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正法眼蔵 恁麼 5

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

この様な言葉では表現できない何かと言うものは、真実を得た人の頭でも考える事ができないし、我々の心で考えようとしても考える事ができないし、宇宙の大きさで考えようとしても考える事ができないし、我々の住んでいる世界全体で考えようとしても考える事ができない。我々の置かれている実情とは、すでに言葉では表現することのできない何かであるのだから、どうして言葉では表現できない何かを得たとか得ないとか言って心配する必要があろうと言う事に尽きる。

この様な点から考えてくると、言葉では表現できない何かとは一体何を指すかという問題に関連して、耳に聞こえる音、眼に見える色や形という具体的なものがまさに言葉では表現することのできない何かだという事も言えるであろう。また我々は心や体とかに関連して、それを言葉ではどうしても表現することができないけれども、その言葉では表現できないものが仏道が求めている究極に他ならないという事も言えるであろう。釈尊以来代々の祖師方が真実を究めてこられたわけであるけれども、その究められた真実というものは、まさに言葉では表現できない何かだという事ができよう。

たとえば地面に立っていた人が倒れたとした場合に、その倒れた事態は決して言葉では表現できないという形で理解したとしても、地面に倒れた人はその地面を頼りにして立ち上がらければならないという現実のあり方を具体的に経験した場合に、かつて地面に倒れた事をなぜなのかと疑問に思い悩む必要はない。それが我々の実際の日常生活であり、それを言葉では表現できない何かというのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は鎌倉時代の人としては、ともかく偉大な天才であると言う事ですが、「道元禅師が一代でこれだけやれるわけがない。おそらく過去において何代も人間に生まれ変わって初めてあのようになったんだ。前世はたぶん中国人である」と言う人がいるのですが先生はどうお考えになりますか。

先生
いや、そんなのはでたらめだね(笑)。人間が生まれ変われるんだったら、何の苦労も無いですよ。我々、一回きりだと思うから一所懸命やるんで、二回、三回あるんだとすればそう真面目にやらないね。「今回は大いに遊んでこの次は勉強しましょう」と言う事になる。だけれどもそんな事はない。人生一回きりだから、まあ一所懸命やらなくてはならないと言う事だと思いますよ。 

質問
輪廻転生について教えて下さい。

先生
古代インドにおいて、仏教が生まれる以前にバラモンの説くところの輪廻転生が非常に盛んだった。その輪廻転生からどう逃れるかというのが、バラモンの教えの中心的な問題であった。輪廻転生は信じるに足りないと、釈尊は主張された。仏教思想の考え方の中には輪廻転生の教えはありません。

仏教が広まり伝えられていくうちに、それ以前にあったバラモンの教えが仏教の教えの中に混同されて、輪廻転生の間違った考え方が入りこんでしまった。仏教を理解する場合に、すぐ輪廻転生と言うようなことが出て来る場合がありますが、仏教は輪廻転生をむしろ否定した教えです。


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正法眼蔵 恁麼 4

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。我々自身が言葉では表現できない何かであると言う事実を知るべきである。一体何によって我々が言葉では表現できない何かであると知る事が出来るのであろうか。我々は日常生活において、どういう根拠かわらないけれども、突如として言葉では表現できない何かが得たいと言う気持ちを起こす。その様に言葉では表現できない何かを得たいと言う気持ちを起こす事が、自分自身が言葉では表現できない何かであるという事の証拠となるのである。

その様にすでに言葉では表現できない何かであるという様子を我々は具えているのであるから、言葉では表現できない何かと言うものを得たいとか、得たとか、得られないというふうに心配する必要は少しもない。そして仮に日常生活において言葉では表現できない何かを得られないとか得たとか言って心配してみても、その心配する日常生活そのものが、すでに言葉では表現できない何かであるから、心配の対象になる様なものは何もないのである。この様な言葉では表現できない何かが現に在するという事を決して驚く必要はない。

仮に我々が日常生活において言葉では表現出来ない何かがあるという事実に対して、驚いたりそれが何かと思い煩ったりする事があったとしても、そういう驚きや疑問そのものが言葉では表現できない何かであって、何も驚く必要はないというふうな言葉では表現できない何かが、現に我々の日常生活にあるのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえばアメリカの人たちはキリスト教のためかもしれませんが、自分より周りの人のために尽くすという事に重きを置いてやっております。ところが日本人(私)の場合は、人のことはあまり考えないで自分を磨いていこうというのが先になるんです。「自未得度先度他」という教えが仏教にもあるんだから、でき上がらなくても人を救う事が大事なんですか。

先生
その点ではね、キリスト教の考え方と仏教の考え方は明らかに違います。キリスト教の場合には、自分と他人というものを置きまして「自分を犠牲にしても他人のため」という考え方です。仏教はどういう目標を置いたかと言うと、自分と他人のけじめがなくなるという事です。自分も他人も同じもんだから、大きな宇宙の中の泡のようなもんだという事に気がつくという事です。

そうすると、自分を犠牲にして「人のため、人のため」という努力も必要ないし、そうかといって人の利益を損なってでも「自分のため、自分のため」というのも本当の生き方ではない。人も自分も同じ丼の中の粟粒の様なものだから、どっちが先に行っても、どっちが後になっても大した違いはないというのが仏教の立場です。

質問
そうすると、「身心一如」という立場もありますね。

先生
そうです。だから、「身心一如」とか「自他不二」とかという考え方になります。それでね「人様のため、人様のため」という考え方がわりあい危険なものをもっているんですよね、裏から見れば、「人様のため、人様のため」という事で個人がやっていけるかというと中々そうはいかない。だからそういう点では、仏教のような考え方で、「自分も他人もあんまり違いがないんだ、どっちが良くてもそう大して大きな問題じゃない」という捉え方の方が、実体としては現実にかなっているいう事が言えると思います。

それが仏教の主張だし、仏教の主張が非常に温かい主張だという事はそのことなんです。「自分を滅却して、人のために尽くせ」という事も言わないし、「人の利益を犠牲にして、自分の利益を図れ」という事も言わないし、この世の中の成り立ちとは人様も自分もそう大した違いはない、同じようなもんだ。人様がよくなっても自分がよくなってもそう大きな違いはない、だから人様がよくなるときは人様がよくなるように、自分がよくなるときには、申し訳ないけど自分がよくなるようにという事で一向におかしくない。

誰がよくなる、誰が悪くなると言ってみても、そんな実態があるのかどうかさえ分からない。現実そのものが眼の前にあるだけなんだと、そういう事です。

質問
ああ、そうですねえ、ありがとうございました。


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正法眼蔵 恁麼 3

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

体というものを考えてみても、体自身がすでに個人的な存在ではなく、生命は時間の経過とともに変化して、ほんの僅かの時間も停止させることはできない。年若かった頃の輝かしい顔は一体どこに隠れてしまったのであろうか、それをもう一度見つけようとしても、どこにそれを見つけたらいいのかわからない状態が我々の人生である。

よくよく考えてみるに、過去における出来事というものは、もう一度であう事ができないと言うものが殆どである。我々は日常生活における瞬間瞬間に真心を込めて行いをしているのであるけれども、その真心の行いと言うものも、瞬間瞬間に現れては消え現れては消えるに過ぎない。我々の日常生活において確かに真心というものはあるけれども、その真心というものも自分というものを頭の中で考えた時に、その頭で考えられた自分の周辺に真心というものがついていて離れないと言う形のものではない。

この様にこれと言って自分としてはっきり掴む事のできるものが何もないにも関わらず、どういう根拠かはっきりわからないけれども、突如として真実を得たいと言う気持ちを起こす事がある。この様な真実を得たいと言う気持ちが起きると、従来取り扱っていた様々のものを一切なげ捨ててまだ聞いた事のない教えを聞きたいと願い、まだ体験した事のないところを体験をしたいと思う様になるのは、決して自分というものがあって自分が何をしたいと言う作為的な形で生まれて来るものではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
昨日、紀野一義さんという方の仏教の論評を読みましたが、「禅者は坐禅をすることばかり主張していて、非常に豪快であるけれども頑固さが感じられる」と言っていますが、私はそうは感じないんですけどね。

先生
うん、私もそうは感じない。

質問
どうしてそういうふうにとるのかなあと。あの人の書き出しが「私は禅者ではない」と書いてありましたから「ああ、それは頭で考えたことだな」という事で理解できましたけど。

先生
そう。だからね坐禅をしていると、そう頑な人間にはなりませんよ。坐禅の中から生まれてくるのは、非常に柔軟な心であり体であるという事が言えると思います。だから道元禅師が中国から帰られたときに、「中国から何を持ってこられたか」という質問に対して「柔軟心を持ってきた」と言われたのは、まさに坐禅からは否応なしに柔らかな体、柔らかな心が生まれてくるという事でしかないと思います


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正法眼蔵 恁麼 2

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。

ここで雲居禅師が言っておられる言葉の意味は、言葉で表現できない何かというものを得たいと思うならば、まさに言葉では表現できない人そのものになってしまう事である。言葉では表現できない人そのものになってしまったのであるから、どうして言葉で表現できない何かを得られるとか得られないとかと言って心配する必要があろう。この言葉の意味はどういうことかというと、直接に最高の真実に趣くということである。

※西嶋先生解説
直接に最高の真実に趣くというのは坐禅の事を指すわけです。我々は常に理屈の世界に生きておりますから、いろんな点で思い悩む、心配事もいろいろとある。ただそういう心配というふうなものを一切乗り越えて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしていると、直接に最高の真実と自分とが一体になってしまう。したがって坐禅という修行を通して真実と一体になってしまった状態の事を、仮に恁麼(言葉では表現出来ない何か)と言うのである。

道元禅師の注釈に戻ります。
この最高の真実と言うものの様子を考えてみると、我々の住んでいる宇宙というものも、最高の真実のごく一部分でしかないという事が言える。最高の真実と言うものは、宇宙よりもさらに大きいという事であろう。そして我々人間も宇宙の中における道具に過ぎない。

何によって言葉では表現出来ない何かがあるということを知るかというと、いわゆる我々の体も心も、いずれもこの宇宙の中に存在するのであるけれども、坐禅をしていると、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている人間が自分であるかどうかわからなくなる。自分というものは頭の中で考えれば、これが自分という判断がつくわけであるけれども、何かをやることに一所懸命になっている場合には、自分というものがどこにいるかわからない。



              ―西嶋先生の話―

総選挙の結果、自民党の大勝という事になったわけでありますが、ちょうど○○総理が亡くなった日の翌日に証券市場の新聞記者が私の所へ遊びに来ての話に、○○総理が亡くなった日の朝、証券会社の意見というのは、○○総理が亡くなったから自民党の勝利間違いなしという事で株式を買ったという話をしておりました。

それを聞いて、ずいぶん早い判断をするもんだなあと思っておりましたら、選挙の結果は予想以上に自民党が大勝したという事であります。そうすると、証券市場の人たちがその日にとった判断というのは、かなり正確だったという事が言えると思います。

証券市場の判断というのは、かなりたくさんの金を得るか得ないかという事と関係があるわけですが、その点では、各人が真剣な判断をすることを長年練習してきておるわけであります。そうすると様々の出来事に対してどういう見方が当たっておるかという事に、かなり命がけの努力を払っておるという事が言えると思います。

ああいうふうな一党の党首が亡くなるというふうな時に、世間で常にその亡くなった党の側の勝利を予想できるかというと、中々そうはいかないと思ます。見方によっては、総大将が亡くなったんだからかなり悲観的だというふうな見方もあったかもしれない。それからまた、同情票が集まるにしても、マイナスの面もあるだろうから、まあトントンか、ちょつといい程度というふうな判断もあったかと思うわけであります。

ただ、当日の証券市場の判断というものは極めて実態にあっておったという事。それは特に甘すぎるという事でもないし、特に辛すぎるという事でもないし、一番現実に近い判断をしたという事になるわけであります。仏道というのは現実に即した判断ができるという事が一つのねらいとしてあると思います。その点では、甘すぎもしない、辛過ぎももしない、最も現実的な判断をするために、我々は坐禅をしておるという事も言えると思います。

そして我々の人生の中で判断の正しさが我々の人生のかなりの部分を決めてしまうという事があるとすると、我々は坐禅というものを通じて常に正しい判断というものを養っておく必要があるという事も言えるわけで、その点正しい判断というものの関連して○○総理の亡くなったこととの関連で、証券市場で行った判断がかなり現実的であったという事、それは多少おもしろい問題として感じましたので、お話しておくわけであります。


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正法眼蔵 麼恁 1

恁麼(いんも)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

恁麼というのは、宋の時代の日常会話に使われていた「あれ」「それ」「何」と言うふうな意味の言葉であります。仏道というものの究極というものは何かという事が問題になるわけでありますが、釈尊の教えに従えば、我々の生活における究極のものというのは、現実そのものであって、言葉では表現できないという原則があるわけであります。

今日のようにものを考えるという事が非常に進んでまいりますと、一切のものは理屈でわかるはずだという信仰があるわけであります。ただ釈尊は我々が住んでいる世界の中で一番大切なもの、究極のものは言葉では説明できないという体験を持たれたわけであります。そしてそういう我々の人生の究極にあって、しかも言葉では説明できないものを「恁麼」という言葉で表現したというのがこの巻の主題であります。

この「恁麼」という表現は中国において生まれた表現でありますが、中国における唐、宋の時代の仏教に対する理解は哲学的に非常に深い境地に達していたというところから、仏教の究極のものは言葉では表現できないと言う意味で、この「恁麼」と言う言葉が重要視された。その重要視された言葉を道元禅師はこの巻で説明されている訳であります。  


「恁麼」の巻、本文に入ります。
雲居道膺禅師は洞山悟本大師の正統の後継者である。釈尊から数えていくと第三十九代目の孫弟子に相当する。したがって、洞山悟本大師が開かれた宗派における正統な教団の指導者であると言う事が出来る。

雲居道膺禅師がある時、たくさんの僧侶に説示された。   
例の言葉では表現出来ない何かを得たいと思うならば、まさに言葉では表現できない人になるべきである。

※西嶋先生解説
ここで恁麼人(言葉では表現できない人)というのは何を指しているかというと、坐禅をやっている人の事を指しているわけです。だから仏道が目標としておる言葉では表現できないものを得たいと思うならば、坐禅を通じて言葉では表現できない何かになってしまう事が一番近道だと。

坐禅を通じて言葉では表現できない何かになってしまえば、もう現実には表現できない人になってしまっておる。そういう状態になったならば、仏道の究極がどうであるとか、仏道の真実が何であるかというふうなことを心配する必要は全くない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は坐禅ができる事を幸せに思っているんです。私の友達にギックリ腰で坐る事が出来ない人がいるんですね。病気になっている人に道元禅師の話をするのは何か気の毒であるような気がするんですが、そういう人にどう接したらいいんでしょうか。

先生
たまたまギックリ腰と言う病気が実例に出た訳ですが、坐禅をやっているとギックリ腰には絶対にならない。これは毎日腰骨の状態を正しい状態においておる訳だからね。ギックリ腰と言うのは、その腰骨の状態が歪んだまま何十年もそういう生活を続けるから、結局無理に無理が重なってどうにもならなくなって出て来るのがギックリ腰ですよ。だからそういう点では、坐禅をやっている限りギックリ腰にならんと言う事が言える訳ですよね。
     
ただ、たまたま様々な体の疾患でどうしても坐禅が出来ないと言うふうな状態の人がいないとは言えない。その人たちがどういう形になるのかと言う点については、第三者からは想像できない。私自身も想像できない。だからそういう体の疾患でどうしても坐禅が出来ない人々に対してこうすべきだなんて事は言えないわけでね。結局、そう言う当事者自身がどういう形で坐禅と同じ様な効果が生まれるかとか、実際にどうしても出来ないのかどうかと言う点は、それぞれの当事者の問題だと言う事にならざるを得ない。
     
その点では、私自身も自分の経験しない事、自分の経験できない事については論議が出来ないと言う問題がある訳ですね。だからそういう事については、私自身としても「今のところわかりません」と言う答えにならざるを得ないという事があると思います。これは決して薄情でも何でもないんでね。ただ自分で経験しない事については言えないと言う事ですよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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