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正法眼蔵 画餅 7

香厳智閑禅師の言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」について道元禅師の注釈は続きます。

画にかいた餅と言うものを考えて見た場合に、現に我々が目の前に見ているところの現実がつまり画いた餅いという見方もできるけれども、父母が生まれていない以前から続いているところの、言葉では表現できないところの何かというものも同時に持つている。

※西嶋先生解説
画にかいた餅と言うのは、普通常識的に考えれば実体とは関係ないと言う捉え方をする訳ですが、道元禅師は画にかいた餅と言えども現実の一部だと言う捉え方をされた訳です。ですから父、母が生まれていない時から、永遠の昔からずっと続いている本質的なものが画にかいた餅にもやはりあると言っておられる。

本文に戻ります
画にかいた餅は餅がなければ画にかいた餅はあり得ないし、現実の餅を考えて見るならば、現実の餅は米の粉を使ってつくるが、まさにその瞬間においては、それは人間が作ったから生まれて来たとか、それ以前からこの世の中の実在として存在するとかと言う事ではない。いま眼の前に現実の餅がある、いま眼の前に画にかかれた餅があると言う事でしかない。いま現に実体があるという事が我々の住んでいる世界の様子である。

過去から今日に未来にと様々な人々がこの問題を考えて、画にかいた餅や現実の餅が人間が作ったからこの世に現れて来たとか、それが時間が経つと同時にこの世の中から消えていくという捉え方をするけれども、その様な捉え方に影響されて、この画にかいた餅とか現実の餅というものを考えるべきではない。仏道の立場からいま現に目の前に画にかいた餅がある、現実の餅があるという捉え方をすべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
謹んでご教示を頂きたいんであります。私の知り合いのある大学の名誉教授が重体でありまして入院しているんですね。医者は坐禅なんて無理だと言うわけですね。本人が「正法眼蔵」のいいところを聞かせてくれと言われますからほっとくわけにはいきませんので・・・。さて「正法眼蔵」の何の巻を聞かせてあげたらいいかと言う事です。

先生
おそらく言葉の説明では問題の解決にならんと思います。言葉の説明では迷いが増えるばかりでね。だからどんな立派な事を言っても、中々納得のいくと言う事にはならないのではないかと言う心配がありますね。そう言う状態になったら、何かを教えようと言う事自体が酷いのかもしれないな。まあ、真実と言うものを教えてやると言う事も一つではありますけれどもね。我々がいま一所懸命やっているのは、そういう事のないためにやってるんですよ。正直言うと。

これは非常に残酷な言い方かもしれないけれども、我々が与えられた人生の中で一番やらなければならない事を今やっているだけの事でね。最終段階に来てから、まあ確かに偉い人だったら相手を救えるかもしれないけれども、現実の問題としては中々難しいという事はありうると思います。そこで、名文句があり、その人がスッカリ元気になって、安心が行くという事になりうるのかどうかね。

それはもう何十年と原因を積み重ねるわけですよ。で、原因を重ねた結果、現在があるわけだから、その現在に安住していくと言う事以外に生き方はない。生き死にの問題と言うのは実に難しいんですよ。だからそう言う問題を早めに解決しておくと言うために我々はやっている訳だからね。


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正法眼蔵 画餅 6

香厳智閑禅師の言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」について道元禅師の注釈は続きます。

仮に仏教を勉強していながら、この香厳智閑禅師の「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言う言葉の意味をしっかりと理解できない人は、仏教のすべてがわからない人と見ていいであろう。「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言っている言葉の意味は、たとえて言うならば「諸悪莫作、衆善奉行」であり、「是什麼物カ恁麼来」であり、「吾常是於切」である。

※西嶋先生解説
「諸悪莫作、衆善奉行」道元禅師は悪い事をしてはいけない、善い事をしなさいと言う事を人間が頭で考えたり口先で言う事と、自分の体を使って実際にやる事は同じではない、天と地ほどの違いがあると言う主張をされていている。ですから、この「画にかいた餅は飢えを充たさず」という言葉も、「諸悪莫作、衆善奉行」という主張で言っておられるのと同じように、頭で考えた事と実施にやれるかやれないかという事は大変違うという事を言っておられるのである。

「是什麼物恁麼来」
什麼物(言葉では表現できない何か) 恁麼来(この様に現に到来している)我々の生きている世界を考えた場合に、学問の立場からは色々説明する訳であります。それでは具体的に我々が生きている現実生活を言葉で説明できるかと言うと、仏教ではそれは出来ないと主張します。我々は言葉では表現できない現実の世界に生きているのであって、強いてそれを言葉で説明しようとするならば「是什麼物恁麼来」なんだか言葉では言い表せないものが現にここに現れている。

「吾常於是切」
自分はいつもこの現実の世界において一所懸命に生きている以外に生きようがない。

本文に戻ります。

とりあえずこのように勉強してみる必要がある。ところがこの「画にかいた餅は飢えを充たさず」という言葉について、過去においてこれを徹見した人々は少なく、そしてその真実の意味を十分に理解し得た人は皆無と言っていいだろう。どうしてその様な事がわかるかと言うと、従来もこの言葉について論評した人が一人、二人といない訳ではないけれども、その様な人々の言っている事を検討してみたところ、言葉の意味について本当かどうか疑ってみる事をしていない。また本当に真剣にこの問題に取り組んで勉強している人がいない。そして隣人の言葉に耳を傾ける事をせず、全く無関心のように見受けられたからである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

次から次へと変化していく瞬間瞬間に、我々の体、心が喜びに満たされていくと言うのが我々の実人生である。こう言う考え方を聞くと「いや我々の人生はそんな素晴しいものではない、悩みも多く面倒な事も多くて早く終わりにしたいと思う事ばかりだ」と言う実感も、もちろんあるかも知れないけれども、それと同時に坐禅の中身というものを考えてみると、足を組み手を組み背骨を伸ばしている時と言うのは、人生の悩みからとにかく離れる事が出来る。

だから仮に日曜日、どうも気分がスッキリしない面白くなくてしょうがないと言う場合に、だまされたと思って坐禅をちょっとやってみるといい。しばらく坐っていると、さっきあんなに悩んでいたのはどうしてあんなに悩んでいたのだろうと思って不思議になるくらいに気分が変わる。それがなぜかと言うと、体の状態が変わるから。我々の悩みと言うものも、筋肉の状態、背骨の状態、神経の状態がどうなっているかと言う事でしかない。

だからその形を治すと気持ちの方もスッキリすると言う、極めて単純な原理に貫かれていると言うのが、我々の体であり我々の人生である。しかしそんな単純な事でとても人生は説明出来ない、もっと複雑でどうにもならない様な悩みが沢山あるんだと皆さん考えておられるみたいだけれども、本当に辛いと思った時にヒョッと気分を変えて坐禅をするという事をやってみたら、おそらく私の言っている事が嘘ではないと言う事がわかってくるんじゃないかと、そういうふうに感じる訳であります。 


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正法眼蔵 画餅 5

香厳智閑禅師の言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」について道元禅師の注釈は続きます。

香厳智閑禅師が言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言う言葉を様々の僧侶が勉強している状態というものは、過去における真実を得た人、現在における真実を得た人が仏道を学ぶ際の一つの行き方であるけれども、同時に真実をまだ得ていない仏道修行者が人里離れたところに粗末な庵を造って、その自然の環境の中でこの「画にかいた餅は飢えを充たさず」という言葉を一所懸命に勉強しているという例もある。

このように様々の僧侶が仏道修行の一環としてこの言葉を勉強するというやり方が、釈尊以来の仕来りとして正しく伝承されて来ているのではあるけれども、ある人々は経典や論議を勉強していたのでは、仏道の本当の智慧というものが熏修(仏道の修行において師匠と弟子とが一緒に生活することによって師匠の教えが自然に弟子に移っていく)ができないのでこのように言うのだという。またある人々は、声聞、縁覚、菩薩の三乗や、仏の一乗と言った様な教学は、決して正しい真実へ到達する道ではないと言う事を言おうとして、このように言うのだと理解している。

つまり「画にかいた餅は飢えを充たさず」と同じように、経典や論議を中心にして仏教を勉強してみても、本当の仏道の意味はわからないと言うことをこの言葉は示している。一般的に言うならば、仮に言葉による教えは、本当の意味では役に立たないという事を言おうとして、この様に「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言う言葉を述べたと理解する人々がいるけれども、その様な理解の仕方は大きな誤りである。

その様な理解の仕方をしている人々は、釈尊以来代々の祖師方によって受け継がれて来たところの努力によって得られた成果というものを正しく伝えておらず、釈尊以来代々の祖師方が主張してこられた言葉の理解に暗いと言わざるを得ない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「熏修」という言葉が出てきましたが、やはりどうしても人間と人間とでないと熏修というのは出来ないものなのでしょうか。たとえば書物等から熏修という事がはありえなかったり、という事になるものなんでしょうか

先生
この「熏」と言うのは本来はたとえば香を焚いて着物に移す様な場合の事が最初の意味なんですよね。だから着物に香を焚き込める時に、狭い部屋の中に香をたいて、そこに着物を掛けておくという事が行われた訳です。それが「熏」という事の意味なんですよね。それがどうして師匠と弟子との間の問題について使われたかと言うと、師匠から、これはこういう意味だ、あれはああいう意味だという事で言葉で仏教の勉強を教わっても、それ以外の事を教わらないと仏道というものはわからないという事があるわけです。

だから、日常生活はどんな事をやってもほっといて、講義の時間になると経典の講義だけをしていると言う事だと、弟子はうまく仏教徒として育たない訳です。そうすると食事の時にも、掃除の仕方についても、こうしろ、ああしろと言う事を教えていくと、そういう動作の中で仏道とは何かと、こういう事がわかってくる。

また師匠が毎晩酒ばかり飲んでおって「お前は若いんだからしっかりやれ」と言う事を言っていても、弟子は中々育たない訳です。しかし師匠そのものが一所懸命に仏道修行をやっていると、弟子は言わなくても師匠の真似をして仏道修行が一所懸命やれるようになる、こういう事がある訳ですよね。だからそういう師匠を弟子が見よう見真似で仏道を勉強すると言う事が「熏修」と言う事の意味です。

質問
そうなると、人間対人間と言うふうに、師匠と弟子と言う関係でないと「熏修」と言う事は成り立たない訳ですね。

先生
そう。だから講義録を勉強したんでは本当の仏道の勉強をした事にはならんと、こう言う事でもある訳であります。

質問
もう一つですけど、そうすると言葉を換えて言うと、先生がよくおっしゃってるように、とにかく坐ることもしなければだめだという事と一つ共通しているように思うんですが・・・。

先生
そういうことです。そういうことです。


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正法眼蔵 画餅 4

香厳智閑禅師が言われた。画にかいた餅は飢えを充たさず。             

※西嶋先生解説  
香厳智閑禅師は非常な勉強家であって、沢山の本を蓄えて読んでいた訳であります。ところがあるとき師匠から、本から借りてきた言葉ではなしに、おまえ自身の言葉で仏道と言うものを表現してみろ、とこういう質問を受けたときに、香厳智閑禅師はいくら考えても自分自身の言葉で答えるが出来なかった。
 
つまり香厳智閑禅師は本を沢山読んで、借り物の言葉であればいくらでも頭に詰まっていた訳でありますが、師匠に借り物の言葉ではなしに自分自身の言葉で仏道を表わしてみろと言われたら、どうしても返事が出来なかった。そこでがっかりして「画餅飢ヲ充タサズ」と言った訳であります。
  
その事はどういうことを意味するかというと、本をたくさん読んで頭が知識で一杯になったとしても、仏道が何であるかと言う事はよくわからんもんだと言う事に気がついた。そこで「画餅飢ヲ充タサズ」と言って、もう自分は仏道において悟りを得るという事は諦めたという事で、寺の僧侶たちに食事を給仕する仕事をやっていた。その後は山の奥に入って一人で庵の中で生活したと、こう言う話が伝わっているわけであります。

厳智閑禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この言葉を勉強する沢山の僧侶は様々な方角から来た人々である。ある人は菩薩(日常生活を通じて仏道修行をする)であり、ある人は声聞(説法を聞き仏教書を読み仏道修行をする)であり、その名称も地位も千差万別であった。それらの僧侶は非常に頭のいい人もいれば、様子が変わっていて普通の人と異なる人もおり、その性格にしても、経歴にしても、ものの考え方にしても様々な違いがあった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
うちの娘は大学院で修士課程なんですけど、どうも勉強し過ぎる弊害というものを感じるんですよね。現実から遊離してしまうっていうか、頭でっかちと言うか、頭でまず考えてから行動に移る。ワンテンポね、生き生きとしていないってところを、ことに教育界なんかでは子供が敏感にキャッチしてしまう恐ろしさを感じますね。

先生
確かにそういう問題があるんですよ。それでね、学問そのものにそういう欠点があるわけではないけれども、学問のやり方がえてして現実から離れてしまって理屈だけが一人歩きしてしまうと怖いわけですよ。ただ学問と言うのは理屈が一人歩きしても、学問として世間では通用する訳です。で、「あの人の学説はさすがだ」というようなことを世間からは言われるわけですよ、現実離れしていても理論的に通っていれば。

だからそういう学説というものを信じて、それを実際問題に適用しようとすると、うまくいかないというふうなことは非常に多いんですよ。学校暴力なんてこともその点ではそういう事の一つの例で、――中略―

仏教が指摘したのは人間がものを考えるという事は非常に貴重なんだけれども、特に言葉と言うもの、概念というものを使ってそれを理論的に組み立てていくという事は非常に大切なんだけれども、その理論が現実から離れてしまった場合には怖いと、こういう事を言われた。だからそういう点では、理論というものを尊重すると同時に、その理論が現実から離れない様にと言うのが仏教の主張ですよ。

だから、こういう「画餅」というふうな巻の中でも、画にかいた餅そのものと現実とを結びつけたところに本当の画にかいた餅の意味があるし、その画にかいた餅と言うものがあればこそ「餅」と言う言葉ができ、「餅」という言葉を使って人間が生活していけるという事があるんだと、こう言う事ですね。


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正法眼蔵 画餅 3

この様に仏道における理解というものは頭による理解ではないから、ほんの一つの具体的な事柄についてその意味が解ってしまった場合には、この世の一切の事についての理解がついてしまうと言われているのである。ほんのわずかな事柄についての理解がつくという事は、いま眼の前にある具体的な事物が持っている。外見や様子を否定するという理解の仕方ではない。またこの世の中の全てのものと対立させて、全体の上における一部という理解の仕方をする考え方でもない。

また個々の事物それぞれが絶対の存在であって、何物とも対峙していないと言う理解の仕方をする事でもない。また無理に頭の中で考えて、一切の事物が独自の存在であって対峙する何もないという考え方を無理にとるという事は、その個々の事物が独立独歩のものではなくて、何らかの形で他のものから障害を受けて相互に妨げ合っているという事情に他ならない。

物事を十分に理解するという事が物事を十分に理解するという事態を自己限定して如実に表れた場合に、ほんの一つの事について理解ができたという事がこの世の一切のものについて理解ができたという事でもある。一つの事が分かったという事はまさに具体的な個々の物についてわかったという事ではあるけれども、その様な形で個々の具体的なものについてわかったという事が、実は宇宙全体についてわかったという事に他ならない。

※西嶋先生解説 
ここの最後のところは、道元禅師が哲学的な「ものの考え方」においていかに優れていたかという事の具体的な証明になるわけであります。こう言う様々な立場からの論議というものは、今日の西洋哲学において初めて考える事が出来るようになったものの見方でありますが、道元禅師はて7、800年前にすでにこう言う考え方を綿密にやっておられた。

しかもそれが道元禅師の力量だけではなしに、釈尊以来代々の祖師方が仏道を勉強する場合には、必ずこの様な縦から横からの「ものの考え方」で、この世の真実を捉えてこられたという事が言えるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今日のところは、多面的にものを捉えるという事ですね、原始仏教の頃からそういう・・・。

先生
そういう事です。それはどういう事かと言うと、もっとも多面的なものの理解の仕方と言うのは坐禅の態度なんです。坐禅をしている時の態度は、頭の中でどう考える、こう考えると言う事でなしに、ジ-ッと坐ってすべてを照らしていると言う態度になるわけです。そういうすべてを照らす態度が、こういう理論的に言葉で表現するならば色々な角度から、何回も同じ事を説くという事につながるわけであります。

だから仏教の基本的な考え方と言うのは、常にそういう多面的な捉え方。その多面的な捉え方を原始仏教では四つの考え方(四諦)として説明しておられるという面があるわけです。ですから仏道というものを説く場合には、一面的な思想を説く限り仏道ではあり得ない。様々な角度から一つの問題を説いて初めて仏道というものが成り立つと、こういう事が言えると思います。 


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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