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正法眼蔵 梅華 6

自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師が法堂に上っての正式の説法の際に言われた。

釈尊が目の前の事実をありのままに見るように、仏道修行者が素直に物事が見えるようになった時には、眼の前にある雪の中で梅の花が一本の枝に咲いている情景だけがある。しかしまだ冬、現にそれを取り巻いている雪も人々の迷惑の種となっている。一方、雪まじりの春の風が吹きまくる情景の中で、来るべき春のことを考えて喜ぶ余裕もある。

天童如浄禅師の説法について道元禅師が注釈がされます。
いまここで天童如浄禅師の説法を宇宙のすべての最高の境地で解説して見た場合には、この天童如浄禅師の説法が、すべての人間が真実を得た時点そのものを述べているという事が言える。そしてその周囲の雲や雨や風や水や自然現象、また草や木や昆虫のような人間以外の生き物もこの宇宙が持っている利益の影響を受けないものはない。

天地も国土も、この天童如浄禅師の説法に動かされて、それぞれがきわめて生き生きとした境地を展開しているのである。世間には「いまだかつて聞いたことのない言葉を聞く」という表現があるけれども、いまこの天童如浄禅師説法を伺うという事は、その様ないまだかつて聞いた事のない言葉、いまだかつて聞いたことのない真実というものをまさに聞いているという事が言える。

また世間では「いまだかつてなかったような教えを得る」という言葉があるけれども、この天童如浄禅師の説法を聞くという事は、いまだかつてなかったような教えを得る事と同じである。一般的に言うならば、このような天童如浄禅師の教えというものは並大抵でないところの幸というものがないならば、見たり聞いたりすることのできない説法という事が言える。

現在、宋の国には州の数が百八十ほどあって、その内外に山の中の寺もあれば人里にある寺もあり、その数は数えつくすことができない。その様に無数にある寺院の中には仏道修行をしているたくさんの僧侶がいる。しかしながら、亡き自分(道元)の師匠である天童如浄禅師の姿を見たことのない人が多く、直接あった人の数は非常に少ないであろう。まして天童如浄禅師の言葉を聞いたり見たりする事のできた人は非常に少ないであろう。

ましてして天童如浄禅師と直接お会いして、ご機嫌伺いをし挨拶する事のできた人がどうして多いことがあろうか。天童如浄禅師の部屋の奥深く入ることを許されて、様々な教えを聞くことのできた者がいったいどのくらいの数があるであろうか、決して多い数ではない。まして天童如浄禅師の皮・肉・骨・髄・眼の玉・顔形を直接に礼拝することを許された者がいったいどのくらいおろうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今の時代は善悪の境界線というか、そういったものがすごく明白じゃないというか。例えばこれは現代ではないですが、鼠小僧の様な人がいまして貧乏人に盗んだ金をばらまいてやると。そういうふうな行動は仏道という物差しで測りますとどのような事になるんでしょうか。

先生
その点では、鼠小僧の問題はこれは講談から生まれた話ですからね。お伽噺の一種だから、まあ基準になるかどうかよくわからんわけですけれども、それと同時に今日が善悪というものをほとんど問題にしない時代だという事ははっきり言えると思います。

なぜそういう時代が生まれたかと言うと、昭和20年8月15以前までは、日本の国には国家主義という一つの基準があったんです。ですから国家主義にかなうものは善であり、国家主義に反するものは悪であると、こういう基準があったから、明治維新以降昭和20年までは日本国内の考え方というものは善悪が非常に徹底しておった。

ところが昭和20年の8月15日に今までの基準は全部ウソだと、こういう事になった。ということは、国家主義の基準が全部崩れてしまったわけです。その事は善悪の基準というものは全くなかったということを意味するわけですから、そこで善悪の基準として何が残ったかと言うと、功利主義の道徳が残ったんです。つまり損をすることは悪であり、得をすることは善であると、こういう功利主義の考え方が昭和20年以降、国民の信仰として、強固な形で今日でも生きているわけです。

そのことは昭和20年8月15日以降、日本国民の99%までが唯物論者になったということを意味するわけです。唯物論の立場に立つならば、善悪の問題というのは全部損得の問題に解釈し直されるわけです。ただ善悪の問題というものを考えてみた場合に、損得だけで善悪の全てが説明できるかと言うと、これは本当の意味での善悪の説明にならない。

ただ唯物論の立場からするならば、善悪というものはすべて損得の立場で考えるべきものだという原則がありますから、今日我々の社会思想というものは損をすることが悪であって、得をすることが善であると、こういう考え方で一切が運営されておると言っても間違いではない。

だから五億円を机の上に置かれた場合に「あ、ありがとう」と言って受け取るというふうな事も、昭和20年以降、日本国民の間に行われている倫理道徳観からするならば一向に悪くないんです。倫理道徳の問題ではない。ただ日本に法律があったから、法律に引っかかるか引っかからないかということで問題になったというに過ぎないと、こういう問題があると思います。


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正法眼蔵 梅華 5

天童如浄禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

一般的に言うならば、この世の中におけるすべての花が開く事情というものは、今、目の前にある年を経た梅の木が開くことの恵み深い影響が他に及んで他の花が咲くという風にも感じ取れる。自然の中における花が開くという事にはすべて共通の性質があるから、梅以外の一切の花も梅の花が咲くのと同じような状態で開くという事が言える。そして梅の木も、人間世界における梅の木もあれば、天上世界における梅の木もあるであろう。

年を経た梅の木があればこそ、人間の世界も天上の世界も存在し得るという事もいえる。したがって梅の木が人間世界、天上世界にあるだけでなしに、梅の木があることによって人間世界も成り立ち、天上世界も成り立つという関係でもある。そして百の花、千の花というたくさんの数の花を人間世界の花とも呼び、また天上界の花と呼ぶこともあるし、また万の花、億の花という無数の花は真実を得られた方々が住んでおられる世界に開く花という捉え方もできる。

このような花が咲き乱れる時節を、たくさんの諸仏(真実を得られた方々)がこの世の中に現れたと呼ぶのである。また達磨大師が中国に来られた状況と同じことだと呼ぶのである。そのことはどういう事かというと、梅の花が咲くような自然の現象と、諸仏がこの世に現れる、達磨大師が中国に来られたという人間の宗教的な行いというものとは同じ世界の中で行われることである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「因縁因果」ですが、何か当人にまあいいことが起こればいいんですけれども、悪いことが起こった場合に、結局それは因縁因果なんだからしょうがないんだと。そういう場合に、それから逃れるというんでしょうか、それから救うというんでしょうか、そういうものはどうなんでしょうか。

先生
その点では、原因・結果の関係で一つの結果が出た場合に、時間の経過というものが救いになるんです。辛抱しておれば何とか助かるというのが原因・結果の理論の裏側です。だから自分が原因を作ったのだから仕方がない、あるいは自分の与えられた環境が原因になってこういう結果が生まれたんだから仕方がない。しかし悪いことをせずにジ-ッと辛抱しておるところの環境から抜け出せるなと言うのも因果論の一つの大事な主張です。

だから人生を生きていく上においても、自分が不幸だと思ったならば、その不幸を辛抱する、自分が非常に調子がいいなと思うときには、「どう変わるかわからないぞ」という警戒心を持つということが大事です。普通の人は中々そういう考え方をしないで、調子がいいと一杯飲んで大暴れするということがあると同時に、不幸な結果があると「もう俺はだめだ」ということで、そこで意気阻喪してしまうというふうな生き方がわりあい多いわけですけれども、因果関係を信じている場合には「現在が悪くても、悪いことさえしなければよくなるな」という確信を持つことが出来るし、「今状態が悪ければ、結局自分が作った原因だな」ということを感じて、ジ-ツと我慢をすると、そういう生き方につながるわけです。

質問
その場合は、良寛和尚が言っておりますように「災難に遭う時は災難に遭うがよろし、死ぬときは、死ぬがよろし」と言ったような、ああいう言葉と同じような・・・・。

先生
そうですね。ですから良寛和尚の言葉というのはまさにそのことなんです。この世の中はすべて原因・結果の関係だから、悪い結果がでたらジ-ッと我慢しなさい、と言うだけのことです。普通はそういう教えは薄情だというふうに受け取るんですよ。「悪いことをしても、なるべくいいことがあるように」という風にたいていの人が願うわけです。「悪いことをして悪いことがあったんじゃあたり前だ。悪いことをしてもいい結果が出るように」ということを普通の人は願うわけですけど、釈尊はそういう事はないぞと言われた。

悪いことをすれば悪い結果があるし、善いことをすれば善い結果が出るぞと、こういう事を言われた。きわめて当たり前のきわめて薄情なご意見だということで、ま、恨む人は恨むわけですけれども事実はそうなんですよ。だからそういう関係というものから抜け出すわけにはいかない。そうすると、原因結果の関係というものを十分に勉強して、いい結果が出るためにはどう努力したらいいかという人生の工夫になるということが言えると思います。


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正法眼蔵 梅華 4

天童如浄禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

梅の花が咲く、雪が降るというふうな現象というものとこの世の中があるという事とは別のことではない。花が開くことにおいて世界が現に目の前にあるという事が現れてくるのであるし、そのような時点というものが「ああ春が来たな」という事実でもある。五枚の花弁が開くことによって一つの花が咲くという事実がある。

このような一つの花が開くという時点は、また三つの花が開く、四つの花が開く、五つの花が開くという時点と時を同じくして起こるのであり、さらに百の花、千の花、万の花、億の花と次々に花が開いて、結局数を数えることのできないようなたくさんの花が開くのである。この様にたくさんの花が開くという事も、いずれも年月を経た梅の木の一本の枝、二本の枝、あるいは無数の枝というものがあって、それが特別に誇る事もなく、ごく自然な姿でそこにある事が、花が開き得るという事の基礎をなしている。

そしておよそ花というものには共通の性質があるのであるから、インドにおいて非常に珍しい花とされている優曇華の花、あるいは非常に美しいとされている青色の蓮の花、そういうさまざまの珍しい花も梅の木に梅の花が咲くのと同じ事情であって、その点では、一切の花が咲く事情と、年月を経た梅の木に花が一つの枝、二つの枝というふうな形で咲くのとは同じ基礎を持っている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
あるがままと、なるようにしかならんと言うのは、どう違うのですか。
 
先生
それは結局、変えようと思っても変える事が出来ないという事情が人間の状態にはあるんですよ。 例えば風邪を引いて頭がボンヤリしている時おとなしく寝ているしかないんです。風邪を治そうと外へ飛び出して駆け足したら治るかなんて事をやってみても中々うまくいかないと言う問題があるわけです。

人間の心、人間の体には波があって、誰の心も誰の体も常に順調で最高の調子だと言う事はあり得ない。調子が悪くなったり良くなったりと言う事の連続でしかない。 これは実際の生活の問題としてあるわけです。 「六波羅蜜」の忍辱という教え、人間は波の中で生きていると言う思想とも関連が あるわけです。 たまたま波の底に来た時は、ジ-ッと我慢しなくてはならないと言う事でもある。 調子のいいときに大いに活躍するのは結構だけれども、どうも調子が悪くてジ-ッ としている以外に手のない時には、ジ-ッと我慢をしなくてはならない、とそう言う事でもあるわけです。

質問
なるようにしかならない、と言う事ですか。

先生
なるようにしかならない、と言う努力の放棄ではないと言う事。 いくら努力をしてもどうにもならない時には、ジ-ッと時間を待つしかないと言う事。 なるようにしかならない、と言う主張の中には、なる様にしかならないのだから 努力はやめておこう、と言う考え方が背景にはあるわけです。 一所懸命努力はしていても、どうにも切り替えのつかない事はいくらでもあると言う事。

質問
人事を尽くして天命を待つ、と言う言葉がありますね。これはどう言うふうにお考えですか。

先生
だから、人事を尽くして天命を待つと言うのは、これは本当の生き方ですよ。人事を尽くさないで天命を待ってはいかんと言う事ですよ。生かされておると言う考え方は人事を尽くすと言うのは意味がないから、天命を待つだけだと言うのが基本的な考え方ですよ。今日の時代思想はこれが非常にに多い。年取っている人も若い人も皆そうですよ。

なる様にしかならない、人間は努力してもしょうがないんだ、お任せが本当のあり方だと言う考え方が非常に強いけれども、具体的に自分の人生を考えてみたらそういうわけにはいかないんですよ。やっぱり自分の日常生活に取り組んでいかなければ、食事の準備一つ出来ません、洗濯一つ出来ません、部屋の掃除一つ出来ません。

その点では「生かされているんだ!」と言う事で塵にまみれて寝ているわけにはいかん。人生と言うのはそういう点では、非常に具体的なまたみみっちいもんですよ。人生と言うのはそう大まかなもんでは決してない。コツコツと積み上げて行くところにしか人生はない。そういう問題があると思います。


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正法眼蔵 梅華 3

天童如浄禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。

今ここで天童如浄禅師が説法の形で述べられたところの梅の古木は、限定のない非常に大きな内容を持ったものである。梅の木は急に花を開くし、またそれから何か月か経つと梅の実を結ぶ。自然の一つの現象であるけれども、なかなか捕捉しがたいような大きな内容を具えている。

冬の11月に梅の花が咲いたという事は春の様子を示しているし、また周囲の雪に閉ざされた情景というものは冬である。梅の木は春を表す面もあるし冬を表す面もある。そして冬の真っ最中であるから、ある時には激しい風の吹くときもあるし、ある時には激しい雨が降る事もある。そしてその梅の木のそばを仏道修行の僧侶が丸い頭をして歩く。そのような自然の情景を素直に見つめなおす眼というものは、時代を超えて真実を得られた方々の持っているものの見方である。

梅の古木はある面では単なる草木としてそこにあるし、また花が開いた事によって非常に清らかな香りを漂わせている。そして急に気候状況が変わってそれがいったいどんな変化をするかという事は、人間ではなかなか想像できないようなところがある。またそれと同時に、地面はあくまでも広く、また天はあくまでも高いというふうな情景を示す場合もあれば、太陽が燦々と輝く時もあるし、また月が清らかな光を投げかけるという情景の時もある。

このように様々な気候の変化があり、ある場合には広々とした大地、あるいは晴れ渡った空、あるいは輝く太陽、あるいは清らかな月というふうな様々な情景というものは、梅の古木があることによって現れてくるという面がある。そのことは別の言葉でいうならば、梅の木が中心だとか、大地、空が中心だという事ではなしに、どちらとも決めかねるような具体的な事実が絡み合ってそこにあるという事が実情である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
天童如浄禅師だけが只管打坐と、それから葛藤を葛藤のまま捉えるという仏教の見方をなさったわけなんでしょうか。

先生
そうです。その点では、道元禅師が中国に行かれて、一年半ぐらいの間はどうも満足する理論に出会わなかった。日本において仏教を勉強した末、どうもよくわからないところがあるので中国に行かれたわけです。そして疑問を解くために一所懸命に努力されたけれども、一年半ぐらいの間は疑問が解けなかったという事情があったわけです。

その点では道元禅師は天童如浄禅師のことを高く評価しておられた。また事実、道元禅師が天童如浄禅師にお会いにならなければ、せっかく中国に行かれても、本当の仏道がわからずに日本にお帰りになったと思う。道元禅師が天童如浄禅師にお会いになったという事については、非常に大きな意味があるとみて間違いないと思います。

もし道元禅師が天童如浄禅師にお会いになっておられなければ、「正法眼蔵」はお書きにならなかったと思います。ですから「正法眼蔵」を我々が拝読できる一つの大きな原因は、道元禅師が天童如浄禅師にお会いになったという事にあると思います。


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正法眼蔵 梅華 2

「梅華」の巻、本文に入ります。

自分(道元禅師)の亡くなった師匠である天童如浄禅師は、大宋国の寧波市天童寺にある景徳寺の第三十代の住職の大和尚である。法堂における正式の説法の際に次のように言われた。

この天童山の冬の十一月をまず第一に表すものは、ごつごつと節くれだった梅の古木である。時節が来ると急に咲きだし、一つ、二つ、三つ、四つ、五つというように無数の花がつく。その清らかさは、敢えて誇示する必要もない淡々とした事実である。その香りのよさも敢えて誇示するに当たらない淡々とした事実である。
  
しかしその清らかさや香りのよさは周囲に四散して、春の装いをなし草や木に吹きかかる。傍らを通るつづれ衣の僧侶の一人一人の頭が剃られている。梅が咲いた一方、急に天気が変わって風や雨が吹き荒れると、その時はまたその時で、雪が大地いっぱいに降って美しい着物で飾られたような状態になった。
  
梅の古木はその様子が千変万化であって甚だ捉えどころがない。また、寒さが厳しいために、寺院ににおける僧侶は凍るような寒さにさらされて鼻の孔が痛い。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
沢木老師のお話で、「坐禅をやっても何にもならん」というふうによく言われておりますが、その時、先生は「私は坐禅はすべてになる」というふうな説明をしたわけです。このことはまったく正反対の表現をしているわけですが、まあ同じことを言っているんだろうとは思いますけれども、その実際の内容がなかなか理解できないんですが・・・。

先生
その点では、沢木老師のいっておられることと私の言っていることは全く同じだということが言えると思います。沢木老師が「坐禅をやっても何にもならん」と言われたのは何かといいますと、坐禅をすることが目的であって、坐禅をしていることが絶対の価値を持っていると。だから、坐禅をしておる以外に何かが得られるというふうに考える必要はないと、こういう意味で「坐禅をやっても何にもならん」と。裏返していうならば、坐禅さえしておればそれがすべてなんだという主張を言っておられるわけです。

ですから私も「坐禅すれば何になりますか」ということについて「何にでもなる。一切のことに役立つ」ということを言っておるわけでありますが、述べておる内容は沢木老師のおっしゃる事と全く同じです。沢木老師は坐禅をしておることが絶対の意味があると主張されたし、私自身も坐禅をしておることが絶対の意味があるんだと。だから何に役に立つとか、何に役立たないとかという事を考える必要がないという事を、私の場合は「坐禅をすれば何にでもなる」と表現しておりますし、沢木老師は「坐禅をしても何にもならない」と表現をされたということで、言葉の内容は全く同じとみていいと思います。

質問
今の件について、先生が何年か前にやはりこの場所である人の発言にお答えになった中でその「ない」ということについては、「英訳したらどういう事になりますか」という質問だったんですね。その時先生が、たしか「something like nothing」というふうにお答えになって、言葉を添えて「何にもないというふうにもとらえる事のできる何か」と、こうお答えになっているんですね。

ですからよく言うように、あるとかないとかと言う問題じゃなくて、沢木老師が「何にもならない」と言ったのは、他の瞑想とかヨガとか看話禅では目標を持ってやるわけですが、そういうことではなくて、自分が人間であるということのはっきりとした自覚を得るために、人間は人間であることがわかるのは別に不思議じゃないんですけれども、そういうことのためにも、あまり目標とか目的とかを持たないで、ひたすら坐禅をする(只管打坐)ことに対する信頼と言いますか、信仰だと言いますか、そういう事を高めていくための言葉だろうと思うんですが、どうですか。

先生
うん、その通りです。だから我々は坐禅をしている時に坐禅をしている事実そのものが尊いんですよ。だから、こんな素晴らしいものがあるんだから、あとでなんかの役に立つとかという考え方をしなくていいと、こういう意味です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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