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正法眼蔵 行仏威儀 20

銘記せよ。仏道修行における実際の行動というものは、我々の日常生活において瞬間瞬間に生きたり死んだりしている実体そのものである。

生きるとか死ぬとかと言う事は、仏教を勉強していく人々のごく普通の道具である。日常生活の生き死にというものは、それを実際に実践する事によって、かけがえのない貴重なものとして日常生活に現実に存在する事となるのであり、その実体は明々白々として、誰にでもわかるところのものである。

そこで仏教界の真実を得られた方々は、この「生き死に」とは一体どういうものであるかと言う理解について、明々白々にその実情を承知している。それをどの様に使いこなしたらいいかと言う問題についても、十分にその実情を心得ている。この日常生活の実情がはっきりしていない場合には、誰がお前さんをお前さん自身だと言ってくれるだろうか。

※西嶋先生解説
――「あの人は偉い」「あの人はだめだ」というふうに「偉い」「だめだ」と言われたりすることよりも、もっと大切なことは、あなた方自身があなた方自身になっているという事、これが仏道のねらい。だからAの人はAの人になる。Bの人はBの人になる。自分自身が自分自身になるという事が仏道修行のねらい。――

我々の日常生活は、必ずしも生き死にの状態の中に沈没している性質のものではない。また自分自身が生き死にの生活の中に常に縛られているものでもない。生き死にの問題は現実の生活における否定する事の出来ない実体であるから、それを信じるとか信じないとかという問題でもないし、理解するとか理解しないとかの問題でもないし、それが解かったとか解からないという問題でもない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「大切なのは自分自身になることだ」というのは、その時代、社会、生まれ育ちとかに制約されるというか、規定されていく面があると思いますし、同時に坐禅は、時代とか社会を乗り越えていく面もあるように思いますし、その点ではどういう風に考えたらいいのでしょうか。やっぱり戦前生まれの人と、戦後生まれの人という時代の違いは自分自身になっていくという場合に、どうしようもない形の差というものがあるのかないのか、道元禅師の文章を読みますと、時代とか社会の差をほとんど感じないような面もありますし、そこのところはどんなふう考えたら・・・。

先生
それは両方の意味を含んでいるとみていいと思います。その事はどういうことかというと、時代によって我々が受ける影響というもの、あるいは家庭の環境とか、あるいは住んでいる地方の影響の痕跡というか、これは除こうとして除き得るもんではないという風な非常に強固なものはあるという事。これは一つはっきり言えると思います。それと同時に時代に拘束されたもの、地域に拘束されたものだけかというと、時代を超えたもの、地域を超えたものもあると。だからその両方が混在しておるのが我々だという風に言えると思います。

仏道がどういうことを言われたかというと、これは、私はこういい譬喩を使うわけですが、優れたブロンズの像が泥にまみれて見る影もなく埋もれておった。それを掘り出したときに、泥があっちにもこっちにもついているので、それが優れた銅像かどうかもさっぱりわからん、ただ水をかけてきれいに洗っていたら泥が取れて行って、美しい銅像が出てきたという場合に、その銅像そのものは時代の背景、場所の背景も立派に受けているわけですね。ただそれ以外に泥とか垢のようなものがいっぱいくっついている。

だから我々がやり得る仏道修行というものは、時代の影響、地域的な影響をすべて否定する、抹殺するという事ではなくて、本来自分の持っている純粋なものを洗い出すという事。そのためには必要でない泥や垢がいっぱいついているから、それを洗い落としていくというのが仏道修行だと、そういう関係だと思います。

だからその点では、我々が時代の影響を受けている、家庭の影響を受けている、あるいは父親・母親からの影響を受けている。これはもう全く否定することのできない厳然たる事実。だからそういう事実も含めて、自分自身になるという事が仏道修行だとみていいと思います。


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正法眼蔵 行仏威儀 19

仮に無生(生まれることがない)という言葉を聞いた場合でも、この言葉は一体どういう意味を持って持っているのかという事を勉強する必要がある。

「無生」と言う言葉を聞いて鵜呑みにし「ああそうか、無生」と言うような態度で、検討もしないでそのままに過ぎてしまってはならない。「無生」と言う言葉だけで満足してしまって「もうわかった、仏道は一切わかった」と言う人は、無仏(仏と言うものがあるかないか)・無道(真実と言うものがあるかないか)・無心(心と言うものがあるかないか)・無滅(消滅というものがあるかないか)等の問題について論議する必要がある。

また「無生」という言葉を大切にするけれども、その「無生」という実体さえないような世界を考えるべきではないかという疑問もあり得るし、宇宙というものが普通には実在と考えられているけれども、この宇宙そのものも実在としてあるのではなくて、仮の存在だと考える必要があるのかどうか。あるいはこの我々の住んでいる世界には、宇宙の実体というものが考えられるわけであるけれども、その宇宙の実体、本質さえ存在しないという考え方が正しいかどうか。

「無生」という事がある以上、「死ぬことがない」という理論が正しいのかどうかという事についても検討してみることもなく、「無生」と言う言葉だけを後生大事にして、それ以上の問題を検討しようとしない人々というものは、ちょうど水草の様に、何も考えることなしに、フワッと水面に浮かんでいる様な生き方をしているから、「無生」と言う言葉だけに満足して、それ以上の問題を考えようとしないのが実情である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「本音と建前」の話なんですけれども、昔はそういうことは少なかったんですか。

先生
これはね、戦前はなかったです。もちろんそういう考え方はあったけれども、「そういう考え方は恥ずかしい」という気持ちがあったんです。人間が本音と建て前を使い分けて生きなきゃならないような面もあるけれども、それは本来の形ではない。そうせざるを得ないけれども、それは恥ずかしいことだという気持ちがあったんです。しかし戦後は、その本音と建て前を使い分けることが当然の人間のあり方だという事で、真正面から本音と建前の違いを認めようとする考え方、あるいは認めるべきだという考え方が、私はどうも強すぎるんじゃないかという見方です。

そういう考え方をしていますと、社会に倫理道徳が成り立たないんです。もう一切がご都合主義で、腹で考えていることと、外側のやることが違っていて当たり前という事になりますと、人間社会そのものがとてつもなく暗く、とてつもなくおかしな状況になるんです。そんなことは仏道の世界では許されない。

質問
私なんかの場合は、本音と建前があるのが当たり前で、そうしないと生きていけないんじゃないかという風なのがあって、それ以外があり得るか、というぐらいの考えがいま正直言ってあるんですがね。

先生      
だからその点はね、戦後の特殊状況だと思います。そういう考え方が、当然として人々の頭に固定しているという事は。

質問
確かに仏道修行をしているというのは、これは私の生き方で、こう行きたいというのはあるけれども、じゃ社会生活の中で本来こうあらねばならないと言っても、中々そうはいかないから、会社なら会社とか、その他の場合では、そこの状況に応じてやるという風に、なるべく仏道に反するような行動はしないように考えてはいるけれども、周りの人は最初から建前というか、むしろ仏道の考え方みたいなのは建前だというわけですよね。私自身は本音と思っているわけですけれども。だからある意味では本音と建前が逆転しているかもしれない。私の場合は、世間の人から見れば逆転しているのが本音だと。

先生
仏道の立場では、現実をよく見ながら望ましい形を具体化していこうという事なんです。しかし本音と建て前とを使い分けますと、現実は現実として本音はほっておく、建前は建前で言葉として、あるいは頭の中の存在として、別においておくという考え方になります。現実そのものをあるべき姿に変えていくという努力が生まれてこない。そういう努力のないところに仏道修行はあり得ないという見方です。

あくまでも本音と建て前とを一つにしようという努力が仏道修行であって、その二つが別々であって構わないんだ、仕方がないんだという考え方では仏道修行はあり得ない。


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正法眼蔵 行仏威儀 18

すでに生命が生まれるという事については、四種類の区別があるということは聞き終わっている。

それでは、死ぬという事については一体どのくらいの種類があるであろうか。四種類の生まれる形があるのであるから、やはりそれに見合って四種類の死に方があると考えるべきであろうか。生まれる形は四種類あるけれども、死ぬときの形は三種類だと考えたらよいのか、あるいは二種類だと考えた方がよいのか。単にそういうわずかな数ではなしに、五種類、六種類、千種類の死に方というものがあるかどうか。この様な基本的な問題について、ほんのちょっとでも疑問を持つという事も仏道を勉強する上の一つの分野に他ならない。

しばらく考えてみるがよい。この胎生・卵生・湿生・化生の仲間の中で、生まれる事はあるけれども、死ぬ事はないと言う生物があるであろうか。初めから死ぬという事だけはあるけれども、生まれるという事が全くないと言う生物があるであろうか。生まれるということしかなくて、死ぬという事がない生物があるであろうか。死ぬという事だけがあって、生まれるという事がない生物があるであろうか。この様な問題について必ず勉強してみなければならない。

無生(生まれることがない)と言う単純な言葉だけに満足してしまって、一体それがどういう意味なのか、現実にどういう事なのかという勉強をすることなく、この生身の身心を使って真実とは何かという事を勉強してみる人が少ない。「無生」と言う言葉だけを頼りにして、実際の修行をしない事は非常に愚かな状態である。仏道修行には、信じる事だけを中心として真実を探求する人々、この世の中の実体や秩序を中心に真実を把握する人々、時間をかけずに瞬間的に真実を把握する人々、時間をかけて徐々に真実をつかむ人々など様々の行き方があるけれども、「無生」と言う言葉だけを頼りにする人々は、このような様々の行き方のどれをかを選んで仏道修行をしている人々にさえ及ばない愚かな人々である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「無生」という言葉が出ているんですが、表面的な意味は分かるような感じがするんですけれども、もうちょっとピンとこないんですが・・・。

先生
例えば我々の人生問題を考えていく場合に、非常に苦しんでおる人がいたとする。その人に対して「本来は自分の生命なんて言うものはないんだ。我々人間そのものが水の上の泡粒のようにポカッと生まれて、いつの間にかまたポカッと消えていくような存在だから、そうクヨクヨしてもしょうがないんだ。まあ本来生まれていないものなんだから、お前の悩みなんかどうでもいいんだ」というふうに理屈の上で説かれても、その人の悩みがなくなるかどうか、生きる上での苦しみがなくなるかどうかという風なことを、ここでは問題にしておられる。

だから「無生」「無生」というようなことで、わかったような顔をして簡単にかたずけられる問題ではないという事をここでは言っておられる。こういう説き方っていうのは非常にあるんですよ。仏教を説く場合にね。「そういうつまらんことを問題にしておっちゃならん。もっと大きな問題を考えろ。この世の中は全部が「無」なんだからそんな悩みなんかどこにもあるはずがないんだ」という事を言っても、悩んでいる人は絶対に悩む。そんな理屈でいくら「悩むな、悩むな」と言われたって、自分に悲しみがあり、苦しみがあったら、これは中々脱けられるものでないですよ。

だからそういう問題もあるという事をここでは説いておられる。「無生」「無生」という事で全部問題のけりがついたように言う人もいるけれども、そんなことでは決して人生問題は解決がつかないし、仏道が分かったともいえないという事を言っておられる。


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正法眼蔵 行仏威儀 17

古代インドにおいては、生命が生まれる場合には、胎生(人間の様に母親の体内から生まれるもの)・卵生(鳥とか魚の様に卵で生まれるもの)・湿生(湿気から生まれてるもの)・化生(瞬間的な変化で生まれてくるもの)の四種類の形を考えていた。

古来から釈尊の教えを説く場合に、胎生・化生については、釈尊の教えの中ではごく普通の事であると考えられてきたけれども、仏道は人間の世界においてのみあるものであるから、卵生・湿生については、仏道の考え方の中ではあまり取り上げてこなかった。まして、この胎生・卵生・湿生・化生の四種類の生まれ方の他にも、まだ様々な生まれ方があると言う事は、とうてい夢でさえ想像する事が出来ないような状態であった。

まして胎生・卵生・湿生・化生と言う生まれ方が言葉の上で、理屈の上で考えられる以外に、現実に母親の体内から生まれてくると言う事実、あるいは急激な変化で生まれてくる事実そのものがあるという事を、現実に見たり、聞いたり、知ったりという事は、中々我々の周囲にも見当たらないところである。

現在でも、釈尊以来連綿として伝承されて来た偉大な真実においては、胎卵湿化生と言う四種類の生まれ方の言葉による表現ではなしに、現実に胎生があり、卵生があり、湿生があり、化生があるという事を、かつて隠さず目の前に現実に見る通りに正しく伝承して来たし、何の間接的な関係もなしに、直接正しく伝えて来た。

このように、言葉の世界の他に現実の世界があるという道理を、聞いたこともなく、教えられたこともなく、自分でそれを承知していることもなく、理解するという事がない者は、一体どういう人々と言ったらよいのであろうか。とうてい仏道を勉強している人の部類には入れることができない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
現在の世の中でも仏道的な考え方から言えば、軍備はしないと、いわゆる憲法のあの無防備という事を仏道は目指しているんでしょうか。

先生
うん。仏道が武器を持たないというような原則はないですよ。それはどういう事かというと、例えば仏教の言葉で「破邪顕正」という言葉がある。仏教の信仰対象として、不動明王は片手に縄を持ち、片手に剣を持っているわけです。だから仏道思想が常に平和主義だという事ではないという事が言えると思います。そのことは戦うべき時には戦わなきゃならんのですよ。戦わないことが常に正しさであるという風なことが言えるのかどうかね。そういう風な問題が我々が生きている人生にはあります。人類の歴史にはあります。

仏道はそういう事も含めての思想です。だから何も喧嘩好きで喧嘩ばかりしているというような事は決して言っておられない。なるべく戦争はない方がいいという事は、これははっきり言えると同時に、正しさのためには戦わなければならんという事が人間社会にはあるという事、これもやっばり否定はしておられないというのが釈尊の教えだとみていいと思います。


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正法眼蔵 行仏威儀 16

過去における仏教界の諸先輩が様々の形で「全宇宙」と同じ様子を具えた威風のある姿、「全大地」と同じ内容を具えた威風のある姿を説いているけれども、それらをどう学ぶかという事で考えるならば、明々白々としていて疑う事の出来ない我々の日常生活そのもの、現実そのもの、行動そのものが宇宙全体とまったく同質のものだと学ぶべきである。

そして、この宇宙が何物も隠していないと言う事だけではなしに、ほんの小さな存在である我々が、ほんの狭い範囲の日常生活を一所懸命に送るという事が、実は「行仏威儀」というものの実体であり、それが宇宙とか大地とかと言うふうなものを、はるかに乗り越えた無限の大きさを具えているのである。

※西嶋先生解説      
――道元禅師はこの様に言われて、我々の日常生活における行動、あるいは坐禅と言う行動において、我々が示すところのもの、それが絶対の価値を持ち、無限の価値を持つと言う事を非常に強く言っておられるわけであります。それが、この「行仏威儀」という巻の主題でもあるわけであります。

こういう思想というのは、西洋思想では非常に少ない思想。西洋思想というのは大体行動という事をあまり尊重しない思想。頭がいいという事、あるいは感覚がいいという事は尊重されるわけだけれども、今日まで行動をどう評価するかという事については、わりあい欠けた側面を持った思想という事になるわけであります。

その点では行動というものを前面に押し出した思想というものが、西洋思想の今日までの欠けた部分を補う非常に大きな意味を持っているという点で、この「行仏威儀」という巻も大いに勉強してみる価値のある巻だという事になろうかと思うわけであります。――


            ―西嶋先生の話―

道元禅師は何を言われたかと言うと、偽ものも本ものもそれぞれに価値はあるけれども、一番大切な事は自分自身が本ものになる事だ。自分自身が本ものになる事とは、坐禅をするということ。私がこういう事を言うと、どうも西嶋の意見は常に我田引水であると言う事になる。しかし私は長年坐禅をやって来て「こんないいものはない」と常にしみじみ感じる。だから、皆さんにも是非と言う事で勧める訳です。

坐禅と言うのは決して難しい事でも苦しい事でもない。ただ毎日やっていると訳もなく健康になる、気持ちが落ち着いて来る、ものがよく見えてくる。普段なぜよくものが見えないかと言うと、大抵は色んなその他諸々に引きずられているから。そういうその他諸々がなくなってくると、ものが見えて来ると言う事が我々の人生にはあるわけです。坐禅はそういう点では非常に意味がある。今日、坐禅と言うものは、そう高く評価されていない。だからやる人は非常に少ない。

しかし実際にやってみると、坐禅ほど世の中の見方が素直になってくる修行法はない。我々のものの見方と言うものは、特別に体験を積んだとか知識が豊富と言う事よりも、余分なものがないと言う事の方が大事。素直に実態が見えるという事が非常に大切。
経験とか知識とかももちろん大切だけれども、そう言うものから脱け出して素直に実態を見ると言う事が、我々の人生がどういうものかと言う事を見ていく上において、あるいは商売の上で実態がどうなっているかと言う事を見ていく上で非常に大切だと言う事が言えると思う訳であります。
  
我々の生活の実態は、時々刻々入れ替わっている。だから三年前、五年前の実態と今日とでは入れ替わっている。その事を常に頭において常に変わった事態についていくためには、色々なものにこだわっていたらよく見えてこない。様々なこだわりと言うものから脱け出した時に、実態がよく見えるという事情があるわけです。そのためには、何も考えずにジ-ッと坐っていると言う事が、一切のこだりから脱け出すと言う修行。

そういう状態でものを見た時には、目の前のものがそのまま見えてくる。目の前のものがそのまま見えてくれば、人間、問題がない。ところが大抵は色んな解釈をして、あるいは色んな好き嫌いでものを見るから、そのまま見えないと言う問題があろうかと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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