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正法眼蔵 仏性 35

龍樹尊者の説話について説道元禅師が注釈されます。

我々の人生において様々な働きがあるけれども、その働きのすべてが、耳で聞こえ、目で見えるものだけではない。耳で聞こえないもの、目で見えない働きというものが日常生活の中にはいくらもある。したがって本当の意味での説法は、目で見える、耳に聞こえると言う形だけのものではない。龍樹尊者が過去に多くの場所で説法された回数は、ほとんど数え切れない程であり、今は仮にその一例を挙げたに過ぎない。

龍樹尊者が「お前方が仏性というものを現実に見たいと思うならば、まず第一に自分というものがあると錯覚して、その自分というものを大きく見せようとする考え方をやめる必要がある」と言われた。 この龍樹尊者の教えの基本的な考え方を、時間を無駄にする事なく一所懸命勉強してみる必要がある。 この場合にものの見方というものがないわけではない。ただ仏性が現れた場合の見方というのはどういうことかというと、我慢を除くという事である。頭の中で考えられた自分というものがなくなることである。

これが自分だと思いこんでいる自分というものにも実にたくさん種類があり、自分自身に対する慢心(うぬぼれ)にも実に多くの種類がある。しかし我々にはこれを取り除くだけの力も幸いにして与えられている。このように自分自身というものをよく見つめ、自分自身というものを十分に知り、それを取り除く方法をしっかりつかむという事が、いずれも仏性を現す、仏性を見ると言う事である。

この仏性を見るという場合の、「見る」はそう難しく考えることはない。普通に目でものを見るのと同じような形で仏性を見るというふうに理解して間違いないであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
   
質問
生まれながらにその人が持っている福運があるのかなと思って、私、ある時お坊さんにお聞きしましたら、「その方たちは前世にいい事をしているからだ」と言われますと、なんか、私、とてもバカバカしくて、信じられなくなっちゃうんですけれど。そういうものを道元禅師なんかはどの様に見ていらっしゃるんでしょうか。

先生
道元禅師もそういう点では、原因・結果の関係というものを非常に強く言われた。だけれども、その事は前世にどうこうと言う事ではなくて、やりようがよければ結果もいいし、やりようが悪ければ結果も悪い、と言う事を言われた。その事は、たとえば木曽川の川下りがありますよね。ああいう時に、船で船頭が長い棹を持って待ち構えてるわけですよね。そうして、岩が近づいて来ると、一番タイミングのいい時に棹を突き出して、岩を押して船の向きを変えて、また流れに乗って、岩にぶつからないで船を操って行くわけですね。

それを見ていると、あれがほんの一秒でも先に棹を突き出した場合には、船がおかしくなってしまう。そうかと言って、一秒遅れても、今度は船が岩にぶつかってしまうかもしれない。そうすると、ほんのもう一秒と違わないようなタイミングのよさで、岩を突いて、船を正しい方向に持って行っているわけですよね。人生は、あれと同じ様で非常に微妙な所があると感ぜざるを得ないところがあるんですね。だから調子がよくて、トントン拍子にいく人というのも、それなりの努力があり、それなりの正しい判断があって、そういう結果が出ていると言うしか考えられないんです。

たまたま努力なしに非常に調子のいい場合には、年限がたつと裏にでますね。だから自分の力でなしに調子のよかった場合には、しばらく経つと、今度は逆になるというケ-スが割合多い。それと同時に非常に力があって、一所懸命やっているんだけれども、どうも調子が悪いって言う人が、時間が経つと、前の苦労が完全に実って、今度は逆にプラスになると言う様な事が現実によくあると思います。だからそういう点では、徳川家康公じゃないけれども、「人生は糾える糸の如し」二本の糸がより合わさっているようなもので、禍と幸福とがちょうど互い違いに出てくる様なもんだと言う風な考え方は、人生問題を考える場合にはかなり当たっているのではないか。

私はやっぱり、因果関係と言うものは人生の一切を支配していると言う見方ですね。だから、不幸な時にも、コツコツ、コツコツと頑張っていれば、必ずいい事があるし、それから調子のいい時には、その調子のいいのをいつまでも続けようと思って、やっぱりまじめにやらざるを得ない。世の中を甘く考えて「まあこの程度ならやっても構わない」という事でやっていると、裏が出ると言う事、これはあると思いますね。

だから、何回も出して恐縮なんですが、政治家の事件なんてのはいい例ですよ。天下を取ったと思っていたら、裁判所のご厄介になると言うような事は、その天下の取り方に問題があったと言わざるを得ない。そういう点では世の中というものは、実にうまく出来ていると思う。だからもうコツコツ一所懸命やるしか手はないんだと言う事だと思う。


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正法眼蔵 仏性 34

龍樹尊者の教えを聞いた人々は、その教えの優れていることを知り、最初の考え方を切り替えて仏道を勉強してみる気になった。

そこで、龍樹尊者は再び自分の席で坐禅をして自分自身の姿を現された。自由自在な境地を現されたその姿は、ちょうどまん丸になった月の姿と似ていた。そういう形で龍樹尊者が自由自在の境地に坐っていた時に、説法を聞いていた人々はあたかも龍樹尊者の姿がそこにはない様な印象を受けた。この説法を聞いていた人々の中に、長者の息子、迦那提婆がいた。

そこで迦那提婆言う:この龍樹尊者の示された姿というものが何であるか、お前方は知っているかどうか。

人々言う:いま我々が目の前に見ている龍樹尊者の姿は、目で見たことも、耳で聞いたことも、自分の心でそれを認識する事も、実体がどうなっているのかと言う事も、なかなか自分の身体ではつかみにくい。

迦那提婆言う:龍樹尊者は仏性を姿によって具現し、それを我々に示されたものである。龍樹尊者が坐禅の姿で坐っておられたということは、坐禅の姿を超越した形での境地である。この姿がちょうど満月の様に欠けるところがない円満な姿である。仏性とは一体どういうものかと言う事が龍樹尊者の坐っている姿の中では明々白々として現れて、言葉で言い表す事は難しいが疑問の余地のない非常にはっきりしたものである。


このように迦那提婆尊者が言い終わると、満月のような姿はたちまち隠れ、龍樹尊者の姿がまた元に戻って本来の場所に同じように坐っておられた。

龍樹尊者は、偈を説いて言われた。身体によって満月の姿を現し、それによって真実を得られた沢山の方々と同じような姿を示した。そして、その説法によって、あるいは満月のような姿を現じて坐っていた容姿によって示された働きは、耳によって聞こえるものとか、目によって見えるものとは別のものである。

※西嶋先生の解説
つまり、龍樹尊者は自分の席で坐禅を組んでジーッと坐っておられたわけでありますが、これを見る者の立場からすると、これといった具体的な姿が見えない様な境地である事を感じた。また龍樹尊者の坐っている姿を通して、目で見たり耳で聞いたりする以上の何かを受け取ったと。これが龍樹尊者に関連して説かれている経典の文章の引用であります。
   


          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
いまイスラム世界がだいぶ揺れてますけど、仏教から見たイスラム教というのはどういう考え方でしょうか。

先生
まあ、一般の宗教と同じようなものだと思いますね。だから仏教の立場から見ると、まあ普通の宗教だという表現ができると思います。この前の講義の時に、宗教と宗教でない考え方と仏教の関係をお話したわけですから、あるいは聞かれておるかもしれませんが、西洋流の宗教観から行くと、宗教というものがあると、これに対して反宗教というものがある。西洋流の文明というのは、この両方が戦って文化が発展してきたという事が言えるわけであります。

このことはどういうことかというと、非常に精神的なものを中心にして「こうしなければならん」「ああしなければならん」という考え方もあると同時に「いやあ、そんなこと言ったって甘い話だ。この世の中は物質だ」という考え方もある。西洋流の思想はこの二つの要素が両方あって、この二つの要素がお互いに戦う事によって西洋文明が発展してきたという事が言えると思います。

ただ仏教というのは、この両方(宗教と反宗教)のちょうど中間にあって、宗教的な立場も本当ではない、反宗教的な立場も本当ではない、もっと現実をよく見なさいという事を言われたわけです。イスラム教というようなのは、宗教に属するとみていいと思います。だからそのことは「自分たちのやってることは間違いない!」と思い込んで、いろいろと活躍し動いておるわけでありますけれども、傍から見つと果たして正しいかどうかという事にならざるを得ないわけです。

その点では、イスラム教という風なものが中心になって現実の国家の政治が行えるかどうかというと難しいという事が、ちょうどいまイランに出ておる実情によって知ることが出来ると思います。つまりイスラム教の教理というものを中心にして、今日の現代社会が統治できるかというと不可能だ。その結果として非常に不安定な要素が出て来たから、それを外国に対する攻撃に転化しておるという事が、今日のイランその他の国々で起きている騒乱の内容ではなかろうかと思うわけです。  (1979年11月)


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正法眼蔵 仏性 33

龍樹尊者は魔訶迦葉尊者から数えて第十四代目の教団指導者で、梵語ではナガ-ルジュナといい西インドの人である。

龍樹尊者はかつて南インドに行った。南インドの多くの人々は、世俗的な日常生活における幸福を目的とした行為を正しいと信じていた。そこで、尊者はこの国の人々に対して釈尊の説かれた素晴らしい宇宙秩序の教えを説かれた。しかしこの尊者の教えを聞いた人々が互いに言う。

人々言う:人間は努力する事よって幸福が得られるという教えこそ、この世俗社会においては最高のものとされている。しかるに、尊者はあまり役にも立たない仏性というものをしきりに言われる。そんな仏性などと言うものをいったい誰が見ることが出来ましょうか。
龍樹尊者言う:お前方が仏性というものを現実に見たいと思うならば、まず第一に自分というものがあると錯覚して、その自分というものを大きく見せようとする考え方をやめる必要がある。

※西嶋先生解説

――我々はたいてい自分というものがあると思っている。なるべく自分が偉くなるように、人よりも上になるようにという風な考え方をほとんどすべての人がしておるわけであります。大体、家庭でそういうことを教えてくれるし、学校でもそういうことを教えてくれるし、社会でもそういうことを教えてくれるから、自分を一生懸命に磨き上げて、人よりも偉くなるように、人よりも金持ちになるように、人よりも力を持った人間になるようにと常々考えておる。そういう風に人よりも金ができた、人よりも偉くなったと感じていることが我慢。そういう考え方を取り除いたときに仏性というものが見えてくる。――

人々言う:仏性というものは、一体それは大きいものでしょうか、小さいものでしょうか。
龍樹尊者言う:仏性というものは、大きい小さいと限定できない。広くもなければ狭くもない。幸福もなければ応報もない。死滅もなければ生まれてくることもない。



              ―西嶋先生の話―
                           --つづき

道元禅師が「只管打坐」と言われたのは、単に仏教の一つの考え方として「只管打坐」ということを主張されたわけではない。「只管打坐」の立場を取らなければ、仏道そのものがありえない、仏教そのものがありえないと言うのが道元禅師のお立場と言う事になるわけです。だからそういう点では仏性とは何かと言うならば、坐禅をやっているときの実感というふうに単純に受け取って間違いない。

ところが坐禅の時、どうも中身がよくわからない、ただ何となく坐っているんだけれども、これが坐禅の中身というものかどうもわからんというのが実際の体験として、皆さんにもあるだろうし、私にもある。誰の坐禅でも中身は同じである。そう言う捉えどころのないのが現実であり法である。そう言う世界の中に我々は生きておるわけです。だから、そう言う捉えどころのないものをつかまえるためには、実際にその中に入ってジ-ッと坐っていなければならん、そう言う事になるわけであります。
 
普通の常識からいくと、ジ-ッと坐っているなんて、時間がもったいないと言うふうに感ずるわけだけれども、本当に我々が勉強しなければならないのは、そういう言葉では表現する事の出来ない現実そのもの。そう言う現実そのものをつかんだ立場からもう一度我々の生活を見直すと、今まで目に入らなかったものが目に入ってくるし、今まで本当に当てになるかどうかわからん沢山のものを、当てにして生きてきたんだなあと言う事にも気がつく。         

だから仏道というのは、本当に当てになるものだけを頼りにして、当てにならないものをどんどん削り落としていく考え方だ、と言う事にもなろうかと思うわけであります。そういう形で、どうしても最後に残るものが仏性というもの。それが、ここ何回かにわたってやっておるところの「正法眼蔵」仏性の巻の中心的な問題と言う事になろうかと思います。


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正法眼蔵 仏性 32

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊が「最高で均衡のとれた正しい真実」というものを説かれた。この「最高で均衡のとれた正しい真実」というものは、仏性に他ならないのであるから、その仏性に他ならないところの「最高で均衡のとれた正しい真実」は無常そのものを説かれているのである。恒常的な変化をしないものではなくて、常に変転して動いていくものが釈尊の説かれた「最高で均衡のとれた正しい真実」である。

釈尊が亡くなったと言う事も、釈尊の亡くなったと言う事実を通して、我々の生涯、あるいは我々の住んでいる世界というものが、いかに無常(変転常ないもの)であるかという事を示しているのであり、その無常というものがまさに仏性である。

頭を使い、あるいは感覚を使って仏道を勉強していこうとしている二種類の人々が持っているところの狭い見方、また経典や論議を勉強して、仏教経典だけに関心を持っている人々は、この大鑑慧能禅師が言われた「無常(変転常ないもの)が仏性である」と言う言葉を聴いて、驚き、疑い、恐れを抱くであろう。これらの人々は、外道(仏教を信じない人々)の類であろう。



              ―西嶋先生の話―
                             --つづき

坐禅をやっている時は、自分自身と仏性が一体になっている時。自分の体が非常に健康な状態に立ち返った時。そして、自分がやろうと思ってやっているわけだから、実行力が発揮されている時と言う事にもなるわけであります。だから、自分と一体になるとか、あるいは実行力が発揮されていると言う風な事も、すべて坐禅の中に含まれていると言える。

だから仏性というものを現実に現したいと思うならば、坐禅をやるに限ると言う事になるわけであります。そこで道元禅師は只管打坐(ただひたすら坐る)坐禅さえやっておれば何の問題も起きないという事を言われた。これが道元禅師の基本的な考え方であり、また釈尊の基本的な考え方であリます。

ところが、今日坐禅は必ずしも盛んではない。仏教の勉強をする事を好む人は割合いる。仏教の本を読んで「なるほど、なるほど」と言って感心する。そういうことをやる人はいる。しかし「坐禅をやりなさい。毎日やりなさい」なんて言うと「いやあ、そのうち暇が出来たら・・・」と言う様な事で、坐禅そのものはあんまり好かれないと言うのが、実情であろうと思うわけであります。

しかし仏教の立場から見ると、坐禅そのものが仏道。だから坐禅を離れて仏道なんてものはありえない。坐禅を離れて仏教なんてものはありえない。だから坐禅をやらずに仏教書を何万冊読んでも、仏教とはまったく無関係と言っていい。なぜそう言う事を言うかというと、仏教というのは単なる思想ではない。仏教というのは、行動であり、体験であるわけです。だから、行動し、体験しなければ、仏教の立場というものは出て来ない。
                          
                           つづく--


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正法眼蔵 仏性 31

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

聖者と言えども、一日一日と年をとっていくという点では変わりがない。凡人と言えども、一日一日と年をとっていくという事については変わりがない。聖者であれ、凡人であれ、具体的な生身の人間として生きている場合が無常(変転常ないもの)仏性である。抽象的に「聖者だ、凡人だ」と頭の中の区別だけで考えたところには仏性というものはない。もし仮に抽象的に仏性は永遠の不動のものと考えるならば、狭い考え方に基ずいた非常に視野の狭い愚かな見方であろう。

仏性とは、五尺か六尺のちっぽけな体で一生懸命に日常生活を生きていく日常生活の動作そのものである。このようなところから大鑑慧能禅師は「変転常ないものが仏性である」と言われたのである。恒常的なものは、変化して日常生活の中で動いていくという性質のものにはなり得ない。

変化しないと言う事は、ある場合には主体(断ち切るもの)として、ある場合には客体(断ち切られるもの)として、頭の中では様々に考えられるけれども、主体と客体とのどちらかとして考えられる場合には、我々の日常生活において具体的な変化として次々に変わっていく具体的な生活とは異なっている。すなわちこの現実の世界で生起消滅する我々の具体的な日常生活は、主体と、客体とどちらかに分かれた姿のものではないから、頭の中で考えて二つに分かれたあり方を常(恒常)、つまり固定的というのである。

そういう点では、主体とか客体とかという、二つのもののどちらかという捉え方でなしに、主体と客体とが全く一つに重なった現実の世界における草や木、寺院などは、常に変わっていく存在でありそれがまさに仏性である。人、物、体、心というものはどれをとってみても常に変わっていく存在であり、それがまさに仏性であり、仏性と呼ばれるものである。我々の住んでいる土地も山も川も一切が変化し流動している。その変化し流動しているものが仏性と呼ばれるものである。



              ―西嶋先生の話―
                            --つづき

それから二番目の考え方、心の問題ではなしに、もっと客観的な事実として仏性が出てくると言うことがどういう事かと言うと、文字通り健康であるという事。普通宗教を考える場合に、体の問題とは別だと言う考え方が非常に強い。宗教は心の問題だから、体などはあまり問題にしない事が本当の宗教だと言う考え方があるけれども、仏教はそういう事を言わない。人間は健康である義務がある、と言うふうな考え方をする。

だから、仏性が出て来ているか、出て来ていないかと言う事は、自分が健康であるかどうかと言う事と非常に関係がある。もちろん体だけを気にして、クヨクヨ、クヨクヨ心配し「あの薬がいい」「あの養生法がいい」と言う様なことで騒ぐ必要はないけれども、健康であると言う事は人間の義務、仏教の立場から見ると、人間の義務と言う事。だから自分が健康であるかどうかと言う事と、仏性が自分に現れているかどうかと言う事と、大いに関係あると考えざるを得ない。

それから三番目の立場、行動の立場でどういう風に仏性を考えていくかと言うと、やりたいと思う事がすぐできると言う事。あるいはやりたくないと思う事をジッとやらずに我慢できるという事。つまり、実践的で実行力があるという事が、仏性が出てきているかどうかと言う事のけじめの分かれるところ、とこう言う事になろうかと思います。

それでは四番目の立場はどうかという事になりますと、これは仏性そのものと一体になると言う事。だからその事は、坐禅をやっている時の状態というものを考えればいい。   
                 
                            つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。66歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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―坐禅の勧め― 坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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