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正法眼蔵 洗面 2

「洗面」の巻、本文に入ります。

「法華経案楽行品」に言う。
油を体に塗ったり、塵や汚れというものを入浴して洗い清めて、新しく汚れていない衣服を身に着けるならば、心も体もともにきれいになる。

「法華経案楽行品」で言われている言葉について道元禅師が注釈されます。
このやり方というものは釈尊が「妙法蓮華経」を説いた教団において、四種類の安楽行を実際に実践している仏道修行者のために説明されたところである。釈尊がさまざまの教団でさまざまの説法をされているが、「法華経」以外の経典にでてくる教団において説かれている説とは異なり、「法華経」以外の経典が説いている説と同じはずがない。

この様に「法華経」の中に説かれているところから見るならば、体や心を洗い清めて、香りの高い油を体に塗り、塵や汚れをとり除くことが釈尊の説かれた最高の教えである。そしてまた、新しく汚れのついていない衣服を着ることが、一つの非常に清らかな修行法である。塵やけがれを洗い清めて、香りの高い油を身に塗ることによって、心も体も共に清らかになるであろう。そして心も体も共に清らかになった際には、周囲の環境も人間自身も共に清らかな状態になることが出来る。

ところが、釈尊の説かれた教えをまだ聞いておらず、仏道に参加して釈尊の説かれた真実というものを実際に自分で体験したことのない愚かな人々が言うには「入浴して体をきれいにするという事は、ただ体の表面だけをきれいにするという事にはなるけれども、体の中には五臓六腑があり、この様な五臓六腑を一つ一つ取り出して洗うのでなければ本当の意味できれいにはならない。したがって無理に入浴して体の表面を洗う必要はない」と。

この様な主張をする人々は、釈尊の説かれた教えが一体どういうものかという事がまだわかっていないし、その様な教えを聞いたことがなく、正しい師匠に出会ったことがなく、釈尊の弟子や釈尊の系統を引く孫弟子という立場の人々に出会ったことがないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
いるかにすれば、仏祖の心と私の心が一緒になれるのでしょうか。やはりそれは坐禅とか、そういったものによってのみ・・・

先生
そう。それはあせって努力しても到底出来る事ではない。だから、お釈迦さんの体の格好と同じ格好をする事が最大の決め手だ、と言う事が仏道の信仰です。坐禅をなぜするかといえば、足の格好・手の格好・体の背骨の格好も全部お釈迦さんと同じ格好にする。そうすると否でも応でもお釈迦様と同じ気持ちになる、とそういう考え方です。

質問
仏道では犠牲という事はどう考えているんですか。

先生
犠牲と言う事は仏道ではあまり好まない。自分をなくす、自分を無理すると言う事はあまり現実にはない、という考え方が強いです。世の中と言うのはそういう形に出来ていない。自分を減却して人のために生きると言う事が、現実の生活の中で果たしてあるかどうかという考え方が仏教の中にあります。

だから、自分のために一所懸命やっているようでも、人のためになっている事もあるし、人のために一所懸命になって、自分の事は全然顧みていない様でも、長い目で見ると自分のためになっていると言うのが現実のあり方だ、というのが仏教のとらえ方です。犠牲とは自分と他人を二つに分けて、自分を0にして、相手を100にするという考え方があります。しかし、そんな考え方があるかどうか、という疑問は仏教の思想の中にはありますね。


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正法眼蔵 洗面 1

「洗面」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

洗面というのは、もちろん朝、顔を洗うという事を意味しておるわけであります。普通宗教的な立場からしますと、心と物とを二つに分けて、宗教の問題は心の問題であるという理解の仕方が一般的に受け入れられておるわけであります。その事は朝、顔を洗うという事の中に宗教的な意味を認め得るかというと、普通の宗教では朝、顔を洗うという事に宗教的な意味があるという受け取り方をしないわけであります。

ところが仏教では先ほど申しましたように、物と心とを一つのものだと、こういう風に考える事が基本的な立場でありますから、顔を洗う事によって心が洗われるいう主張があるわけであります。心を洗うというためにはどうしたらいいかというと、顔を洗わなければならない、体を洗わなければならない、こういう主張があるわけであります。

それでは、顔を洗う事、体を洗う事がなぜそんなに大切なのかといいますと、仏教の立場は人間の行いというものを通じて物と心との分裂をもう一度統一しようという努力が行われたという風に言う事が出来ると思います。そのことは人間の体というものを考えてみましても、本来汚れているという風な事は決して言えない。それと同時に、洗わなければ汚れているという事も言えるわけです。

ですから、人間が手を使って顔や体を洗うという事が人間の体をきれいにすると同時に、心もきれいにすると言うのが仏教思想と言うことになるわけであります。そういう点では、物と心との対立を人間の行いを中心にして統一するという考え方が仏教思想だ。したがって、顔を洗うというごく日常生活の当り前の動作にも非常に大きな宗教的な意味を認めたという事がこの「洗面」の巻でも説かれているわけであります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
実際に今の世の中で、拝み屋さんなんか色々なことを言いますよね。「君は前世に悪いことをしたから、今世でこういう目に遭っているんだ」とか、「今世であんな悪い野郎がどうしてあんなに楽々と暮らしているんだ」と言うと、「ああ、あの人は前世でもっていいことをしたから、そのお蔭をもって現在はのうのうとしているんだ」と、こういう説は道元禅師は認められないんですか。先生も認めないんですか。

先生
うん、その点では結論的に認めないという事は言えると思います。「正法眼蔵」の中に、「三時業」と言う巻があるわけです。そこで説いていることはどういうことを説いているかというと、この世の中の一切は因果関係だという主張が仏教にはあるわけですが、ただ世の中の出来事を見てみると、善いことをしている人が必ずしも幸福でない場合もあるし、悪いことをしている人が幸福な状況もあるので、果たして原因・結果の関係がそれほど厳密に作用しているかどうかという疑問を持つ場合もある。

そういう疑問がなぜ起こるかというと、因果関係における原因と結果との関係については、原因があってすぐ結果が生まれる場合と、原因があってしばらく時間がたって結果が生まれる場合と、原因があって非常に長い時間がたってから結果が表れる場合と三通りある。そういう場合に原因があってから非常に長い期間結果が出てこないと、人は原因と結果の関係に例外があるんではないかと考えがちだけれども決してそうではない。

原因と結果との関係に非常に長い時間が経過するという場合もあって、原因と結果との間に時間の長い短いはあるけれども、原因と結果の関係は100%一分一厘の狂いもないというのが実情だというが「三時業」でも説かれていると、こういうふうに見ていいと思います。

ですから前世というのがあって「お前は前世に悪いことをしたから」という事は、まったくでたらめだと言い切っていいと思います。そういうふうな形のものではないんだ。もっと厳密な原因といえば、ご飯を食べ過ぎればお腹が苦しくてしょうがない。前の日に一杯飲んで十分に睡眠をとらなかったら翌日眠くてしょうがない。そういうふうな原因・結果の厳密な関係によって一切が貫かれている。これが言えると思います。

ただ前世というものがあって、前世の影響が今世に続いているというふうなことも、「前世」という言葉を過去と捉えるならば、過去の事実が今日に影響しているという事ははっきり言えるわけです。輪廻転生(生まれ変わりはある)的な考え方で、別の境涯があって、それが今世に影響を与えている事はないと言い切っていいと思います。言い切らなければならないと、そう思います。


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正法眼蔵 陀羅尼 3

このように問題を考えてくると、釈尊が持っていたと同じような心境の要と言うものは、優れた高徳の僧侶にお仕えする事態の中に全てが集約されるのである。釈尊と同じ境地に立たれた方々にお仕えするに当たっては、優れた花を捧げ、優れたお香を焚いて師匠にお仕えする事が駄目というわけではないが、自分の心身を平静な状態においてお仕えすることが、さらに優れた修行のやり方である。そのようなやり方で師匠にお仕えする事が釈尊の子孫たる道である。

大陀羅尼(偉大な万能の力)とは何かと言うならば人事である。人事とは師匠に対する挨拶と言う意味であり具体的には礼拝の事である。師匠に対する礼拝は偉大な万能の力を持っているのであるから、我々は幸いにして現にその様な万能の力を持った礼拝に出会う事ができたと言える。人事と言う言葉は中国の言葉であるけれども、人に対する挨拶というものは釈尊以来正しく伝承されたところのものであり、この世のすべての基準である。

人と人との挨拶というものは、言葉が聞こえるとか、態度がどう眼に見えるかと言うだけの問題ではない。世界最古の仏とされている威音王仏の出現以前だとか出現以後だとかと言う、時間の前後によって問題を考えるべきではない。無限の過去から人と人との間における挨拶はあり得たのであり、それは古い新しいの問題と言うわけない。

その様な人と人との挨拶に関連して、仏道の世界ではお香を焚いてご五体投地をする事である。師匠を考えた場合にも、自分が出家する時の師匠もあれば、法(釈尊の説かれた教え)を伝えてくれる師匠もある。法を伝えていただいた師匠が、同時に出家をした時の自分の師匠であると言う場合もある。これらの自分の師匠に対して例外なしに拠処し奉仕することが、教えをたずねるにあたっての万能の力となるのである。

※「陀羅尼」の巻は主に師匠に対する挨拶や礼拝です。自分は在家でありますから「陀羅尼」の巻はここで終わりにします。次回は道元禅師が入浴や洗面というありふれた日常動作につき、その仏教的な意味を述べられた「洗面」の巻に入ります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
非常に不幸な人がありまして、それをどう慰めてやったらいいか、救ってやったらいいか・・・。
  
先生
慰めはないね。自分で立ち上がるしかないんです。はたから「気の毒だ、気の毒だ」と言われたところで、幸福にはなりませんよ。 だからそういう場合には、本人が「よし、これじゃいかん」と思って、立ち直らなくてはやっぱりいいとこへ行かんですわな。

質問
来世を楽しみってわけにはいきませんか。
    
先生
ないな、それはないね。来世があると主張すれば、それは罪深い話ですよね。でたらめですよ。それは人は喜ぶよ。非常に喜びますよ。「いやぁ、もう来世があるんだから、いま悲観しなくてもまあ大丈夫ですよ」と思って、力も付くかもしれないが本当かどうかと言う事になるとね。だから来世というよりも、いま心がけ次第で幸福になる事のほうが大事だと思います。
 
質問
そしてまた、いま不幸なのは過去の報いであるというのは・・・。

先生
ええ、それはありますよ。今の不幸はあなた自身がつくったのだ、と言う事はありますよ。また両親の影響で今の不幸があるんだ、と言う事これも否定できない。ただそうかと言って「俺はもうだめだ」と思っていたらいつまでも駄目なんです。どんなに不遇でも「よし、何とか頑張ろう」というところから人間の幸福は出てくるわけだ。だから「あなたはツイてないから、もう永遠に駄目ですよ」という必要はない。そんな事は絶対にない。どんに不幸な人でも、やることを変えればすぐに幸福になれるわけだ。


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正法眼蔵 陀羅尼 2

陀羅尼の巻、本文に入ります

仏道を勉強する際の眼の付け所がはっきりしている場合には、釈尊の教えに関する眼の付け所もはっきりしているものである。 本当に仏道を勉強したいと言う気持ちを持つならば、釈尊の説かれた教えとはいかなるものかと言う事がはっきりとわかって来るし、釈尊の教えがはっきりわかって来るならば、さらにどの様にしたら仏道が勉強できるかがはっきりして来るのである。

仏道を勉強する上において、大切な問題を正しく伝えると言う事は、例外なしに偉大な高徳の僧侶に仕えて教えを聞くというところから生まれてくる力によるものである。優れた高徳の僧侶に仕えて仏道を勉強する事が、仏道を知る上における偉大な直接 、間接の原因であり偉大な万能の力を具えた事態である。ここで述べられている「偉大な高徳の僧侶」と言う言葉の意味は、釈尊と同じ人格に到達した人の事を言うのである。

その様な釈尊と同じ人格に到達した師匠の身の回りに仕えて一所懸命に努力しなければならない。師匠の身近に仕えて、師匠にお茶を持っていく動作も、お茶をたてて師匠に差し上げる動作も、釈尊の説かれた肝心要のものがすでに具体的にその場に出現しているのであり、仏道修行の結果得られると言われている神秘的な働きというものもすでに現われているのである。

仰山禅師が潙山禅師のために盥に水を入れて持って来るとか、五台禅師が南泉禅師の面前で瓶の水を空けてしまったと言う物語が伝わっているが、師匠と弟子との問答や動作の中に仏道の実体がある。師匠と弟子とのやりとりとは、釈尊が持っておられた心の中心を学ぶだけではなしに、釈尊の持っておられた心の一番の中心における境地の中にある一人、二人と言う仏道の真実を把んだ具体的な方々にお会いする事を意味するのである。

単に心の問題だけではなしに、具体的な人格にお目にかかると言う事を意味しているのである。釈尊が持っていたと同じような神秘的な働きを自分自身が受け取って使いこなすというばかりではなくて、神秘的な働きをし得るところの境地の中において、七人、八人といふうな仏道の真実を得られた方々とお会いすることができたということを意味するのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅中の意識についてお伺いしたいんですが、坐禅をしておりますと、絶えず雑念が湧いてくるんですけれども、よく言われるように「雑念を相手にするな」と。そうしておりますと、確かにある瞬間というか、ある期間、無念無想というか、非常に澄んだ気持ちを自分で覚えることがあるわけです。それから坐禅が終わった後でもそういう意識があるわけですが、そういう意識を持っているという事は、やはり雑念の意識なんでしょうか。

先生
いや、それは自分に対する意識というものを問題にする必要はないという事が実情になると思います。ですから、坐禅の普通の状況というものを具体的に言ってみますと、坐禅を始めて、たいていの人が何かを無意識のうちに考えているわけです。ただ無意識のうちに何かを考えているという事も気が付かないで坐っている言うのが、最初の状態だと言えると思います。

で、しばらく時間がたちますと、「あ、何か考えていたな」ということに気が付く。それから今度はあまり考えない様にしようという努力が始まって、考えたり、考えなかったりという状態がしばらく続く。それからある一定時点では、「考えまい」という努力も要らなくなってくる、きわめて落ち着いた状態で坐っておるという段階も生まれてくるわけです。

そうして仏道の狙いというのはどういう事かと言いますと、無我夢中になるということです。坐禅の時には無我夢中になりにくいんですよ。そのことは反面、坐禅の中で自分の意識というものが二つに分かれていない状態、あるいは坐っていることに本当に熱中した状態というものが現れてくるならば、それが仏道の狙いだ、坐禅の狙いだと、こういう事が言えるわけです。

日常生活における方が、そういう点ではいわゆる三昧になりやすいというふうな事情があるという事は言えるわけです。坐禅では三昧になることが非常に難しいわけです。その代り、坐禅で三昧が得られるならば、どんな日常生活の状態の中でもすぐ三昧が得られると、そういうふうな利点が逆に坐禅の中にはあるわけです。

だからそういう点では、自分に対する意識を振り捨てるという事、これが一つの仏道修行の狙いだという事はあると思いますが、それと同時に、日常の坐禅の内容としては、坐禅そのものの中で三昧が得られるという事はかなり難しいわけですが、その難しい状況を利用して、三昧の修行をするというのが坐禅の意味という事にもなると思います。


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正法眼蔵 陀羅尼 1

「陀羅尼」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「陀羅尼」という言葉の意味ですが、普通「陀羅尼」と言う言葉は短い言葉で、その言葉を唱える事に万能の威力があると考えられている。ですから普通「陀羅尼」と言う言葉は「呪文」と言う言葉と同じ意味だと理解されておるわけであります。 ただ道元禅師はそういう短い言葉が万能の力を持つと言う事について、必ずしも心から納得をお持ちであったかどうかが多少疑問になるわけであります。

そこで道元禅師が「陀羅尼」と言う巻で何を述べられたかと言うと、五体投地の礼拝が陀羅尼だ、礼拝する事が陀羅尼だ、お袈裟をまとう事が陀羅尼だと、こういうふうに理解されたわけであります。 「陀羅尼」と言う言葉の本来の意味は「万能の力を持っているもの」と言う意味になるわけであります。ですから道元禅師は短い言葉というよりも、師匠に対して、あるいは仏に対して、五大投地の礼拝をする事が万能の力を持っている、万能の威力を持っている、あるいはお袈裟を身にまとう事が万能の威力を持っていると、こういう理解の仕方をされたわけです。

その事はどう言う事かと言うと、たとえば自分としては非常に気にそわない間違いを犯してしまった。しかしクヨクヨしてもしょうがないと言う場合に、五体投地をする事によってクルッと気持ちを変える事が出来る。あるいはどうも自分の思い通りにならない、不満で仕方がないと言う場合でも、クヨクヨそんな事を考えていても仕方ないからとにかく膝をつき、手をついて頭を地につけて五体投地の礼拝をする。

という行動が我々の不満を救い、我々の悩みを救い、我々の不幸を救ってくれると、そういう考え方が道元禅師の「陀羅尼」と言うものに対する考え方であり、また礼拝と言うものが、そしてお袈裟を身にまとうという事が、仏道修行の過程でいかに大切な意味を持っているかと言う事も同時に説かれたと、そういう主張がこの「正法眼蔵陀羅尼」の巻の主張と言う事になるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
悪い事をやって、最後まで自分のやった事は正しいと思い込んでいれば、それで結構ということになるのですか・・・ 。

先生
そう。人間の一生には誰でもそういう見方で通る面があるんです。だからどんな生き方をしても「俺はこれしか生きれなかったんだ」「俺は全精力を尽くして刑務所に二十年も三十年もいたんだ」と言う人だっているわけです。だからそういう点では、各人の人生が絶対だと言う見方があると同時に、客観的な基準から見てさてどうかと言う問題がある。

その客観的な基準というのを「法」と言います。だから「法」の立場から見てどうか。政治家のAさんが、涙を流したというような事で「あの人はあの人で一所懸命やったんだから」と言う見方が確かに出来ます。はたから軽率に非難や批評は出来ないわけです。政治家のAさんはAさんでそれなりの一生があり、自信があるのだしまた努力があったんだと言う事、これは認めなければならない。

それと同時に、客観的な基準に照らして、どうかと言う問題があるわけです。宗教というのは、この客観的な基準を求めるわけです。客観的基準なしに、「ワァ-、俺はやるだけやった、もうお終い」と言う様な事、これも一つの生き方だけれども、長い目で見てはたして悔いがなかったかどうかという考え方も、必要だと言うのが宗教の生まれてくる根源です。

「俺はもう一所懸命やったんだからいいんだ」と言ってみても、もういよいよあと余命いくばくもないという時期に来て、後悔しないかどうかという事もある。だから宗教というものを考え、仏道と言うものを考えるのは、そういう基準に照らしてはたしてイザとなった時に、後悔が残らないかどうかと言う問題も含めて宗教があり、仏道があると、こう言う事が言えると思います。

質問
その「客観的基準」というのが難しいですね。それこそ坐禅をしなきゃ-・・・。

先生
そう、そう、そういうことです。 「客観的基準」はいくら本を読んでも書いてない。普通は客観的な基準が本に書いてあると思う。だから本屋に行って、いろんな本を買って来て一所懸命読むわけです。しかし、そういう本には書いてない事が客観的な基準としてあるわけです。それが仏教の主張です。だから坐禅をやる事で、本には書いてない客観的な基準を身につけると、こういう事になるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。自営業。69歳。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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