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カテゴリ:22・仏性のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 仏性 82

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書の問答について道元禅師の注釈は続きます。我々の住んでいる現実の世界はこの様な世界であるにもかかわらず、動くならば「仏性がある」と考えたり、動かなくなったら「仏性がない」と考えたりする。また、我々の意識があるときには「魂がある」意識をなくなったならば「魂がない」と考える。また、我々の頭脳的な働きがある時には「仏性がある」頭脳的な働きがなくなった時には「仏性がない」と誤って固...

  • 正法眼蔵 仏性 81

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。別の例でこのことを説明するならば、たった一つの音によって現実の世界のありのままの姿が説かれていると言う事が現にあるということであると同時に、法を説くという事、現実を示すという事は、特別の言葉があるわけではなくて、現実の音が現に聞こえているという事に他ならないのである。法というものを考えてみても、抽象的な教えがあるわけではなくて我々...

  • 正法眼蔵 仏性 80

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。長沙景岑禅師が「物質としての力がまだなくなっていないまでだ」と言われたことは、この言葉のうちに、仏性というものがよく現されていると言えるであろう。物質的な力が仏性であるかどうかと言う疑問も持つべきである。また、仏性が物としての力だと言う考え方をするべきなのであろうか。仏性と物としての力とが二つあって、それが両方出て来ていると言うわ...

  • 正法眼蔵 仏性 79

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。この質問に対して長沙景岑禅師は「つまらん事は考えるな」と言われた。この言葉の意味は一体どういうことであろうか。「つまらん事は考えるな」と言う事に他ならない。それでは、頭と尻尾と両方が動いている時には特別な事を考える必要もなく、ただ現実がそこにあるのだと言う主張をされたのであろうか。その二つが動いているというのは具体的な事実であって...

  • 正法眼蔵 仏性 78

    長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。ミミズが二つに切れたけれども、それをつなぎ合わせて一匹のミミズと考えているのであろうか。その点では、頭と尻尾の両方が動いていると言っているけれども、均衡のとれた状態(坐禅)においては、逆に心も体も躍動する状態にあるし、智慧が本当に身についた時には、常識的には考え及ばないような斬新な考え方が出て来る。その様な坐禅とか智慧から生まれてく...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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