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正法眼蔵 仏経 8

仏教経典について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊が優曇華の花を手に取って目ばたきをされ、摩訶迦葉尊者がその意味を推察されにっこり微笑されたこともまさに過去七仏以来正しく伝承されてきた永遠の意味を持った仏教経典である。太祖慧可大師が雪の深い日に腰まで雪に埋まり少林寺の達磨大師を訪ね弟子入りしたいとお願いした際、達磨大師は最初は見向きもされなかった、そこで太祖慧可大師は、自分の覚悟を示す為に腕を切って達磨大師の前に差し出した。

また太祖慧可大師は達磨大師から仏道の大意を聞かれた時に一言も答えずに、達磨大師 に礼拝してから自分の席に戻り叉手して立った。言葉ではなしに動作で表した太祖慧可大師の境地に対して達磨大師は、「お前は私の髄を得たり」と言われた。その様な達磨大師と太祖慧可大師におけるやりとりも、まさに師匠と弟子との間でお互いに授け受け取った永遠の意味を持った仏教経典である。

この様な形で最後に法を伝えお袈裟を与えると言う事が、仏教経典の全巻を弟子に与える時節が到来したという意味しているのである。大満弘忍禅師が三度臼の端を打ち、大鑑慧能禅師が三度箕の中の米をふるいにかけたと言う二人のやりとりも、経典が眼の前に現れてきた姿であり、仏教経典が正しく伝承さ れていった姿である。

大鑑慧能禅師が言われた「言葉では表現する事の出来ない何かが、今この通り眼の前に到来している、これが我々の生きている現実の姿である」という言葉を残されたけれども、真実を得られた方々を教える際の無数の経典に相当するものであり、仏道修行者を教えるもの際の無限に多い経典と同じことを意味するのである。

南嶽懐譲禅師が言われた「何とか言葉で説明しようとすると、この我々の住んでいる世界はどうもぴったりしない」と言う言葉も、ほんの一行の言葉であるけれども、宇宙のすべてを説き仏教経典のすべてを説いている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―   

質問
悪を悪としないことには、懺悔は始まらないし、それで私も「正法眼蔵」を一所懸命ひっくり返して読みましたところが「身心学道」の巻に「十悪を離れ八戒を保つ」という言葉がありまして、「十悪」とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・倚語・悪口・両舌・貪・瞋・痴ですね。それから、もうちょっと足りないと私が思うところは「十重禁戒」の、不酤酒戒・不謗三宝・不自賛毀他戒ですよね。

その様なのを加えるとだいたい悪の基準というものが漏らさず入るんじゃないかという気がするんです。ともかく自分のした事がこれが悪、これが善という事をはっきり意識して懺悔すれば、「刹那生滅の法」が一つの救いとなると自分ながら考えてみたところなんです。

先生
善悪の問題というのは、これは頭で考えただけでは中々わかりにくい問題だというのが釈尊の教えにはあるわけですよ。四段階の考え方で問題を考えてみますと、一番最初の段階(苦諦)では、戒律を守るという事が善か悪かの基準になるわけですよ。じゃあ二番目の段階(集諦)ではどうかと言うと、自然の理法に背かないという事、人間の体でいうならば健康を保つという事にもなるわけです。
三番目の段階(滅諦)の考え方、日常生活に関連して言うならば、自分自身のやりたいと思う事をやりながら、周囲に逆らわないという事。だから易しいようで中々難しいという面もあるわけです。こういう三種類の行いというのは、どれも難しいんですよ。人間はまずやることが不可能だという事を、断言してもいいほど難しいですよ。

そこで釈尊は坐禅をしなさいという事を言われた。坐禅をすることによって戒律も守れるようになる。自然の理法に逆らわないようになる。日常生活においても、自分のやりたいと思う事をやりながら、周囲と摩擦を起こさない生活が出来るぞと、そのための唯一の道は坐禅だと、こういう事を言われていると理解することが出来ると思います。

ですから仏教(釈尊)の教えというものは、善悪というものは意識しても実行できるものではないと、こういう事が基本にあります。で、意識しても実行できないものだから、坐禅をやることによって救われるしかないと、こういう主張が釈尊の教えだとみていいと思います。


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正法眼蔵 仏経 7

仏教経典について道元禅師の注釈は続きます。

この様な宇宙という経典を読んでそれを理解する場合には、釈尊の持っていた智慧や作為を持たない自然の知恵や師匠に教わるのではなく本来自分が持 っている智慧というものが、人間が心で焦って得たい得たいと思っている状態よりも以前に、足を組み、手を組み、背骨を伸ばすならば直ぐ現れてくる。 ごく普通の当たり前の状況の中に、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている事が、宇宙とは仏教経典だと言う事を感得する時点である。

この様な形で宇宙としての仏教経典が我々によって保持され、読まれるとはどう言う事かと言うならば、仏教経典であるところの宇宙が我々を包み取ってくれるのである。 しかもこの仏教経典にあっては、文章として現れる以前の様子、文句として表現されたもの以外の様子、普通に読み下した場合の文章における様子など様々なものの見方や考え方がすっかり解消してしまい、現実の事態というものが眼の前に現れてくるのである。

上記の様な形で、仏教経典の内容や内容以外のものが見えてくるという事が、この世の中の素晴らしさが華によって飾り立てられているという状況を意味するのである。そしてこの様な仏教経典というものを法と呼び、宇宙と呼び、現実と呼ぶのである。この様な宇宙というものには八万四千と呼ばれるような無数の教えが積み重なっているのである。

この様な宇宙としての仏教経典の中に、均衡のとれた正しい真実を達成されたところの、 真実を得られた沢山の方々の示された文字があり、普通の社会に住んでいる真実を得られた方々の示された文字もあるのである。また涅槃と呼ばれるところの非常に静かな境地に入り得た真実を得られた方々の示される文字も、その宇宙と呼ばれる経典の中に含まれているのである。真実というものが到来する、真実というものが去って行くというふうな現実の事態というものも、いずれも宇宙と呼ばれるところの仏教経典の中における文字であるし、この宇宙の中における教えの文句である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「五蘊」と言う言葉がたびたび出てきますが、仏教に多少なりとも関心がある人ならば真っ先に思い浮かべるのは「般若心経」の冒頭ですよね。「観自在菩薩が般若波羅密多を行じている時に五蘊皆空なりと観じられた」とありますね。その後に「色即是空。空即是色」と言う誰でも知っている、そして本当の意味は余り知らないと思いますが、そこはどう言うふうに解釈すればいいんですか。

※「五蘊」について西嶋先生解説
我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」五つの集合体の事である。五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。――色蘊(物質的なものの集まり)受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)想蘊(その感覚的に受け入れたものを頭の中であれこれと考える働き)行蘊(その考えに従って自分の体を動かして様々の行動をする働き)識蘊(その行動の結果、自分の心や頭の中に形成された意識のあり方)――

先生
そこわね、一番中心的なポイントは「空」と言う言葉の意味なんです。空というのは原語では「シュンニャ-」と言うんです。この言葉には二つの意味があって「何もない」が一つなんです。もう一つの意味は「ありのままである」です。だからこの世の中を実在するものとして捉えた場合には「ありのまま」と言う意味になるし、この世の中が実在しないと言う前提に立てば「何もない」と言う意味になる訳です。
   
中国、あるいは日本の仏教学会では「空」と言う字を「何もない」と言う意味に理解する伝統があるわけですが、仏教思想を掘り下げた場合、仏教思想は実在論であると言う背景を頭に置く限り空(シュンニャ-)と言う字を「ありのまま」と理解すべきだと見ています。

だから「行深般若波羅密多時。照見五蘊皆空」の意味は、観世音菩薩が坐禅の修行をしていた時に、この世の中の一切のものがありのままだと言う事に気がついたと言う意味です。「空」と言う字を「何もない」と理解するか「ありのまま」と理解するかによって、釈尊の教えが正しく理解できるか、あるいは理解できないかと言う事は分かれて来ると見る事が出来ます。「空」と言う言葉の意味が、非常に大きな役割を果たしていると言う事になります。


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正法眼蔵 仏経 6

仏教経典について道元禅師の注釈は続きます。

真実を得た人々(諸仏)を教える場合にも、真実を得たいと思って一所懸命に努力している人々(菩薩)を教える場合にも、それは全大地で行われ全宇宙の中で行われている。ある場合には様々な手段を使って釈尊の教えを説き、ある場合には現在置かれた状態の中で釈尊の教えを説くと言う事が行われ、たとえ一人、半人の修行者をも見捨てる事なくこの世の中の本当の姿を示すのである。

この様な形で宇宙そのものが人々に教えている時点においては、諸仏にしても菩薩にしても、あるいは意識の世界において、あるいは無意識の世界において、それぞれ自分自身の意図的な努力によるものではないけれども、宇宙と言うものが仏教経典だとわかってくる事が一人一人の人間にとっての最大の目標である。 我々人間の目標は何かと言うならば、この我々を取り巻いている宇宙がいかに素晴らしいものであるかと言う事に気が付く事に尽きる。

何とかしてこの仏教経典を得ようと思って焦っている時点は、必ずしも永遠の意味を持った時間ではない。 永遠の事態とは仏教経典をすでに手に入れた時節のことを言うのである。 坐禅をして宇宙と言うものが眼の前に現れている時点は、仏教経典と言う具体的なものを手に入れている時点である。

※西嶋先生解説  
こういう言葉を理解する場合には坐禅を頭に置かないと中々理解し難いわけです。 それと同時に、坐禅というものを頭に置くと理解が付く訳です。永遠の時間、つまり落ち着いた時点というものは、坐禅の形で経典としての宇宙というものを、自分のものにした時に直ぐ現れてくるものである。 坐禅をして宇宙というものが眼の前に現れている時点は、仏教経典と言う具体的なものを手に入れている時点である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                                  
  --つづき 

質問
私が今まで老師方に聞くと、たいてい「仏経が思想だなんて、そんなもんじゃないよ」と言うような事を言われて、その先入観が非常に強いですね。だから先生に「思想」と言われると、ちょっとそれが中途半端なんじゃないかなあと、どうも私はそういう先入観が。

先生
それでどういうところにその違いが出て来るかと言いますと、「正法眼蔵」が読めていると読めていないとの違いです。私がこういう事を申すのは非常に不遜で申し訳ない話ですけれども「正法眼蔵」が読めない限り、仏教は思想でないと言う主張が出来るんです。
   
「正法眼蔵」が何で尊いかと言うならば、思想として述べておられるという点が尊いわけです。なぜ思想として述べておられる事が尊いかと言うと、人が読んでわかる可能性が残されていると言う事なんです。その点では、読んでわかる文字が残されているという事が非常に大きな意味を持っているわけです。
   
その事は「正法眼蔵」が今日なければ、我々は仏教思想というもの、仏教と言うものはわからんわけです。人に説明出来ないと言う問題がある。人に説明できないと言う事は、本人にとっては役に立っても人には役に立たないと、こういう問題がある。釈尊が意図されたのは人類すべての救済です。自分一人がわかってしまえば後は人はどうでもいいという思想ではなしに、自分の得た思想をどう世界の人に伝えようかと言う事が釈尊の苦心の根源でもあったわけです。
   
そういう努力が積もり積もって仏教経典が出来、沢山の方々の仏道修行があって仏教思想が今日に伝えられ、特に道元禅師のご努力によって「正法眼蔵」と言う本によって仏教が今日に伝えられた事ぐらい偉大なことはないと私は確信しています。疑問の余地のない程度にハッキリ確信しております。
   
その点では、仏教は思想ではないと言う主張だけで人が救済できるかどうかと言う問題、仏教は思想ではないと言う事の納得できる人はこの世の中に非常に少ないと言う時代がきているわけです。その事は、西洋思想というものに関連して、仏教もぜんぶ頭で割り切れるか割り切れないかが非常に大きな問題なわけです。ですから日本の一部における、仏教は思想ではないんだ、悟ればいいんだという考え方では世界に対して意味を持たないんです。


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正法眼蔵 仏経 5

仏教経典について道元禅師の注釈は続きます。

仏教経典を読む事によって、あるいは周囲の環境に浸る事によって、仏教的な立場でものを見る力が具わってきたところの仏道修行者の例もあった。仏教経典というのはあらゆる方角に広がっている宇宙そのものであり、宇宙が仏教経典そのものであり、我々の日常生活の中で仏教経典でない時点というものはないし、仏教経典でない場所というものもない。

そのような仏教経典としての宇宙は仏教の立場で説かれている場合もあるし、人間社会の様々な教えや仕来りで説かれている場合もあるし、頭で考えた理想の世界に属する説き方による教えもあるし、親子、夫婦、兄弟の間柄と言う人間関係における事実が真実を教える場合もあるし、動物が教えの手段として役立つ場合もあるし、人が喧嘩をしている様子を見る事によって「ああ言う事はやりたくないな」と気が付く場合もあるし、この世の中にある様々な事物が何かを教えてくれる。

また生い茂った木も、自然とは何かとか宇宙とは何かと言うふうな事を教えてくれる。 この様に考えてくると、あらゆる方角に広がっている全宇宙にたくさん並んでいるところの長いもの・短いもの・四角いもの・丸いもの・青いもの・黄色いもの・赤いもの・白いもの、これらの様々な事物が仏教経典の文字であり仏教経典の姿である。 この様な森羅万象というものを釈尊の説かれた偉大な教えを伝えるための道具とし、仏教を学ぶ人々にとっての経典となって今日に至ったのである。

この様な意味での仏教経典というものは、あらゆる時代に行きわたっているしあらゆる国々に行きわたっている。そしてこの仏教経典は地上に存在する仏教と関係のない人々も見捨てる事がない。単に人間だけではなしに、あらゆる一切の事物に対しても教えを伝えるという道が開かれていて、この地上に存在する一切のものを救うという事実が仏教経典としての宇宙には存在する。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
ちょっとバカな質問かもしれませんが、人類はもう何億年だか何百万年だかえらい年代存在してきている。まだ仏教といいましても僅か三千年、人類の何億年とか百万年と比較しますときわめて短い。僅か二千年か三千年位の仏道がそんなに価値があるんですか。

先生
その点はね、生命そのものが何億年以前に始まったかわからないほど古いものなんです。そうして現にそういうほとんど無限と言ってもいい昔から続いている様な生命が現に眼の前にある。その現に眼の前にある事実をどう説明したらいいかと言う事で、釈尊の説かれた教えが仏道です。

だから釈尊が誕生されてから今日まで二千数百年しか経っておらない訳ですが、二千数百年以前の教えであるけれども、したがって何億年と言う年限に比べるならば瞬間に近い様な非常に短い年月であるけれども、その短い年限の中で得られた思想というものが、無限に近い過去までのすべてを説明し得ると言う事が、人類が到達した思想の最高の思想として現に我々に与えられていると言うことが事実です。

ですから古い、新しいと言う事だけの問題でなしに、わずか二千数百年前に説かれた思想ではあるけれども、無限の過去まですべての事実を説明し尽くしている教えであるとするならば、偉大だと言わざるを得ない。こう言う事があると思います。

質問
そうすると、小ざかしいようなあれじゃないだろうかと、そんなことを考えるんですがね・・・。

先生
○○さんがどういうふうに感じられるかは、これはもう○○さんのご自由ですから、どうにでも考えていただいていいわけですが、私はその点で釈尊の説かれた教えの真実さというもの、偉大さというもの、これに対して一分一厘の疑問も持ち得ないというのが実情です。

なぜこの様な真実と言うものが釈尊によって説かれたかと言う事、そしてそれが達磨大師によって中国に伝えられ、道元禅師によって日本までもたらされたと言う事、そしてそれを我々がいま勉強出来ると言う事実そのもの、このくらいありがたい事実は他にはないと言うのが私のハッキリした見方です。
   
だから○○さんが「いや、そんな大したもんではない」と見られたのは、それは○○さんの立場で、私がどうこう言える問題ではないけれども、私はそういう点では仏教という思想がそれだけ偉大なものを持っていると言う事を非常に強く感じています。人類が今日抱えている問題を解決する為には仏教思想以外ないんですよ。この事を私は強く感じるから、こういう会で仏教を説く事をやっているわけです。ですから、私は仏教思想ほど偉大な思想と言うものはありえない、唯一の思想だという考え方を持っております。
                                  
                    つづく--


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正法眼蔵 仏経 4

高徳と仏教経典との関係について道元禅師が注釈されます。

徳の高い僧侶は例外なしに仏教経典を十分に理解しているものである。仏教経典の意味が解っているという事は、仏教経典が実は我々の住んでいるこの大地であり、国土であるという立場で勉強する事であり、我々の体である、我々の心であるという立場で勉強するのである。仏教経典を人々に教える際の手段とし、仏道修行と仏教経典とが同じものだという考え方で仏教経典の意味を捉えるのである。また仏教経典とは我々の父、母であり、自分たちの子供であり、孫であるという捉え方をするのである。

この様な形で仏教経典が我々の日常生活における実行の問題であり、同時に理解の問題であるという事がその立場であるから、その様な仏教経典が我々の実際の行動であり同時に理解であると言う立場が、徳の高い僧侶が仏教経典を学んでいく際の態度となっているのである。徳の高い僧侶が日常生活において顔を洗うとかお茶を飲むという動作というものが、仏教経典の内容と同じものを持っている。

また仏教経典が徳の高い僧侶を生み出すと言う事の意味は、黄檗禅師が弟子を訓育するに当たって、杖で六十ほども叩いた事が弟子や孫弟子を成長させたり、大満弘忍禅師が臼のはしを杖で三回ほど叩き大鑑慧能禅師にお袈裟を伝え釈尊の教えを伝える事を可能にしたばかりではなく、霊雲志勤禅師が梅の花の咲き誇るのを見て釈尊の説かれた真実を掴んだ。

香厳智閑禅師が竹に小石が当たって「コツン」という音を聞いて釈尊の説かれた真実を掴み、釈尊が明けの明星を見た時にこの世の中がいかに素晴らしい世界であるかと言う事に気ずかれた。 これらの様々な事実は、すべて仏教経典が徳の高い僧侶を成長させこの様な状態に到達させたのである。

※西嶋先生解説 
ここに述べられているのは、単に紙の上にかかれた仏教経典だけではなしに、様々な我々の周囲にあるところの事物、つまり黄檗禅師の場合であれば旅行用の杖であるとか、大満弘忍禅師の場合であれば臼を叩いたところの杖、霊雲志勤禅師の場合 であれば一面に咲き誇っていた梅の花、香厳智閑禅師の場合で言うならば、小石が当たって音をたてた竹というふうな様々の具体的な事物、そして釈尊の場合では東の空に輝いていた明けの明星、これらすべて仏教経典であって、その様な仏教経典がますます仏道修行の成果をあげ得る状態に進めていったのである。



              ―西嶋生の話―    
    --つづき

仏教を考えた場合に、修行の方が大切なのか教えの方が大切なのかという二つの問題に分けますと、修行の方が大切で教えの方はそう大切ではないという考え方もあるし、修行はそう大切でなくて教えが大切という考え方も起きがちです。ただ釈尊が説かれたのは、教えと修行とは一つのもので別のものではないという主張があるわけです。それが「修証一等」と言う思想の中にも現れてきているわけです。

ですから釈尊の説かれた教えは、単に思想だけではなく修行もその大事な部分として含まれているけれども、修行と思想とその二つのどちらを捨てても仏道は成り立たないと、こう言う事があるわけです。なぜ仏教が修行と思想と両方大切に考えるかと言う問題ですが、その点では仏教思想というものが、普通我々が常識的に持っている考え方と少し立場が違うと、こういう面があるわけです。どう言う事かといいますと、我々は普通、心を中心にした考え方を一つの代表として持っているわけです。

そうすると心を中心にした宗教というものがこの世の中にはありまして、世界の色んな場所で非常に有力な力を持っていると言う事があるわけです。それからもう一つ、この心を中心にした宗教に対して、それは嘘だ、出鱈目だ、この世の中は物から成り立っていると言う物を中心とした宗教もある訳です。これはどういう宗教かと言うと、お金を儲ける事が人生の目的だ、あるいは力を持っていて相手を打ち負かす事が我々の人生の目標であって、国家も他の国に対してすきさえあれば攻め込んで領土をとる事が国家の目的であると言う考え方もある訳です。

ところが釈尊はどういう事を言われたかと言うと、心と物と二つに分かれた捉え方は本当のものの理解の仕方ではないと言う主張をされたわけです。ですから釈尊は物と心とが一つである宗教を説かれた。「物と心とが一つである」という事は何によって得られるかといえば「行い」によって得られる。だから仏教思想は「行い」の宗教だといっていいわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。自営業。69歳。坐禅を頼りに暮らしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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