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正法眼蔵 仏性 4

釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。

この世の中の一切の生きとし生けるものの存在が、何らかの努力によって累積されるものであるとか、何らかの客観条件から生まれたものであるとか、実在として現に存在するものであるというふうな解釈が仮に当っていたとするならば、仏教界において真実を得られた沢山の方々の体験も、それらの方々が把握された真実も、釈尊ご自身がもっておられた見方も、様々の行動の累積によって初めて積み上げられところの結果だと言う考え方になろうし、また何らかの環境から生まれてきたものだという考え方にもなろうし、また本来の宇宙のそのままの姿だという考え方にもなろう。

しかしそうではないのである。この我々の住んでいる世界は、何らの説明も解釈もなしにそのまま尊いのである。我々の生き方は「直下さらに第二人あらず」である。頭の中であれこれ考えて二つの考え方に迷う事ではない。現在の瞬間においは、意識される第二の自分は全く存在しないのである。坐禅をしていると自然に自分自身が出て来る。坐禅の修行をして自信を持って堂々と生きていく事が本来の人間のあり方である。仏道、仏道と騒いでいても、一番大切な事は「これでいいんだ」と言う自信を持つ事である。それが仏道の基本であり、その事が身につけば仏道の一切は疑問の余地がない様にわかって来る。

ところが人々はこの事に気が付かないから、さて仏道とは何かと言う事で迷いに迷う。そういう根源に立ち至らないで、あれこれと迷っているならば、様々な経験を経て積み重なった様々な考え方が一体いつになったら収まる時があろうか。我々の住んでいるこの世界は、我々も含めて何の根源もなしに、何の環境もなしに、ただ偶然に生まれて来た世界だと言うわけにはいかない。なぜならば、この我々の住んでいる世界は何も隠していない。ありのままが全部、我々の目の前に出てきている。この言葉の意味は、必ずしも我々の住んでいるこの世界が、すべて存在だ、実在だと言う事を主張しているわけではない。なぜならば、我々の住んでいるこの世界は、一切が我々の心に映じた姿であって、我々の心がなければこの世の中もない。我々の持ち物に他ならないという考え方があるけれども、それは仏教を信じない人々の誤った考え方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「法」の事なんですが、これは国の法とは一致するものじゃないわけですね。

先生
ええ、全部が全部一致するというものではないです。その国の法律ができる以前からあるもの、現実そのものとしてあるもの。だから国はそれを反映させて、ある時代・ある社会に適合した法律をつくるわけですが、それが全部が全部「法」に適っているとはいい切れない。適っていないからこそ、時代が経つと改廃(改正と廃止)が行われる。そういう関係にあると思います。

質問
そうすると実際には、法というものがどういうものかということは、知ることは難しいわけですね。
  
先生
いや、坐禅をすれば体全体で感じられるということです。坐禅をするのはそのためです。これは本を読んだって書いてないんだから。
  
質問
という事は、頭の中で考えてもわかるものじゃないという事ですか。

先生
ええ、頭の中で考えてわかるものではないという事ですね。体をその形にした時に、体全体で感じられるものが法だ、そういう事にならざるを得ない。


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正法眼蔵 仏性 3

釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。

ここではっきり知っておかなければならないことは、真実そのものの性質によって保たれているところのこの現実の世界は、あるとかないとかという頭の中で考えられた存在ではなくて絶対の存在である。したがって、この世の中の一切という言葉は釈尊の教えを基礎とした言葉であり、釈尊ご自身が述べられたところであり、釈尊がものを見られたその真髄であり、この現に生きている自分自身の鼻(息)に象徴される生命に他ならない。

またここで一切の存在という言葉が出てきたけれども、その言葉の意味は、存在がいま始まったという考え方でのこの世の中と言う意味ではない。この世の中は永遠の過去から本来存在したものだという意味でのこの世界でもない。言葉では表現することの出来ない何かだと言う表現を使ってみても、それでもまだ言葉の問題であるから、それが我々の住んでいる世界の実体そのものを表していると言うわけにはいかない。まして、何らかの環境があって、そこから生まれてきた存在、そこから生まれてきた世界だと考える事もできないし、何の原因もなしに、何の環境もなしに、ただここに存在するという捉え方も出来ない。そしてまた心(主観)とか環境(客観)とか、そういう二つのものに分かれた考え方とは関係ないし、中身と外見という二つに分かれた考え方で捉えられるものでもない。

この様に考えて来ると、この世の中の生きとし生けるものがその内容をなしていることの一切の存在における主観も客観も、一切のものが何らかの行動によって蓄積されて生まれてきた力だと言うものでもないし、何の原因もなしに、突然この世に現れて来たと言う形のものでもない。宇宙のありのままの姿だという表現も当たらないし、仏道修行して得られる非常に神秘的な能力というものでもないければ、それらに基づく日常の実践活動というものだけでもない。



              ―西嶋先生の話―

よく仏教を勉強しているとか、坐禅をしているとかという人の場合に、仏教を勉強したり坐禅をしたりするのは偉くなるためにやるという考え方の人が割合多い。偉い偉くないとかいってみても、社会的にどうこうと言う事ではないけれども、とにかく人間として偉くなるためにやるという考え方が割合あるわけですが、仏道修行とか坐禅とかというものは、偉くなるためにやるのではないと言う事があろうかと思います。

それはどういうことかというと、偉いとか偉くないとかといってみても、そう大した問題ではない。偉いという場合に、大抵の人が自分で偉いと思っている場合が多い。心理学の言葉で優越感という言葉がある。偉いといってみても、優越感をもっておると言う事がかなり事実としては大きいわけです。その反面、劣等感という言葉もある。劣等感というのは、自分はだめだ、だめだと思っている。人間の気持ちというものを考えてみると、ある点では非常に自信を持って自分は偉い偉いと思っている。ところが他の場面になると、自分はどうもだめだ、だめだと思っている。

だから、偉いと思っている部分とだめだと思っている部分とが混ざり合っている場合が割合多い。偉い、偉くないといってみても、自分が偉いと思っているに過ぎない場合が多い。優越感を持っている人は、人に比べて自分の方がましだと思っている。その点では、人と応対しても相手を小馬鹿にしたり、相手の劣っている所をすぐ笑ってみたりと言うような性格の人もいる。そういう人は、人にちょっとでも負けると非常に悔しがる。もういてもたってもいられないほど悔しがるという人がいるわけです。

その反面、そういう問題は全然問題にしないで、自分はだめだ、だめだとばかり思っている人がいる。そういう人は、人は非常にいいわけだけれども、その代わり多少だらしがない。だから世間の人と付き合っておっても、割合他の人に迷惑をかけるという場面もままあるわけであります。ところが仏道はそういう優越感を洗い落とす。あるいは劣等感を洗い落とすと言う事がねらいと言う事になるわけであります。だから仏道修行をし坐禅をやるという事は偉くなるという事ではない。そうかといってだめになることでもない。本来の自分を把むという事が仏道修行、坐禅をやる事のねらいと言う事になるわけです。 

ですから、臨済禅師は仏道のねらいというものを「無位の真人」と言う言葉であらわす。無位というのは位がないと言う事。偉くもない、だめでもないところの本当の人間と言うものが仏道のねらいだと、そう言うところから「無位の真人」という事を言われた。そういう点では、仏道修行は偉くなるためのものではない。それと同時にもちろんだめになるための修行でもない。本来の自分自身を取り返すというのが仏道修行のねらいだと、そういう事になろうかと思うわけであります。  
   

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正法眼蔵 仏性 2

「仏性」の巻、本文に入ります。

「大般涅槃経」において釈尊が言われた。「すべての生きとし生けるものは、すべて仏(真実を体得した人)としての性質を有し、また一たび仏となったものは、永恒の存在として変異することがあり得ない。

釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師が注釈されます。
この「大般涅槃経」に説かれている言葉は、我々の偉大な師匠である釈尊の言葉である。この言葉は釈尊だけの考えではなくて、その他の真実を得られたたくさんの方々や仏教界のたくさんの先輩方の考え方であり見方である。この様な教えというものを釈尊以来勉強して来た年限が、すでに二千百九十年の長きに達して、現在は日本においては仁冶二年の年に当たっている。釈尊以来、代々の正しい後継者によってこの教えは引き継がれて来た。

その間における正統の後継者は僅かに五十代に過ぎず、(わが師天童如浄禅師に至るまで)西インドにおいて二十八代、中国においても二十三代にわたって、代々引き継がれて来た。そしてあらゆる方角におられるところの真実を得られたたくさんの方々がその教えを拠り所とし、その教えを保持して今日に至った。「大般涅槃経」の中に説かれた釈尊の言葉としての「一切衆生悉有仏性」の考え方の趣旨は一体どういうことであろうか。釈尊が「一切衆生悉有仏性」と説かれた教えというものは、我々の言葉では表現する事の出来ない何かが、現に我々の目の前にあると言う教えを説かれたものに他ならない。

経典の中では「衆生」という言葉を使い「有情」という言葉を使い「群生」という言葉を使い「群類」という言葉を使っているけれども、それらの言葉は、様々の生きとし生けるものであり様々の存在である。したがって、この世の中に存在するところの一切のものは、仏としての性質を具えている。

※西嶋先生解説
――ここのところが、道元禅師の思想の特徴のあるところ。「すなわち悉有は仏性なり」というのは、道元禅師がいわれた独特の言葉だ。普通、この「大般涅槃経」の文句というのは、一切の衆生は仏性を具えているというふうにとらえているわけだけれども、道元禅師は一切の存在するものはすべて仏性そのものだということを主張された。だからその点では、この世の中にある一切のものが真実そのものだという事を主張されて、釈尊の教えもまたそういう思想だという事を主張された。――

ここで一悉(一切の存在)という言葉が使われたけれども、一悉という言葉は、衆生(生きとし生けるもの)という事と全く同じものを指している。我々がこの娑婆世界で一所懸命に生きているその時には、一切が仏そのものに他ならないのである。釈尊以来、代々の祖師方によって引き継がれて来た、皮、肉、骨、髄という体の実体だけということではなくて、一切の人々が皮、肉、骨、髄を得たといわれているのであるから、真実を得た人と同じ性質を具えていると言う事が言える。



              ―西嶋先生の話―

私は、坐禅は非常に楽しいものだと思います。こんな偉大な道楽はないと思う。道の楽しみと書いて道楽。道楽という言葉は今はあまりいい意味に使いませんが、道の楽しみという点から言ったら、やっぱり最高の楽しみだと言うふうに感じますね。これはやっぱり我田引水だけれども、私は我田引水という事を自覚しながら、やっぱりそういうふうに感じますね。坐禅はやっぱり楽しんでやるべきものだと思います。しかめっ面をして無理に頑張るものではない。

坐禅が好きで、もうやらなければどうにも気持ちが落ち着かないと言う形で、毎日やると言う事が、坐禅の本来のやり方だと思います。


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正法眼蔵 仏性 1

「仏性」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

仏性というのは仏の性質という事で、真実を得た人が持っているところの性質という事が言葉の意味であります。ただそこで仏というのは何かというふうな問題に入っていきますと、仏教では一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは悉く仏性を具えている)と言う考え方があるわけであります。この「衆生」というのは、一切の生物、そして単に生物だけではなしに、一切のこの世のものに仏性が具わっているという考え方もあるわけでありまして、仏というものの性質が仏教ではかなり広範囲に捉えられている。

たとえば、この世の一切が仏そのものであるという考え方もあるわけであります。そうしてみますと「仏性」というのは、この世のすべてのものが持っている性質という事にもなってくるわけでありまして、その事は”何々らしく”というふうなことが「仏性」ということと非常に関係があるということにもなってくるわけであります。それはどういうことかというと、仏教というのは、この我々が現にある姿をよく見つめて、その現にある状態を基準にして生きていくと言うのが、仏教の本来の考え方であります。

したがって、人間は人間らしく生きるということ、男は男らしく生きるということ、女は女らしく生きるということ、それが本来の姿であり、それが仏性であると、そういう理解の仕方もできるわけです。特に道元禅師はそういう立場で仏性というものを説かれているわけであります。したがってこの「仏性」の巻というのも、我々が普通常識的に考えている仏教の立場を離れずに読んでいきますと、何を言っておられるのか、非常に難しくなってくる巻だと言う事もいえると思います。

ただ道元禅師が、我々の生きている世界というものをそのまま肯定する考え方に立って、仏性というものを説かれていると、そういう立場から見ていきますと、道元禅師が何をいわれているかということが納得されて来る、そういう性質を持った巻だ、というふうにいえると思います。


           
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生が「人間はそんなに偉いものではない」とおっしゃった事が気にかかるのですが。

先生
人間というものを考えていく場合に、四通りの考え方をすべきだと思います。一番最初の考え方は、人間はあるいは人間の命は途轍もなく尊いと言う考え方がある。二番目の考え方は人間は単に細胞の塊だと言う考え方がある。三番目の考え方は、いざ現実の生活になってみると、手が二本あり足が二本あり目が二つある生き物がいて一所懸命働いている。

そうすると、働いているという事は、単に肉体として存在するだけではなくて、非常に大きな意味を持っている。ただ、それが正しく生きているか、正しく生きていないかという問題はある。一生懸命やっているけれども、どうも傍から見ると何のために一生懸命やっているのかよくわからないという生き方もある。四番目の考え方は、大きな基準(法)に当てはめて、本当に価値のある正しい生き方をしているか、動き方をしているかと言う事。
     
人間にはこの四通りの見方があると思います。他のものでも何でも、仏教はそういう四通りの考え方で解釈していくわけです。だから「値打ちがない」と言い切る事だけが正しくない。そうかと言って「人間は何をしようと途轍もなく偉いんだ」と言う事にもならない。そうすると何をやるかと言う事も問題になるだろうし、どういう事が正しいのかと言う事も問題になって来る事だと思います。


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正法眼蔵 看経 22

大先輩である薬山惟儼禅師が、高沙弥に質問して言う。

禅師問う:お前は真実を得たといわれているけれども、経典を読むことによって真実を得ることができたのか、師匠の説法を聞くことによって真実を得ることができたのか。
高沙弥答える:自分は経典から得たわけでもありませんし、また師匠の説法を聞いて得たわけでもありません。
禅師問う:世の中には経典も読まなければ、説法も聞かないたくさんの人々がいる。それらの経典も読まず説法も聞かない人々も当然お前のように真実を得ていいはずであるけれども、いまだにそれらの人々が真実を得たという話を聞かないのは一体どういうわけか。
高沙弥答える:お経も読まない、説法も聞かないという人々がたくさんいるけれども、それらの人々が真実を得ていないというわけではない。ただそれらの人々は自分自身が真実と一体になっているという事を、(坐禅によって)身心を通して真実を直接、体に体験することを中々やらないだけであります。

道元禅師の注釈です。
釈尊の説かれた教えの中には、実際の生活の中で体験する、体験しないの違いはあるけれども、いずれにしてもお経を読んだり説法を聞いたりという事が、仏教を勉強していく人々のごく普通にやるべき事であるということは、この薬山惟儼禅師と僧侶の問答からわかる。

          「正法眼蔵看経」  
          1241年の秋、9月15日
          興聖宝林寺において衆僧に説示した。



               ―西嶋先生の話―
                         --つづき

「坐禅というのは腰を正しく保持する修行だ」といっても間違いないと思います。腰を正しく保持する修行というのは、坐禅だけの問題ではない。毎日走る事も、正しく腰を保持する事に役立っている。朝三十分走る事と、三十分坐禅をする事とどっちが楽かと言えば、三十分坐禅をする事の方がはるかに楽です。走る事は体を動かすという事、服装を変えるという事、汗の始末をすること等考えても、毎日やるとなったら人によっていろいろ違うかも知らんけれども、三十分走るよりは坐禅をしている方が、少なくとも体を動かす必要がないという事では、楽なのではないかというふうに感ずるわけであります。

だから「正法眼蔵」弁道話の巻の中で「坐禅は安楽の法門なり」といわれているのは、文字どうりに考えていいと思う。つまり、毎日走る事を努力するよりは、文字通り安らかで楽しい真実に入る道だという理解で間違いないと思います。ところが世間では、坐禅というのは、苦しいもんだというふうに宣伝が行き渡っている。坐禅というと「いやぁ、あれは大変だ」ということで「いや、やめたほうがいい」と「体が持たない」というような事をすぐいうわけだけれども、私がやっておる限り、実際にやってみるとそう苦痛なものではない。

ただ、やらないで傍から眺めると「いやぁ、大変だ」と言うふうなことになりがちな面もあると思います。その点では、坐禅というのは体育としての一面がある。だからやらないと始まらないという問題がある。甘いようで厳しい面もある。同時にやらなければ駄目だという問題があるから、本を読んで何とかわかるような工夫はないかという事に我々は考えがちだけれども、仏道は中々そういうわけにはいかない。実際にやらないと、仏道が出てこないという面があるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。66歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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―坐禅の勧め― 坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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