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カテゴリ:49・説心説性のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 説心説性 15

    道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。本質が架空に不動の形であるのではなくて、それが常に動きとして何らかのものを発揮している事を信じて受け取る事が、まさに正統な後継者として真実を得た人々の姿に他ならないのである。心と本質とを別々に分けて、心は様々な状態で動揺しているけれども、本質は停止していて静かなものであり心と本質は別々のものであると主張するならば、その様な考え方は外道(釈尊が説かれた教...

  • 正法眼蔵 説心説性 14

    道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。本質と言ってみても、本質というものが抽象的にこの世の中に存在するのではなくて、本質と言うものは、説くと言う動きや発揮すると言う動きと共にあるのである。物事を説く場合にも、それが常に本質と言うものに触れていると言う事が実態である。精神(心)というものを取り上げてみても、それを物事が説く、発揮するという動的な動きと関係していない場合は決してない。仏性(仏とし...

  • 正法眼蔵 説心説性 13

    さらに道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。自分達の宗派の祖師である洞山良价禅師ただ一人が沢山の祖師方の中における非常に尊い方として、説心説性――精神を説き本質を説くと言う事が本当はどの様な意味を持っているかと言う基本的な考え方に通達しておられた。しかしながらこの「説心説性」と言う言葉に関連して本当の意味が十分に分かっていない地方に住むたくさんの祖師方は、洞山禅師と僧密禅師との間で交わされた...

  • 正法眼蔵 説心説性 12

    達磨大師と太祖慧可大師の問答について道元禅師の注釈は続きます。釈尊と同じ境地を体験する以前の説心説性―心を説明し本質を説明するという努力もまた、釈尊の説かれた真実の中における行いだという事が言えるのであるけれども、説心説性という事と釈尊の境地を体験するという事とは決して別のものではない。釈尊と同じ境地を体験すると言う事は迷っている人が初めて真実と一体になった時だけが、釈尊の境地を経験したと学ぶべき...

  • 正法眼蔵 説心説性 11

    達磨大師と太祖慧可大師の問答について道元禅師の注釈は続きます。釈尊の教えを勉強するという問題に関連して言うならば、真実を知りたいという気持ちを起こした時もすでに釈尊の教えの中に入っているのである。長年の努力をして釈尊の教えがすっかり分かったという状態の時も、やはり釈尊の教えの中にわが身を置いているのである。仏道修行というものは初めから釈尊の教えの中に入っているのであって、始めも中ごろも終わりも釈尊...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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