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正法眼蔵 無情説法 7

大証国師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

さらに空に生えている木もあり得るし、雲の中に存在する木もあり得る。風や火のようなものの中にも沢山の草や木が生えていると考える事も出来る。その様に空に生えている草木、雲の中に生えている草木、風や火の中に生えている草木の中には人間と同じ様に有情(心理作用を具えている)と学ぶ事の出来る様なものもある。

草木ではあるけれども、無情(心理作用を具えていない)と認めがたいものもある。すなわち草や木でありながら人間や動物と同じ様な性質のものがあり、何が有情で何が無情かに関しては、言葉の上ではけじめがつくけれども、我々が現に見聞きしている実体について見るならば、ここまでが有情であり、ここまでが無情であるという区別は必ずしも解明されていないのである。

まして仙人(中国の思想で人間の域を脱して不思議な能力を持つ人)が自由に変化させる草・ 木 ・石・花・果実・湯・水などを見た場合に、それがいったいどういうものであるかを想像してみる事も出来ないし、疑ってみる事も出来ないと言う状況ではあるけれども、それらがどういうものであるかを説明しよう努力して見ると、なかなか説明のつく筈のものではない。

たった中国と言う一つの国における草や木を見たとか、日本と言う一つの国における草や木だけを見て、一切の方角に広がってているところの宇宙全体も日本と同じ様であろう、あるいは中国と同じようであろうと想像し考えるという事があってはならない。

※西嶋先生解説
道元禅師は当時中国と日本の二つの国しか見ておられなかったわけでありますが、その二つの国を見た体験からも、この地上にはいかに沢山の様々な様子というものがあるかという事を感じとっておられたから、こういう主張をされたわけであります。こういう捉え方は今日われわれが問題を考えていく上にも大切なことです。ところが我々は日本の国の実情というものは世界全般に通用するという風に大抵の人が考えている。

だから今日のように外国との行き来が盛んになってきた時代においては、外国の実情はどういうことかという事を勉強する事がかなり我々の知識を正確にし、またものの考え方を正す事にも役立つという面があろうかと思うわけであります。そういう点では道元禅師は鎌倉時代の初期に出られた方ではありますが、国際的にものを見るという能力が非常にあったという事が、こういう説明の中からも汲み取れるわけであります。



              ―西嶋先生の話―

今日世間一般で説かれておる仏教というものを考えてみますと、実に難しいことが説かれている。しかも何を説いているかよくわからないという点が一番困る。仏教という事に関連して、たくさんの方々が沢山のことを述べておられるけれども、その言っておられる内容がさっぱり意味が分からないという点に、今日仏教が抱えている非常に困った状況があるわけであります。

人間はどうしても理想に走りすぎて、人間ではなかなか達成できないような神様でなければ達成できないような、浮ついた考え方で生きている人もいる。しかしそういう浮わついた人々を眺めて批判する考え方の人々になると「得をすればいい、損をしなければいい」という事だけに生きていく。そうすると人間として生きていっても、何のために生きているのかよくわからないというふうな生き方の人もある。

釈尊は我々の生きている世界そのものがどうなっておるか、実体験を基礎にして人生を生きていくことが大切だという主張をされた。で、そのために必要なのは坐禅という修行法であると。そして一番最初の理想を中心とした考え方を「苦諦」と呼ばれ、物を中心とした考え方を「集諦」と呼ばれ、仏教の立場を「滅諦」という言葉で表現され、一番最後の坐禅の修行を「道諦」という言葉で表現された。

したがって、苦・集・滅・道という四つの考え方を釈尊はお説きになった。この考え方は非常に単純な考え方でありますけれども、人類が持っている悩みの解決には絶対の意味を持っているという事が言えようかと思います。社会生活の中でも、名誉だけを気にして人の評判だけを基準にして生きておるという人もあるわけでありますが、そういう人の生き方が本当の生き方かと言うとこれは中々疑問がある。

それからまた恥も外聞もなしに、金さえ儲かればいいという考え方の生き方というものが本当の人間の生き方かと言うと、これも大いに疑問があるわけでありまして、釈尊はその中間に本当の生き方があるんだから、その中間の生き方を坐禅という修行法によって、体でつかむことが大事だと、こういう風に言われたという事が言えようかと思うわけであります。

この考え方は、非常に簡単な考え方ではありますけれども、仏教という思想を理解する上に置いては絶対に必要だと、こういうふうに感ずるわけでありまして、この教えをどういう形で人様に理解していただいたらいいかというのが、我々がやっていることであり、また今後も努力していく目標という事になろうかと思うわけであります。


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正法眼蔵 無情説法 6

大証国師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

愚かな人々が考えるように木の枝が林の中でざわざわと音を立てたり、葉や花が春には芽吹いたり開いたり、秋にはしぼんだり散ったりしていく様子が無情説法(自然の説法)であると考えるようでは釈尊の教えを学ぶ人々と言うわけにいかない。自然の音が聞こえ自然の情景が眼に入るという事が無情説法であるならば、誰でも「無情説法」は分かるし説明すれば納得するはずである。そこでとりあえず問題を自分の内側に振り向けて見よう。

無情(心理作用のないもの)と呼ばれる世界の中には、草や木や林があると考えたらいいのかないと考えたらいいのか。 あるいは無情の世界の中には有情(心理作用のあるもの)の世界が混在しているのかいないのかという問題を考えてみる必要がある。草木瓦小石という植物や鉱物と呼ばれるようなものが無情だという風に理解しるならば、学問を隅々まで行きわたらせているという風に言うわけにはいかない。

「無情」と言う言葉の意味を草や木や瓦や小石という植物、鉱物の意味だと捉えるならば、仏道を勉強する上において十分いくところまでいったと評価する訳にはいかない。仮に人間がとりあえずいま考えるような見方をして、無情とは草や木であると一応決めつけてみたところで、現に人間が草と考え木と考えているものも一般の人が想像し切れるほど単純なものではなく狭い範囲のものではない。その理由は何かと言うと、中国に生えている草木と日本に生えている草木とは同じではない。また海の中に生えている草木と山の中に生えている草木も同じではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
質問
無情と有情の区別ですね、草木なんていうのは有情だけれども、瓦礫とかそういうものは無情と言う風に区別しなきゃならないんじゃないかと思いますけど・・・。

先生
そういう見方ではなしに、道元禅師の見方と言うのは客観的な世界というものが人間も、動物も、草も、木も、石も水も、そういうものが全部一つの共通した実体の中の程度の差だという捉え方があるわけですよ。だから人間と獣が有情で、草木や石は無情だとそういう捉え方はしておられない。そういう事がこの文章の中にも出て来るわけです。むしろそういう風に単純に二つに分けられるほど簡単なものではない。その点では、中国と日本の草木を見ただけでも非常に違っていると、そう言う事に触れているわけです。

質問
「正法眼蔵」の中に天上界と言う言葉が出て来ますが、どのように理解すればいいんでしょうか。

先生
仏道の関係から言うと、仏道の世界が出てこない以前にも神の世界はあるんですよ。それはどう言う事かと言うと、人間は神の世界の存在を頭の中で考える事ができるという事があると思います。この事はどう言う事かと言うと、人間の頭の中で考えて非常に素晴らしい理想の世界というものを考える事ができると言う事と、どこの民族でも非常に古い時代から神というものの存在を信じていると言う事と関係があると思います。

ですからそういう点では、古代インドにおいても神の存在と言うものが考えられていて、釈尊がそういう神々の信仰に対してどういう態度をとられたかと言うと、人間が考え出したものだという事実を認められて積極的な排除はされなかった。したがって仏教経典の中には、天上の世界とか、それに住まう神々と言うふうなことも出て来るわけです。

仏道との関係でそういう神々がどういう地位にあるかといいますと、むしろ仏の世界の方が実在の世界であって、神々の世界というのは人間の頭の中で考えられた世界と言う事になるわけです。それと同時に人間が頭の中で考え得るんだから、その存在を必ずしも否定しなくてもいいと、こういう態度が仏教の神々に対する態度だと思います。

ですから仏教以前に神々が沢山おられたわけですけれども、そういうものを眼の仇にして排除するということはされなかった。人間にとって考えらることが出来るのだから、強いて存在を否定する必要もなかろうという大らかな態度で仏教の思想体系の中に残されたという事情があると思います。

「正法眼蔵」の中でも人間界・天上界というものが終始出て来る。ですから、そういうものの存在を目くじら立てて否定する必要もないけれども、仏の世界はそれを乗り越えた上の世界、あるいはそういうものとは別の世界だと、そういうふうに考えていいと思います。


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正法眼蔵 無情説法 5

大証国師と僧の問答について道元禅師が注釈されます。

仏教の教えには昔から、草や木や山や川のような自然が釈尊の教えを説くという「無情説法」と言う言葉がある。無情説法を勉強したいと思う初心者や時代が遅れて仏道を学ぶ人々は、この大証国師と僧の問答に関す話に直接触れて勉強してみる必要がある。

大証国師も「無情説法という事態は自然が常に釈尊の教えを盛んに説法していて途絶える事がない」と言っている。「常」という言葉の意味はたくさんの時間の中における瞬間瞬間の時間を述べている。「途絶える事はない」とは、釈尊の教えが説かれている事態が現れている場合には例外なしに途絶える事がないのである。

そこで無情説法のあり方は、必ずしも有情(人間)の説法と同じだと学んではならない。説法と言う字が同じであるからと言って、有情と無情の説法とが同じだと学んではならない。有情の説法のやり方はいずれも、人間の声や人間の持った説法のやり方に特有の様子を示す筈であるから、有情の説法を無理に借りてきて、無情の世界で行われる説法に押し当てる事は釈尊の説かれた教えではない。

無情説法の場合には、それが常に人間が説法するのと同じ様に声が空気を震わせて伝わってくるとは限らない。有情(人間)が行う説法と言えども、単に声が響いてくると言うだけの問題ではなく、声が聞こえてくる以外の意味がありその説法によって感じ取れるものがある。

そこでとりあえず有情とはいったいどういうものか、無情とはいったいどういう事を意味しているかと、自分自身に尋ねてみたり自分以外の人にも尋ねてみると言う形で様々に努力して勉強してみる必要がある。無情説法の様子に関しても、いったいどのような状態が「無情説法」と言われるものであろうかと、詳細に心にとめて学んでみるべきである。


                    
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
占いとか占星術とか、根拠がある様な無い様なものを先生は信用しませんか。
    
先生
私は信じません。 で、それは「正法眼蔵」に「仏法に無因の説なし」と言う教えがあるんです。つまり釈尊の教えの中には原因のない説と言うものは無い、一切が原因・結果の関係であると。 「仏法に無因なし」と言うのは非常に短い言葉ですけれども、大変大事な事です。だから私は占星術と言うようなものは信じない。いくら信じようと思っても信じることが出来ない。

努力しても信じることができない。それは色々と難しい理論があって、それぞれ主張される根拠はあるんだろうと思うけれども、私は因果関係の世界を信じているから、因果関係の世界というものとのズレを感じるから、そういうものを信じる事が出来ないというのが実情です。

質問
山川草木を聞いて、たとえば鎌倉時代だと兼好法師とか文学の世界に出て来るんですけど、樹木の鳴る動きで世の中の無情を感じるとか、たとえば「源氏物語」の世界にも、そういうふうな「もののあはれ」と言うのがあるんですね。そういうのは僕らでも何となく趣がある様に思うんですけれども、仏法の立場からするとそういうふうに感じるのは、ちょっと感傷に過ぎるからあんまりよろしくないというような目安もあるんですか。

先生
うん、道元禅師の主張はそういうふうな問題を頭においておられます。ですから木の葉のささやきとか、あるいは花が咲いたり散ったりするというふうな事が、無情説法だというふうな捉え方についてはここでは批判的な見方をしておられるわけです。


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正法眼蔵 無情説法 4

「無情説法」の途中ですが西嶋先生の解説です。

前回までは「無情説法」の最初のところだけをやったかと思います。ここからは南陽慧忠禅師(大証国師)と僧との間で「無情説法」に関連して問答が行われているわけであります。この問答に関連して、どういう理解の仕方をしたらいいかと言う事を最初にちょっと申し上げますと、やはりこの問答も苦・集・滅・道と言う四段階で理解していくと理解がし易いという問題があろうかと思います。

苦・集・滅・道の四段階でこの問答を理解するという事はどう言う事かと申しますと、この問答の中には直接出てまいりませんが、その後の道元禅師の解説の中で「有情説法」と言う言葉が出てくるわけです。それからこの巻の表題が「無情説法」、単に人間が説法するだけでなしに、草や木や山や川というふうな自然も説法すると、こう言う事が語られているわけであります。

それから問答の中で「我聞かず」と言う言葉がありまして、その後で国証国師が「自分はごく一般の人々に説法をするのであって、聖者の方々に説法するのではない」と言われているわけでありますが、その事を道元禅師の解説の中では「国師説法」と言うふうに表現をしておられるわけであります。

苦―有情説法   集―無情説法   滅―我不聞   道―国師説法

この問答もそう長い問答ではありませんけれども、四段階の形で「無情説法」というものについて説かれていると理解すると問答の内容が取りやすくなると思うわけです。

本文に入ります。
大唐国の洛陽にある光宅寺の大証国師に対してある時僧侶が質問した。
僧問う:草木山川、いわゆる自然と言われるようなものが釈尊の説かれた教えを理解する事ができますでしょうか。 国師言う:草木山川、そういう自然が釈尊の教えを常に盛んに説いていて、その説 いているという状態は決して途絶える事がない。

僧問う:自然が釈尊の教えを常に説いていると言う事であるならば、私の耳にはなぜそれが聞こえてこないのでしょうか。 国師言う:お前には聞こえないかもしれないけれども、他の人がちゃんと聞いている事まで邪魔するわけにはいかない。

僧問う:どうもわかりません。いったいどんな人がそれを聞くことができるのですか。 国師言う:たくさんの聖者が聞く事ができる。

僧問う:
では和尚さんには聞こえますか、聞こえませんか。国師言う:私には聞こえない。

僧問う:
和尚さんでさえそれが聞こえないのであれば、自然が釈尊の教えを理解するという事がどうしてわかるのでしょうか。国師言う:幸いにして私には聞こえない。もし私が聞くようであれば聖者と同じにな ってしまうであろうし、そうしたらお前は私の説法が聞こえなくなってしまうであろう。

僧問う:もしそうだとしますと、一般の人々は到底その説法を聞くことが出来ませんね。 国師言う:私は長年説法をやってきたけれども、衆生(普通の人々)のために釈尊の教えを説くのであり、聖者に対して説法しているわけではない。

僧問う:和尚さんの説法を普通の人々が聞いた場合にはどうなりますか。 国師言う:その時はすでに普通の人々ではなくなっている。


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正法眼蔵 無情説法 3

この様な理由から、真実を得られた仏教界の諸先輩はいずれも例外なしに、この世の中における一番古い時代の仏とされている威音王の以前の時代から、説法を一所懸命やって来られたのであって、すでに真実を得られた仏教界の諸先輩がいずれも、説法を自分自身の本来の仕事としてやってこられたのである。

説法は真実を得られた方々が説法するとばかり理解する事では不十分である。真実を得られた方々は説法によって仏道が分かるという逆の関係もある。説法の形はあらゆるものが説法の対象となり、時代が進むに従って様々の内容が説法の中に現れて来るのが実態であって、釈尊の教えの内容は、これで全てと言う事はあり得ず無限に発展していくものである。

過去において真実を得られた方々がなされた説法を、その後に現れた真実を得られた方々が、同じような説法すると学んではならない。過去において真実を得られた方々が、今日の時代に来て、また同じ説法をされるというふうな形のものではない。過去において真実を得られた方々の説法と、今日の時代において真実を得られた方々の説法はおのずから内容が違っている。過去において行われた説法が、今日の説法としても通用すると言うわけではない。

そこで釈尊が「 過去・現在・未来における真実を得られた沢山の方々の説法のやり方と同じ様な方法で、自分は今この様に、差別や相対を離れた絶対の立場から宇宙秩序を説くのである」と言われた。その様に釈尊の説かれた教えは、この世の中のすべてを包み込むような包括的な教えであるから、真実を得られた沢山の方々は説法を活用し、自分の仏道に関する理解を深めていくのである。

この様な形で真実を得られた沢山の方々が説法というものを正しく伝承するという事が行われたと同時に、その先輩方のやり方と同じ様に説法を正しく伝承していくところから、非常に古い時代において真実を得られた方々から過去七仏に正しく説法が伝承され、また過去七仏から今日の時代にまで説法が正しく伝えられて、無情説法(感情に煩わされない状態において釈尊の教えを説く)と言う事が行われているのである。

このように、無情説法(感情に煩わされない状態において釈尊の教えを説く)と言う行動の中に真実を得られた方々が実在するのであり、仏教界の諸先輩が実在するのである。釈尊が言われたように、釈尊がまったく新しいご自分自身の教えを説いたというふうに学ぶべきではない。昔から正しく伝承されて来たものは、古臭い鬼の住処であると捉えるべきではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
基本的なことで、仏・法・僧の三宝を敬うとありますが仏・法は分かりますが、僧は宗教教団というふうに理解されますけど、私達が理解する宗教教団は先生を中心とするこの会の皆様方・・・。

先生
はい、それも入ります。それと同時に釈尊以来仏道を勉強して来た人一切のつくっている教団と、こういう意味でもあるわけです。

質問
じゃ、現在いろいろ仏教教団がありますね、それも尊敬しなきゃいけないんですか。

先生
ええ、それも当然入ります。

質問
いや、私はあえて異を論ずるわけじゃありませんけど、尊敬できない仏教教団があるとすれば・・・。

先生
だから、尊敬できない仏教教団と言うのは、仏教教団じゃないんです。

質問
それは私の主観的な判断 でよろしいですか。

先生
その点では、形が仏教教団であると言う事、つまり釈尊の教えを信じている限り外見が何であろうと、内容がどうであろうと仏教教団です。ただ釈尊の教えを信じていない場合には、どういう形をとっていても仏教教団ではないと、こう言う事になる。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。自営業。69歳。坐禅を頼りに暮らしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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