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カテゴリ:「正法眼蔵」のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 坐禅箴 26

    道元禅師の注釈は続きます。人が普通に坐っている姿というものは、坐った形での仏( 真実を得た人)に外見は似ており、あるいは仏が坐った状態に外見は似ているようではあるけれども、人間が仏になるという意識的な努力をしている場合もあり、すでに仏となってしまった人がそこにいるというふうな状態であるという二つの場合の区別があることと関連して考えるべきである。確かに坐禅をすることによって自然に仏になってしまった人と...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 25

    坐禅に関してまた別の言葉がある。「坐相(坐っているときの姿)に執着するならば、仏道の基本的な原則の全てに通達したことにならない」と。この言葉について道元禅師が注釈されます。坐相に執着するという事は、坐相はどうでもいいという考え方にとらわれて坐禅をしているときの姿を穢すことである。ここで言っている言葉の意味は、すでに坐るという形で仏(真実を得た人)になっている以上、坐相に執着しないということはあり得ない...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 24

    馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師言う。「お前がもしも坐禅をしているならば、そのときの状態というものは、仏の境地を超越した状態である」と。         南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈です。南嶽懐譲禅師の言葉に従ってさらに坐禅と言うものを勉強していくと、今度は仏の境地を超越するという性格があるのである。坐禅をしているまさにその瞬間というものは、仏というものを超越しているのである。仏の境地を超越...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 23

    また南嶽懐譲禅師言う。「仮に坐禅を実際に勉強した場合には、仏(真実を得た人)というものが、必ずしも固定した姿のものでないという事がわかってくる。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。坐禅というのはどういうものかという事を言おうとするならば、この様な南嶽懐譲禅師の言葉にならざるを得ない。坐禅をやっている一人一人の姿というものはそれぞれが様々の内容の坐禅をしている。各人各様の内容を持った坐禅...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 22

    坐禅を表現した言葉として南嶽懐譲禅師言う。「坐禅を実際にやってみると、坐禅というもが日常生活の坐ったり寝たりという動作と全く同じものとは言えないという事がわかってくる」と。南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。南嶽懐譲禅師がこの言葉によって何を言おうとされたかと言うと、坐禅は坐禅であって、他の日常生活と少し様子が違うということを言われたのである。※西嶋先生解説この事は、我々がふだん坐禅...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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