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正法眼蔵 三界唯心 7

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

また釈尊が「三界の中に住んでいる一切の生きとし生けるものはことごとく自分の子供である」と言われたけれども、その言葉の意味は、この三界の中にうごめいている生きとし生けるもの、すなわち釈尊の子供達は一所懸命生きていると言う事が基本的な原則である。

釈尊の子供と呼ばれた一切の生きとし生けるものは、その身体や皮膚や頭髪を例外なく慈悲深い釈尊から受けるという点では同じであるけれども、その中でも自分の体を傷つけない、壊さないという子供を本当の意味の子供というのである。

現実的な現在の瞬間においては、釈尊もその弟子も時間的な前後はない。釈尊も永遠の真実を述べられたという点では今日も生き続けておられるし、我々自身も仏道を勉強することができるという点で永遠の世界に生きる事ができるという点からすれば、釈尊が過去の方で、後世の我々が時間が遅れて生きているという事ではない。同じ真実を生きるという点では時間の前後というものはない。

後世に生まれた人が時代的には先で釈尊が時代的には後だという事でもない。時間の前後を乗り越えて真実の世界というものがあり、その真実を学ぶという点では、釈尊も我々も時代を超越した世界に生きているのである。釈尊と我々とが時代を同じくして肩を並べているという関係でもないという事情を、釈尊が「この三界に生きている生きとし生けるものは自分の子供だ」と言われた基本的な原則の意味というのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
釈尊の言われた「三界ハ三界ニ於イテ見ルニ如カズ」――我々の住んでいる世界は、我々の住んでいる世界そのものとして見るのが一番いい」と言う意味をもう一度お願いします。

先生
はい。その「三界は三界において見るに如かず」というのはどういう意味かということを考えてみますと、たとえば我々は水の中に入って泳ぐと言う事があるわけです。泳ぐと言う問題に関連して、本屋さんに行って水泳の本を買って読んで、「あ、クロ-ルはこういう泳ぎか、平泳ぎはこういう泳ぎか」という事を勉強する勉強の仕方もあるわけであります。

それからまた大きな水泳大会に行って、観客席から人の泳ぐのを見ておって、「わぁ―素晴しい、新記録だ」と言って喜ぶという水泳に関する見方もあるわけであります。ただ、泳ぐと言うのは何かと言うと、自分が裸になって水着を着けて「ドボ-ン」と水の中に飛び込むという事が泳ぐという事であって、そういう状況で初めて人生というものはどういうものかがよくわかる。

つまり人生の事が書いてある本を読むという勉強の仕方もあるわけです。それから人が苦しんだり喜んだりしているのを傍から眺めて、苦しんでる場合に「あ、俺はああいう惨めな形でなくてよかった」とか、人が喜んでいると「チクショウ、俺もああなりたい」と言って悔しがったりと言う人生の味わい方もあるわけだけれども、一番大切な事は、自分自身が人生の主役として人生を生き抜くと言うところにある。
   
その場合に、自分自身が人生の主役となって生き抜く立場を「三界ハ三界ニ於イテ見ルニ如カズ」と、こういうふうに言われたわけです。ですから仏教の教というのは、人間が何をするか、どういう行いをするかと言う事と密接に関連した教えだと、こう言う事がいえるわけです。

しかもその行いというものには基準がなければならん。そこで坐禅と言う基準を釈尊が我々に与えられた。だから我々は坐禅と言う基準を実際に行うことによって、人生をどう生きていくかと言う事の指針を得、また現実に我々が水に飛び込んで泳ぐのと同じ様な形で人生を生きて行く、こう言う事になるわけです。


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正法眼蔵 三界唯心 6

この様な理由から釈尊は「法華経譬喩品」の中で言われた。 

いま現に我々が住んでいるところのこの欲界・色界・無色界の三種類の世界は、すべて自分の持ち物(自分と同じ性質を具えた世界)である。そしてその中に生きている人間はすべて自分の子供である。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
今ここに言う三つの世界(欲界・色界・無色界)は、釈尊自身の持ち物であるから、全宇宙と三つの世界とは全く同じ世界である。三つの世界(欲界・色界・無色界)は全宇宙と同じであるから、我々が現にいる世界は、過去・現在・未来と言う時間の中における世界である。

時間を考える場合に過去・現在・未来と言う三種類の捉え方をする場合もあれば、現在のこの場所における瞬間と言う捉え方をする場合もあって、この二つの考え方がお互いに邪魔しあうと言う事はないのである。しかしながら、我々がきわめて現実的に問題を考え、今この場所においてどうしなければならないかと言うふうな実践的な問題として我々のあり方を考えて見るならば、過去・現在・未来と言う頭の中で考えられた気の長い時間の考え方はどこかに飛んでいってしまう。

釈尊がこの三界はすべて自分の持ち物(自分と同じ性質のもの)と言われたけれども、その様な状況においては、あらゆる方角に広がっている宇宙全体というものが人間の体と全く同じ様な実体として現れて来るのである。また我々人間と同じ性質を持った世界であると言わざるを得ないのであり、長沙景岑禅師が言われた「あらゆる方角に広がっているところのこの宇宙全体が自分の眼の玉で見える限りの世界である」という主張とつながっていくのである。

三界の中に生きている様々な生きものも全宇宙の中における本当の実体であるし、その様な生きとし生けるものは一つ一つが個々に生きものとして生きているのである。一つ一つの生きものものの数が極めて多いところから衆生と呼ばれるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は「正法眼蔵」をまだあまり読んでいないわけですけど、先生の講義をここしばらく聞いてると、みんな同じ事ばかり言っているような気がするんです。
   
先生
同じ事です、ねらいは同じ事です。
   
質問
形を変えて言っていると・・・。

先生
ええ。という事は、坐禅と言うものが同じ事でしかない。「法華経」の説明で「一相一種」という言葉、一つの姿であり一つの種類のものを与えたと言われているところからも、私は坐禅の事を言っているという理解の仕方をするのはその事なんです。つまり、世の中は無限に複雑なわけですよ。

無限に複雑なものを解くカギを坐禅と言う形で与えていただいたと、こう言う事になるわけです。だから仏道の信仰というのは坐禅に対する信仰だと見て間違いないと思います。それ以外に仏教哲学は理解できないと私は思う。

質問
わかったと言う事は、自分が何か体験してると大抵は今頃でわかったという事になるんですけど、そういう体験がないから、わかったというのがどう言う事なのかと言う事がわからないんですよね。

先生
わかったと言うふうな事ではなくて、「わからなくてもいい」と腹を決める状況だと言ってもいいんですよ。そんな理屈はもう儚い事だから、どっか遠くの方に忘れてしまって、毎日朝晩坐禅をやっていたら何も問題がおきて来ないというのが仏道ですよ。だから「わかる必要もないな」と実感する事だと、そういうふうに見ていい。だからそういう点では、明治維新以降の学問の立場からの考え方と違うわけですわけよ。

ただ今日われわれが何で悩んでいるかと言うと、頭が良すぎる事で悩んでいるんですよ。そうすると、尖がっている頭をすこし削り取って丸くするためにはどうするかと言うのが仏道修行だと、こういうふうに見てもいい。頭が鋭すぎて、その鋭さが自分に突き刺さってどうにもならないという実情が、今日われわれの持っている文明かもしれない。

だからそういう点では、頭は頭なりにそれなりの役目を果たさせるためにはどうするかと言うたふうな事が仏教思想の基本にあると、そういうふうに見ていいと思います。


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正法眼蔵 三界唯心 5

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

三界において三界を見るという態度は、欲界・色界・無色界が現実に姿を現してきている状態であり、欲界・色界・無色界と言う三種類の世界が現に具体的に目の前にあると言う事である。それは見成公案なり(現に目の前に展開されている法の世界そのものである)

※西嶋先生解説
公案というのは、「公附の案牘」という言葉が略された言葉だと言われております。「公附の案牘」というのは役所の法律を示すお触れ書きをいうわけであります。したがってこの「公附の案牘」というのは役所が法律を新しく作った時に、それを民衆に示すために書きつける板を言うわけでありますが、この「公附の案牘」という言葉がさらに省略されて、「公案」という言葉が出来た、したがって「公案」という言葉は法とか法律とかというものを意味しておるわけでありますが、それが今度は仏教の中心的な言葉である法という言葉を示すようになってきた。

本文に戻ります。
この様な欲界・色界・無色界と言う三種類の世界に住んでいながら、しかもその欲界・色界・無色界の世界が我々の住んでいる唯一の世界であるから、我々はその中において、発心(本当のことを知りたい)と言う気持を起こして、修行(釈尊の教えに従って実践を行って)、菩提(実践の結果、真実に到達して)、涅槃(真実に到達した結果、非常に安らかな境地に入る)、という事を実際にやるのである。

この様に、我々が三界(欲界・色界・無色界)の中で一所懸命に仏道修行をして、真実に到達すると言う努力があればこそ、釈尊は三界(欲界・色界・無色界)というものが、すべて自分の持ち物だと言われたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は人間が一所懸命やる行動すべてが仏道修行だといいますが、行いにも善悪があると思いますが、悪事に没頭する、たとえば泥棒三昧なんていうのは・・・。
 
先生
その点では、仏道の世界は善悪を乗り越えた世界です。善悪にこだわっている時には、坐禅の境地と言うのは無いんですよ。普通は善と悪があって、悪を離れて善につけというのが普通の宗教の教えです。仏教にはそれは間違いだと言う主張があるわけですね。善だ悪だとこだわっているうちはいい事は出来ない。

善悪を乗り越えた世界で、一所懸命にやるのが真実の世界だと言う事でもある。これが仏教思想、
非常に特徴のある思想です。日常生活の経験からすると本当なんですよ。つまり夢中にやっている時に本当の生活があり、本当の人生があるというのが実情です。そうすると善いか悪いかと頭の中で考えている状態、つまり余裕のある状態、切実でない状態は、真実の世界ではないと言う考え方が仏教にはある。

西洋思想の場合は善と悪とに分けて、善がどう悪がどうと言う事で何千年も思想が発達してきたわけです。仏教思想のような形で「善悪を乗り越えるという中に本当の意味の実際生活がある」と考えざるを得ない面があります。 


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正法眼蔵 三界唯心 4

この様な理由から偉大な師匠である釈尊は「法華経寿量品」の中で言われた。

我々が現に生きている三界(欲界・色界・無色界)の世界をありのままに見ることが、三界とは何かということを知るということの一番よい方法である。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
この様に捉えられた世界が、欲界(意欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(行為の世界)と呼ばれるところの我々の住んでいる世界である。現に我々が見ている実情そのものが三界(欲界・色界・無色界)と言う世界の実体である。

三界(我々の住んでいる世界)とは、現に我々が住んでおり現に我々が見ている世界そのものであって、哲学的な説明で無限の過去から続いている実在だと言ってみても当たっているかどうかはわからない。無限の過去から続いている実在でないとするならば、いま現に急に現れてきた存在かと考えて見るとそうとも言えない。

急に今できあがったというものでもない。周囲の様々な環境や原因があってその様な環境や原因によって作られたものだと説明してみても、それが三界という世界の実体を説明しているとは言えない。また我々の住んでいる世界というものが過去・現在・未来と言う三種類の時間だと見ようとしてもそれも中々難しい。

この三界と言う世界における生き方としては、この三界の世界から脱け出すという境地を頭で考えることによって経験する事もできる。また現在のこの場所における我々の実体というものがまさに三界だという別の捉え方もある。この様な具体的な現実的な生き方、この世の中の捉え方と言うものは、この世の中における非常に大切なものと非常に大切なものとが見合っている状態を意味するのである。

つまり我々の生きている世界は言葉では表現する事のできないもつれ合いである。そのようなもつれあいがもつれあいを発展させている、何か言葉では説明できないものがどんどん成長しているというのが三界というものの実情である。現在のこの場所における欲界・色界・無色界と言う考え方が、欲界・色界・無色界と言う三種類の世界のありのままの見方であり捉え方である。その様な捉え方を釈尊は「三界において見る」と言われたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
世の始まりを仏教ではどういうふうに考えますか。
  
先生
「人知の及ぶところにあらず」と言うのが仏道の解釈です。この世の始まりがどうなっていたかと言う事をよく物知り顔に論議するけれども、「そんな事は人間にはわからんことだ」と言うのが釈尊の考え方です。釈尊の生きておられた時代でも、そういうことを問題にして釈尊に問答を仕掛けた人がたくさんいました。その時に釈尊は答えなかった。

答えなかった意味は、人間の頭で及ぶ事の出来ないものを論議しても始まらないと言う考え方からです。西洋思想の中で、そのことをはっきりと言ったのはカントという学者です。カントという人は、哲学を形而上学とそれ以外の哲学とに分けた。

「形而上学」というのは、この世界が有限であるとか無限であるとかを問題にして、どちらが本当かという論議をする事です。カントはそういう形而上学は、人間の知恵や人間の頭で考えてみても解らない事だから論議しても始まらないと言う事を非常にはっきりと主張されたわけです。

仏教において、そういう問題についてどういう解答をするかと言えば、「それは解らない事だから人間が論議しても始まらない」というのが、仏教における考え方だと思います。


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正法眼蔵 三界唯心 3

偉大な師匠である釈尊が言われた。   
 
我々の住んでいる世界のすべてはたった一つの心と理解する事ができる。我々の心というものを離れて別に実在というものが存在するわけではない。心と、真実と、生きとし生けるものと、それらの三つのものは区別する事ができない。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
このほんのわずかの言葉というものが、釈尊の一生涯のあらゆる努力を傾注したところの言葉である。釈尊の一生涯におけるすべての力が込められているという事は、釈尊が全ての力を振り絞って最大限の努力をして述べられた言葉と言う事が出来る。この言葉は単に口先だけの言葉ではなく、釈尊の行いを通して出てきたところの言葉であろう。

この様な理由から、ここで釈尊が述べられている言葉は、釈尊の人格がそのまま全て現れて来たと言えるし、釈尊の生涯のすべてがこのわずかな言葉の中に込められていると言える。このように考えてくると、今ここで釈尊が述べられたところの一切の世界はただ心そのものと見る事ができるという言葉は、釈尊の全人格がそのまますべて現れてきという事が言えるし、釈尊の生涯というものが、このたった僅かの言葉の中に込められているという事も言える。

三界――欲界・色界・無色界という三種類の世界が仏教の考え方の中では常に説かれているけれども、その三界という言葉は全世界という意味である。その全世界(欲界・色界・無色界)の他に心というものがあって、全世界と心とが同じだと言っているのではない。

なぜそのように言うかというと、我々の住んでいる三界(欲界・色界・無色界)という表現で捉えられる世界が、仮に素晴らしい透き通った姿をして美しく輝いているような状態であったとしても、やはり欲界・色界・無色界というふうな三種類の世界に分けられるような外界の世界であり、現実の世界であり、様々の思い通りにならないものも含まれたところの世界である

しかも我々はこの三種類の世界のどれかの世界の中に住んでいるのであって、これ以外に何か他の世界があると考えても、それは誤りであって、その様なことは決してあり得ない。我々が欲界・色界・無色界と言う三種類の世界に生きていく場合には様々 な経験をする。 古い経験、新しい経験と色々あるけれども、いずれも欲界・色界・無色界の実情を見せていることに過ぎない。 古い経験もこの我々の住んでいる娑婆世界の実態だし、新しい経験もまたこの我々の住んでいる娑婆世界の実態である。

※西嶋先生解説
本文に入る前の話で、三界の他に法界という言葉を言いましたけれども、この法界は三界の全てを含んだ世界という意味でありますから、三界と別にあるというわけではないわけであります。欲界・色界・無色界全部を包み込んだ世界を法界というわけであります。



              ―西嶋先生の話―

我々はある時には、大いに意欲に燃えてこれこれの事をしようと努力するわけです。 私も子供の頃、正月間際になると日記帳を買って来て「よし来年から日記を付ける!」と言う事で、日記を元旦につけて、二日をつけて、三日をつけて、三日ぐらいまでつけると大体忘れてしまい、正月の最初だけついている日記というのを何回か書いた事があります。 人間は意欲的にこうしたい、ああしたいと言う願いがいくらでもある訳ですが、実現するかしないかと言う事とはまた別の問題である。

そうすると我々は欲界(意欲の世界)にも住んでいるけれども、どうにもならない色界(物質の世界)にも住んでいる。つまり意欲があっても体がいう事を聞かないと言う世界にも住んでいる訳です。そういう世界では、ご飯を食べないとお腹が空いてくると言う事があるわけです。「いや、精神力で頑張る」と言ってみても、三日、四日ご飯を食べないとどんどん痩せてくる。いくら精神力で頑張っても、体が痩せると言う事はどうにもならない。そういう物質の世界(色界)の中にも住んでいるわけです。それと同時に意欲の世界と物質の世界だけかと言うと、今度は無色界(自分自身が体を 動かして一所懸命に働く)と言う世界にも住んでいるわけです。

そういう三種類の世界に住んでいるわけですが、その様な三種類の世界はどんな 世界かと言うならば、我々が住んでいる、我々が現に見ているありのままの世界そのものである。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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