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正法眼蔵 諸法実相 26

応菴雲華禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

応菴雲華禅師は心が動く、心の内容が動くと言う言葉を使っているけれども 、心は常に動いているものではなくて、動かない状態もあると言えるし、二十四時間絶えず気持ちが動いている、と言う事が本当にあるのかどうか。そして心と簡単に言っているけれども、我々の住んでいる世界の中で心というものが本当にあるのかどうか疑問である。

また我々は心があるように考えて、様々の種類の心というものを頭に描くけれども、その様な心というものの中には、二十四時間という我々の現実の生活というものは入り込んでこない。まして心が動揺するという事がどこにあり得よう。

また心の内容が動くと言っているけれども、その心の内容が動くと言う事はいったいどういう意味であろうか。 心の内容は動くと言うべきなのか、動かないというべきなのか、動く、動かないという事を超越した状態だと言うべきなのであろうか。 動くというのは一体どういう意味か。動かないと言っているけれども、動かないと言う事はどう言う事なのか。

心の中身という言葉を使っているけれども、その言葉で何を表そうとしているのか。心の中身を考えてみた場合に、その様な心の中身が二十四時間の中にあると考えたらよいのであろうか、あるいは心の中身として二十四時間があるのか、どちらが本当なのか。あるいはその両方の考え方とは違う別の状態があるのであろうか。

また「二十四時間と言う具体的な時間の中に関心を持つならば大変理解しやすい」と言っているけれども、いったい理解する対象としては何を意味しているのか。理解しやすいと言っているけれども、それが釈尊の説かれた教えに関連して言っているのかどうか。しかしながら釈尊の説かれた教えは理解の対象とは別の性質のものであるから、理解する事が易しいとか、理解する事が難しいとかと言う事とは関係ないのである。

仏道修行というものは単に頭の中で理解しようとしても出来るものではないから、南嶽懐譲禅師も、江西に住んでいた馬祖道一禅師も、長い期間に亘って師匠に従って一所懸命坐禅をしたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
いろんな依存症がありますが、坐禅ばかりやっていると坐禅依存症というのがあるかと思いますが・・・。

先生
ああ、坐禅依存症ぐらいになれば人間立派なもんです。中々そこまで行かないんだけれども。

質問
自分は規則正しい生活を一定程度続けるとイライラしてくるというか、一週間に 一ぺんぐらい乱れないとどうも具合が悪いんです。その問題と接待がありますね。日本では酒を飲みながら仕事をする事ってありますね。仕事だからあまり飲まないわけにもいかないし、だけど飲んでいるうちにじゃ夜坐禅をしようか、と言う感じにはとてもならない。そういうのはどう対応する事を考えたらいいんでしょうか。

先生
世の中にはそういう接待と言うようなものがあって、社会生活をやる以上避けられないと言う状況はあると思います。ただ私は、そういう社会生活をしていた時も、酔っ払って家へ帰っても坐禅をしました。坐禅をすると、その酔いが醒めてくるんですよ。だから、そんなもったいない事をしちゃいかん、と言う人もいるかもしれないけれども、私の場合には多少とも醒めた形で寝る事の方が快適だと言うような感じでやっていました。
    
これについては、夢窓国師が書いた本の中に、「足利尊氏は中々感心だ、夜、酒に酔っても坐禅する」と言う事が書いてあるそうです。私は直接読んでいないから何とも言えませんけど。だから足利尊氏の様な人間も、夜酒を飲む機会があったんだろうけれども、その後で坐禅をしたと言う事はどうも事実のようです。    
    
質問
人間は一所懸命に生きる事によりまして苦しみとか、そういうものから脱却するといいますか、人間として毎日毎日が一所懸命に生きる事が果たして出来るかどうかいかにも難しいと言う関係にもあるように思えますけれども、そいう点はどういうふうに・・・。

先生
そこでね、坐禅に頼る事を釈尊は勧められた。人間が心がけをよくして一所懸命やろうなんていっても、人間はそれ程強くないんですよ。だから坐禅をして行いの世界の中に自分を置いて、その状態を頼りにして生きていくと言う事になる訳ですから、釈尊の教えは坐禅に頼って、坐禅を毎日やって人生問題のすべてを解決すると言う事が基礎にあると思います。


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正法眼蔵 諸法実相 25

ある時、応菴雲華禅師が徳徽と言う仏道修行者に説示して言われた。

仏教思想はたいへん難しい思想だと言われているけれども、それを簡単に理解しやすい形で表現するならば、二十四時間、気持ちが動揺しているならば動揺しているなりに、その動いているところの心についていって、現在の瞬間において即座に一切の事を明快に了解するならば、日常生活の実情は本来理解すべきものではないと言う事がはっきりしてくる。
  
その様子は空間が捉えどころがないのと同じ様に、日常生活の実態や現実は決まった形があるわけではないし、また固定的な順序もあるわけでもなくて、裏と表とが一つのものであって、理性的な働きとそれを包んでいる環境と両方のものが対立している状態がなくなって、過去も現在も未来のいずれの時点においても均衡がとれていて平静な状態である。この様な境地に到達したならば、その人を学問を超越し作為的な行いを離れ悠々と仏道修行を楽しむ人と言う。

応庵雲華禅師の言われた言葉について道元禅師が注釈されます
この言葉は応菴雲華禅師が全力を尽くして言われた境地を表す言葉である。非情に結構な概念的な言葉をたくさん並べているけれども、本当に応菴雲華禅師ご自身が自分の境地にどっかりと腰をおろしている境地がどうも見当たらない。

応菴雲華禅師は「表と裏とが一体になる」と表現されているけれども、表と裏とが一つでない時には釈尊の教えはないという主張をしているのか。一体何を称して表と裏と言うのであろうか。

応菴雲華禅師は「空間は捉えどころがない」と表現されているけれども、想像してみるに、応菴雲華禅師はいまだかつて空間と言うものを知らないし、 現実に空間と言うものを見ないし、空間と言うものを掴んだことがないし、空間と言うものを具体的に叩いてみた事がないのであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はね、相手の気持ちになるという事は相手の人格を尊重して、その相手の気持ちを察知するという事が根本になってくるように思うんでございます。

先生
う-ん、もっと直観的なものかもしれない。鏡に影が映るように瞬間にパッと分かるもんだと、そういう能力が人間には具わっているんじゃないか。それが鏡が曇っていると、パッと映らないという場合が割合あるんじゃないかと、そういう見方です。で、欲張っている時、これは事態が見えないです。

欲をかいてガツガツしている時というのは、自分がどういう状況の中に置かれているかが割合わからない。欲しいものだけに目がくらんでしまっているという場合がありますね。それからまた人の評判を気にした時も、ものが見えなくなりますね。「人に褒められたい」という気持ちが強いと現実がどうなっているかがよく見えないという問題があると思います。だからその点では、仏道の世界というのは甘いようで厳しい面もありますね。

質問
大変考えさせられました。どうもありがとうございました。

質問
じゃ、そういう人を「利口な人」っていうんですね。

先生
利口な人というより、坐禅をやっていると出来るんですよ、この能力は。つまり、法(宇宙秩序)というものがあって、自分自身を法に合わせるんです。坐禅というのは法に自分の体を合わせるわけですよね。だからそれを毎日やっていると、法と自分の体とが一つになると現実がどうかという事が見えてくるんですよ。頭で考えなくても、鏡に映るような形で、瞬間的にわかるわけです。

これは瞬間的に、直観的にわからなければ、頭で考えてもわかるものではないです。だから仏道修行がなぜ必要かというならば、そういう形で直観的に事実をつかみ取る能力を養うという事になると思います。


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正法眼蔵 諸法実相 24

(道元禅師の)師匠である天童如浄禅師が言われた。   
 
いま諸地方に住んでいるところの長年の仏道修行者を眺めてみると、それらの人々はいずれも過去の諸先輩を勉強してみることもなければ、現在の優れた師匠について仏道を勉強してみるという事もない。 釈尊の説かれた教えの基本原則というものをいまだかつて保持した事がないようである。

あらゆる方角に展開している宇宙というものは、現にこの様に眼の前にある。どうしてそれがどういう実体であろうかという事が頭の中だけでわかるはずがあろう。その様な状況で諸地方に住んでいる長年の仏道修行者たちは、いまだかつてその様な教えを聞いた事がないような様子に見える。

道元禅師がこの天童如浄禅師の説法を聞いて、同じように説法を聞いていた諸地方の長年の仏道修行者にその意味するところを質問して見たが、その説法の意味を十分に理解している人は非常に少なかった。それらの長年の仏道修行者たちは、それぞれの寺院で住職をしているけれども、実質的な力量が欠けているにもかかわらず、その様な住職の職に就いているのが当時の実情であって、その様な状態と言うものは大変哀れな事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅で息の仕方と言うんですか、調息ということで息を整える事をやられるんですが、これはどの程度意識したらよろしいんでしょうか。

先生
調息と言う事がよく言われていますけれども、私はあくまでも道元禅師の思想を通じて一切のことを考えると言う立場です。道元禅師が呼吸の事についてどういう事を言っているかと言うと「長い時には長く、短い時には短く」と言われております。その事は自分の体の状態に合わせて、長くても短くてもどちらでもよろしいと言う意味になります。長い息をしたい時には長い息をするし、短い息で間に合う時には短い息でいいと言う考え方を述べています。

質問
先生の本を読んでおりましたら、坐禅は一日に四回やると書いてありましたが。

先生
うん、四回やると道元禅師の著作には出ているんです。恐らく道元禅師は寺院生活の中で四回の時間を決めてそれに応じておやりになったと言う事が実情だと思います。確かに四回やると体がかなり坐禅に慣れると言う事は事実ですから、多いに結構だといえると思いますが、我々のように日常生活で昼は外に出て働かなければならない場合には、四回の坐禅は中々難しいから、そこで最小限一日に二回やることに努力すべきだと言う考え方です。

坐禅は一日に長い時間やるよりも、短い時間でもいいからあまり間をあけずにやると言う事のほうが大事だと思います。今日、一日二回やるのは中々大変だと思いますが、毎日やりますと坐禅と言うものが身についてくるという事情がありますから、飛び飛びにやるよりも、なるべく頻繁にやる事が効果が出ると言う事情があります。


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正法眼蔵 諸法実相 23

道元禅師の主張は続きます。

三教(道教・儒教・仏教)一致を唱える人々が釈尊の説かれた正しい教えを学ぶに当たっては、我々が現に生きている生き死にの世界、流転の世界を何とかして早く抜け出すようにという主張だけをする。またある人々は、釈尊の説かれた教えを勉強する事が一体どの様な事であろうかという事さえも知らない人が多く、ただ寺院の中に住んでいる事が昔の教えを学ぶ事であるとばかり考えている。

この様に釈尊の教えや達磨大師の説かれた教えがすたれてしまった事はたいへん哀れな話である。真実を得られた仏道修行を長期にわたってされた方々が大変残念に思うところである。したがって、この様な三教一致を説く人々が述べる言葉を聞いてはならないし、その様な人々を哀れに思わなければならない。

圜悟克勤禅師は「日常生活における生き死にこそ真実を得られた方々の真の実体である」と言われた。この様な言葉を取り上げて、自分自身が何であるかと言う事を知り、釈尊の説かれた教えがどういうものであるかという事を考えて見る必要がある。また長沙景岑禅師が「あらゆる方角に広がっている宇宙が本当の人間の実体と同じものであるし、あらゆる方角に広がっているこの宇宙が自分自身を発する光の中に存在する」と言われた。    

ところがこの様な圜悟克勤禅師の言葉や長沙景岑禅師の言葉については、現に大宋国の様々な地方にいる長年の仏道修行業達が、この様な言葉を勉強すべきだと言う基本的な考え方さえ承知しておらず、まして実際に勉強してみると言う事は殆どない。それらの人々にこの様な言葉を取り上げてその意味を問い正した場合には、何の返事も出来なくて顔を赤らめただ黙っているだけであろう。



              ―西嶋先生の話―

「仏」と言うのは仏道の説いているところの真実と一体になった人。「仏以上の人」と言うのは、自分が真実を得たと言う事も忘れてしまった人。それは日常生活に徹して、コツコツと生きている人と言う意味です。また自分が偉いと言う事も忘れてしまった人と言う意味です。こう言う話は非常に浮世離れした話で、日常生活あるいは社会生活にはおそらく関係あるまいと普通は考えられているけれども、我々の社会生活というのは、みんな宇宙の中での出来事。だからその原則と言うのはそう違わない。

人が寄り集まっていろんなグル-プをつくって、そのグル-プの中ではいろんな仕来りがありいろんな規則があるけれども、その外側には必ずそれより広い世界がある。一番広い世界と言えば宇宙と言うもの。宇宙の原則によって、一切のものが支配されているわけです。だから究極のものを把んでから日常生活を見直すならば、日常生活の実態というものが非常によく見えてくると言う面があるわけです。

ところが、狭い範囲の考え方だけで一所懸命にやっていると、傍の状況と言うものがよくわからない。広い世間から見ると案外大した事ではないものを、非常に大切に考えて無我夢中でやっている社会の様子と言うのはどこにでも沢山あるわけです。だからそういう点では、狭い世界で一所懸命になる事も大切かもしれないが、時には大きな立場から実態がどうなっているかと言う事を見る必要があるわけです。

自分が偉い偉いと思っている状況の時はまだそう大した事はない。自分は本当に偉いのか偉くないのかよくわからなくなってしまった、人からも「偉い」と言われるほど特に目立って見えないと言う状況の中に仏道がある。だから仏道というのはかなり「すれた人」への教えですよね。純情な人は、なかなか仏道を信じようとしない。

ただ、世の中の荒波にもまれて泥だらけになった経験のある人は、「いやあ、釈尊の言っている事は本当かもしれない」と言う事に気がつく訳です。純情な人は釈尊の教えがあんまりピンとこないんですよ、正直言うと。「執着のない方がいい」いう様な事がよくわからないで、「いや、執着してとにかく欲をかいて金を儲けた方がいいじゃないか」というふうに普通は考えるわけでね。世間の考えは大体そう言う事です。

組んずほぐれつで一所懸命やってみても、最後になって「何のためにやったのか、よくわからない」という時がある。そんな時には、もうちょっと広い高い立場から問題を考え直してみないと「一所懸命やったけど、何のためにやったかよくわからんな」と言う事になりがちです。釈尊はそういう点で、広い立場、高い立場から本当のものを眺めて、そして自分が何をやっているのかよく把んでおいた方が自分の人生を意味あらしめる最大の原因になると言われたと見ていいと思います。

仏道というのは一筋縄でいく教えではない。かなり「すれた人」でないと興味を持たない。これは本当ですよ。だから仏道に興味を持っている人は、大体かなり苦労してすれた人が多い。すんなり生きてきた場合には、中々こういうひねくれた考え方を勉強してみようと言う気にならない。どうもそういうところがあると思います。


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正法眼蔵 諸法実相 22

道元禅師の主張は続きます。

釈尊が誕生されて直ぐに七歩歩まれて、天と地とを指して「天上天下唯我独尊」というふうに言われた伝説が伝わっているけれども、その意味するところは、釈尊の説かれた教えがこの世の中においてたった一つの最も尊い思想であると言う主張であって、その点では儒教や道教と一緒でなければ尊さが生まれてこないと言う主張ではない。「天上天下唯我独尊」と言われた物語が伝っている、その時の情景というものを想像してみるべきであり、忘れて判断を間違うような事があってはならない。

※西嶋先生解説
もちろん釈尊が誕生されて直ぐに七歩歩まれて、天と地とを指して「天上天下唯我独尊」というふうに言われたという物語は、歴史的事実であったかどうかという事はさておいて、仏教思想があらゆる宗教、あらゆる思想の中で最高のものであって、たった一つのものであるという主張がある事は疑問の余地がないわけであります。

道元禅師の主張に戻ります。
然るにこのような事実を無視して、仏教・儒教・道教の三つの教えが同じであろうと主張することは、子供の片言にも達しておらず、釈尊の説かれた教えを破壊しようとする人々の言葉である。今日ではこの様な人ばかりがやたらに多いというのが実情である。この様に三教一致を主張する人々が、ある場合には指導者である様な素振りを示し、ある場合には皇帝の師匠となっている。 偉大な宋の国と言えども、釈尊の説かれた教えが非常に衰えている時代だと言わざるを得ない。

自分(道元)の師匠であった天童如浄禅師も、深くこの様な三教一致の主張をする事を警告された。この様に三教一致の主張をする人々は、仏教徒の中でも単に頭や感覚的な刺激だけを通じて仏教を勉強しようとする人々や、非仏教徒になる素質を具えている人々である。しかも仏教の教え、諸法実相(この世の中にある一切のものが真実の姿を現している)と言う思想があると言う事さえも知らずに、すでに二、三百年という長い期間を経過してしまった。

※西嶋先生解説  
ここでなぜ「諸法実相」の思想を取り上げたかと言うと、道教や儒教においては 「諸法実相」の思想がないと言っておられるわけであります。道教では、この世の中は汚れに満ちた世界であるから、山や竹林に入って人間社会から離れて生活しなければ本当の生活は出来ないと言う考え方があったわけであります。 この世の中をきれいなものと汚いものと二つにに分けて、きれいな方に住もうと 言う考え方は「諸法実相」の考え方ではないし仏教思想と同じではないという主張をされているわけであります。

また儒教の教えは、人間社会における、その時代その時代における相対的な生き方を勉強するという性格があるわけであります。ですから社会の中における生き方には非常に熱心な態度をとるわけでありますが、宇宙全体の立場から基本的な問題を考えると言う態度が少ないわけであります。そういう意味でやはり儒教も「諸法実相」の考え方を持っていないと道元禅師は理解されたわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言う有名な言葉は、僧侶がこれを読みました場合、いわゆる無上正覚というものを現実に自分が体験する境涯にあれば、いつでも生と死を自由自在にこなすという立場であれば、儒教と言えども仏教とさほど違いがないと言うような考えになっておかしくないのではないか、と言う様な本を見たこともあるんですけど・・・。

先生
その点では、道元禅師自身が「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言う言葉を非常に好んでおられた。だから、俗の書の中に出て来る言葉であるけれども、非常にいい言葉だと言う事を言っておられます。だからその点では「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という事を道元禅師は非常に好んでおられたという事は言えると同時に、その意味はどう言う事かと言うと、ほんの一刻でも仏道を志したならば、すぐその直後に死んでも悔いはないではないかという主張です。

ほんの一秒でも坐禅をしたならば、その直後に死んでも、その一秒の坐禅がある限りその人の一生は最高のものではないかという主張です。だから「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言う思想を、そういう意味で道元禅師は理解しておられた。何らかの機縁があって仏道を学ぶ機会に恵まれたと言う事が、人間の一生にとって最高の事実だと、そういう主張を兼ねて「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言うのは、俗人の述べた言葉であるけれどもいい言葉だと、こういう文章が道元禅師の文章の中に出て来るわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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