶がたくさんおります。 慧忠禅問う:では、それらの僧侶は仏道を一体どんなふうにして人々に教えておるか。僧言う:かの南方における高徳の僧...

  • 正法眼蔵 即心是仏 5

    セニカ(先尼外道)の主張に関連して西嶋先生の話は続きます。だから、明治維新以降日本において説かれている仏教は、全部こういう考え方である。西洋流の宗教観の枠の中に無理に押し込んで、その中に入るものだけが仏教だと理解した。だから明治維新以降、仏教が解かったような、解らないような教えになってしまった。それが今日の実状である。今日、仏教を勉強しようとしても本当の意味で腹の底から「ああ、そうか良くわかる」と言...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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