トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(上) 37

天童山の宏智正覚禅師の教団において寺院の守護神が語った。 

自分は宏智正覚禅師がこの山に住職として住む様になってから、すでに十余年が経っていると聞いている。その間、自分は常に住職がおられる建物に行って、住職の姿を見ようと努力するのであるけれども、建物の前に行くと足がすくんでしまって未だに住職の姿を見た事がない。

寺院の守護神が語ったことについて道元禅師が注釈されます。
この様に寺院の守護神は宏智正覚禅師が仏道の究極に達しておられるから、その姿を見る事が出来ないという例は、釈尊の教えをしっかり見につけた先輩の事跡と言うものに出会ったと言う事に他ならない。この宏智正覚禅師が住んでおられた天童山は以前は小さな寺院であった。

しかし宏智正覚禅師が住職をされてた時代に、道教の寺院、尼僧の寺院、理論だけを主としている寺院などを整理して現在のような景徳寺としたのである。宏智正覚禅師が亡くなって後、政府の役職についていた王伯痒が宏智正覚禅師の伝記を書こうとした。その際ある人が「宏智正覚禅師は政治的な力量があって、かつてあった道教の寺院、尼僧の寺院、理論だけを主としている寺院を奪い取って、今の景徳寺を作ったという事をこの伝記に書くべきである」と言った。

これに対して王伯痒が「いや、それはいかん。寺院を奪い取ったとかということは僧侶として決して誉めた話ではない。だからそういう才能があって、景徳寺という立派な寺をたてられたという事跡はあったけれども、それを事改めて宏智正覚禅師の事跡として伝記に残すのは望ましくない」といった。その当時の人々は、この王伯痒が述べた意見と言うものを褒めた。

銘記せよ。僧侶としての様々の政治的な能力、あるいは経済的な能力があるという事はあくまでも俗世間における才能であって、僧侶としての値打ちと言うものとは関係がないと言う事は十分に承知しておらなければならない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
この間、私の友達が「人生を歩むのは、貸しで行け」って言うんですね。私、これはいい言葉だと思ってね。でもいろいろ考えてみて、どうもそれだけでは通らないところがある気がして・・・。

先生
そうね、やっぱり貸しがつくれると思っているのは僭越だと思うね。「貸して行け」なんて言っているけど、そんな事が出来るはずがない。貸したり借りたりなんて、まあソロバンはじいてみればやっぱりブラス、マイナスゼロですよ。人間の行いと言うのは。だから「俺は貸しているんだ」と言う自負があるとすれば自惚れであってね。

質問
自惚れなきゃ言えませんね。

先生
と思う。

質問
私、いい言葉だと思ったんです、初めは。

先生
道徳、倫理、宗教と言うか、そういう普通の考え方は全部そうですよ。人様のために一所懸命という事を言うわけですけれども、仏道ではそういう僭越な事は不可能だという考え方が骨身に徹している。だから損得を考えずに一所懸命やるしかないと言う事になると思う。

ところが、多少うぬぼれがあると「俺はあいつにこういう事をしてやった、世間にこういう良い事をしてやった、そのうち勲章が来てもいいはずだ」と言うふうな事になるわけですけれども、それ程人間の能力と言うのは有り余っていないんですよ。精一杯にそれぞれがやっているだけの事でね。そう偉い人なんていやしない。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     

正法眼蔵 行持(上) 36

法演禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

昔から真実を得られた沢山の方々がおられた。その中には天使から食べ物の供養を受ける例が多かった。しかしながら、その様に修行中に天使から供養を受けていた人々でも、すでに真実を得てしまうと、天使はその真実を得た人を見る事が出来なくなって、鬼に類するものもその真実を得た人を見ようとしても見る事が出来なくなってしまう。

なぜその様な事が起こるのかという問題を考えてみる必要がある。天使や鬼神の類が、もしも釈尊の教えに従ってその修行を実践するならば、釈尊と同じ様な境地に近づく方途が残されている。しかしながら仏道修行をしていた人々が仏道修行の結果、天使や鬼神の類の境地を乗り越えてしまった場合には、天使や鬼神の類も、この真実を得た人々を眼にしそれと同じ立場に立つという事は難しいのである。
 
南泉普願禅師も「自分は仏道修行がまだ未熟であるから、鬼とか神とかという神秘的なものからこっそりと覗き見られるような境地でしかない」と言っておられる。銘記せよ。鬼とか神と言う多少超人的な、あるいは神秘的なものと同じ境地に立っている限り、仏道修行の力と言うものがまだ十分とは言えないと承知すべきである。

※西嶋先生解説
鬼とか神とかと言う事が、我々人間が常に考えがちな理想を基準にしたものの考え方という事でもあるわけです。仏道修行が進んで来ると、きわめて普通な状態になるから、鬼や神の境地とは別の境地に立つという事を言っておられるわけであります。


           
          ―西嶋先生にある人が質問した―
  
質問
我々の普通の考えならば、天使から供養を受ける事は大いに結構な事ではないかと思うんですが・・・。つまり恩恵と考え相手が天使であるならばですね。これはどういうものでございましょう。

先生
これはですね、我々のものの考え方として、理想の世界との関係があるうちは本当の現実が見えてこないという事と関係があるわけです。ですから、天使から供養を受けると言う様な事は非常に素晴らしい事ではあるけれども、仏道の立場から見ると、素晴らし過ぎるという事。素晴らしすぎると言う事は本当の現実ではないという事です。だから仏道修行を積んで現実がよく見える様になると、神様も姿を消して現れなくなると、こう言う事を言っておられるわけです。

これは仏教特有の思想です。普通は神様と言うものがいて、人間が努力をすると神様の境地に到達するとか、あるいは神様と同じ世界に住むとかと言う事を考えて、それを念願にする宗教もあるわけですけれども、仏道の立場からすると、神の境地というものは、究極の面では必ずしも望ましい境地ではなくて、地上にしっかりと足を踏みしめて、現実の生活の中で生きるという事が仏道だと、そう言う思想が仏教の中にあるわけです。だから天使の供養を受ける事は最高の事ではないと。

仏道修行の途中では、天使から供養を受けるという事がありえても、仏道の真実が分ってしまうと、そう言う事が起きえなくなる、そういう事をこの主張の中で述べておられる訳であります。

質問
そうすると実在的な考え方に相当するんでしょうか。

先生
そうですね。仏教の立場というのは、あくまでも現実を中心にした考え方です。だから架空の物語については、最高の価値を認めないんですよね。確かに架空の素晴らしい境地というものも頭の中では考えられるけれども、本当に尊いのは現実そのものという考え方であるわけです


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     

正法眼蔵 行持(上) 35

法演禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。黄帝が政治を執った合宮も、蕘や舜が政治を執った総章も、いずれも屋根を草で葺いていたのである。現に黄帝や蕘や舜と我々とを比較するならば、天と地以上の隔たりがあって比較の対象にはならない。それにもかかわらず、屋根を草で葺いたような建物で政治を執っていた。この様な僧侶でない人々でさえ、草で屋根を葺いた粗末な家屋に居住している。

どうして出家した僧侶が立派な建物に住もうと望むことがあろう。もしその様な建物に住んでいるとすれば、その事を恥じるべきである。過去における先輩方が、樹木の下に住んだり、林の中に住んだという事は、古の人にとっては、在家、出家の別を問わず樹木の下や林の中に住む事を好んだのである。

黄帝は、崆峒道人広成の弟子であった。師匠である道人広成は崆峒と言う山の巌の中に住んでいた。今日でも大宋国における国王や大臣の多くは、この黄帝や広成の幽玄なやり方を伝えて実際に実行しているのである。このように考えてくると、俗世間の中で普通の生活をしている人々もこのような質素な建物に住んでいる。出家して僧侶になった人々が、どうして一般の俗生活をしている人々よりも劣っている、濁っているという事がありえよう。



              ―西嶋先生の話―

我々がなぜ坐禅をやっているかと考えてみますと、一つは一度失った目をもう一回取り戻すと言う事です。我々は長年の習慣で片目をつぶしている場合が多い。片目をつぶしている場合とはどういう事かと言うと、一つには、何もないところに「何かがある、何かがある」と思い込む癖がある。お化けがいるとか、神様がいるとか、いろいろな考え方がある。この世の中にありもしないものを、「何かありそうだ、何かありそうだ」と言ういろいろな教え方がある。

それからもう一つの片目の状態は、「あるものをない」と思い込んでしまう。たとえば、社会の恩、国の恩とかそう言うものがある。「そんなものはありはしない、そんなものは勝手に人がつくったものだ」と言う考え方もある。ないものをハッキリ「ない」あるものをハッキリ「ある」と見る事が出来るという事はわりあい大変な事。そういう眼をもう一度取り戻すと言うのが、坐禅をやる事の意味にもなろうかと思います。

人間として生きたいと言う気持ちがあるならば、目玉を二つ具える事は大切。それはこの世の中でありもしないものを、あると思い込んで一生を送るとか、あるものをないと思い込んで一生を送るとかと言う事を避けると言う事。これは非常に簡単なような事であるけれども、大切な事。その事が出来るか、出来ないか、そういう両方の目を持って、一生を生きたいと言う願いを持った人が仏道修行(坐禅)をやる。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     

正法眼蔵 行持(上) 34

法演禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

ましてこの日本国においては、国王や大臣の宮殿でさえ決して立派な家屋があるわけではない。わずかにきわめて粗末な白屋である。まして世間を離れ僧侶となり仏道修行をしている人の住まいが、どうして色を塗りたてた贅沢な住まいであるという事がありえよう。

もし僧侶でありながら立派な家に住んでいるという事は、その収入を得る手段が間違っているからに違いない。生活の手段がきれいでありながら、しかも立派な家屋に住んでいるという事は僧侶の例としては少ない。もちろん初めから立派な建物があって、その中に住んでいるという事であれば良いとか悪いとかという議論をすることはない。

自分の代になって新しく立派な建物をつくるという事はすべきではない。草でむすんだ庵や白木のままの家屋は、過去における真実を得られた方々の住まいであり好んで住んだところである。我々の様に時代を遅れて仏道を学ぶ者は、この様な過去における諸先輩の生き方を学ぶべきであり、それに背いてはならない。

中国の古代において中国を治めたと言われている黄帝、蕘、舜という方々は僧侶ではないけれども、粗末な家に住んでいたという事が世間における優れた例とされている。尸子と言う人の書いた書物には、黄帝という古代の優れた帝王の行いを見る場合には、その黄帝が住みかつ政治を執ったと伝えられている合宮と言う建物を見ればわかることであるし、また、蕘とか舜とかという優れた帝王の行いを見ようと思うならば、その蕘や舜が住みかつ政治を行った総章と言う建物の様子を見ることによって実態が分かる。

黄帝が政治を行った場所というのは、その屋根を草でおおい、その名前が合宮と呼ばれていた。また舜が政治を執った建物というのは、やはり屋根を草でふき、その名前が総章と言われた。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
名利を離れて仏道に飛び込んだお坊さんが、毎日修行をやっても「なるほど」という様な事柄がその人に現れなかったら、よっぽどボンクラだと私は思うのですがどんなもんですか。

先生
うん、その点はね、道元禅師がお書きになった様な修行を続ければ人間として一人前になることは間違いない。

質問
道元禅師が「何々をやらないのは仏の児孫ではない」と何回も言われることは、本来の仏道修行や仕来たりというのはなかなか守りきれなかったんじゃないんですか。

先生
と言うよりも道元禅師がこういう種類の文章をお書きになった趣旨は、こういう修行が本来の仏道修行だからそれを後世に残そうとされた意味が大きいと思います。だからこの文章が残っていなければ、我々は仏道修行をどうやったらいいのか見当がつかないわけですけれども、道元禅師が事細かにどういうやり方をするかという事をお書きになっているから、我々がどういうふうにやれば仏道修行が出来るのかという点の有力な参考になるという意味が非常に強いと思います。

質問
「正法眼蔵」に書かれたことを100%出来なくても、100%を目標にして、たとえ3、40%ぐらいのところから順々に、順々に、月日をかけて、それを目標にして、その志をくじけさせない様にしていくことが仏道修行だと、この頃の先生のお話もその様だと思うんですが・・・。

先生
私はそうは考えておりません。それはどういう事かと言いますと、「正法眼蔵」に書かれていることはそう難しくないという事です。道元禅師は非情に厳しい方だと一般に思われ、「正法眼蔵」に書かれていることが非常に難しいと一般に解釈されている原因は、今日まで「正法眼蔵」が読めなかったからです。

「正法眼蔵」は、文字通り克明に読みますと、そう難しい人間離れしたことは決してお書きになっておられない。今日まで道元禅師の教えが非常に厳しい教えだと思い込まれてていたのは、「正法眼蔵」が読めなかったという事が唯一の最大の原因です。だから今日では、「正法眼蔵」を一字一字追って正確に読めるようになりましたから、道元禅師がそう無理なことをおっしゃっておられるわけではなしに、きわめて人間的な、きわめて中道的な仏道というものをお説きになっているという事がはっきりしてきたと、そういう事があると思います。

質問
まあ、そこのところは私の考え方と少し違う事なんですけど・・・。

先生
だから、むしろ道元禅師のお書きになったものを忠実に追及していく事が、そう無理のない仏道修行が出来るという事につながると思います。今日の坐禅のやり方にしても、朝起きてから夜寝るまで坐禅をするというやり方がありますけれども、仏道修行として本当に意味があるのかどうかという事については、坐禅をやる時間を区切って、日常生活の中に組み込みながらやるべきだという道元禅師のお考えの方が、仏道修行に適していると見ることが出来ると思います。今日の人は、あまりにも無制限に厳しいことを短時間でやろうと思って、焦っているだけのことだという見方です。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     

正法眼蔵 行持(上) 33

五祖山の法演禅師があるとき人々に説示して言われた。  

およそ人間の行動というものは、その人の思想の範囲を出るものではなく、人間の思想というものは、その人の行動の範囲を出るものではない。

※西嶋先生解説
この言葉は思想というものと行いというものとの関係を述べているわけであります。思想というのは頭の中で考えたこと。人間は、頭で考えた事と自分のやる事はだいたい一致するもんだという錯覚に陥りがちであります。しかし寝床の中で朝、早起きしたいというふうに念願していても早起きはできない。自分の体を動かして立ち上がらないと起きたことにならない。だから明日は早起きしようと思って、頭の中でいくら焦っていても翌日になると起きられない。これは別問題。まったく別問題。

そういう点では、行いと頭の動きとは、一面から考えると別だ、というふうな考え方がある。ただ一方、立場を変えて考えてみると、人間の考える範囲の事しか実行できないという面もある。それから自分はいくら頭がいいから無限に問題が考えられると自信を持っていても、その人がどの程度の事をやれるかという範囲を超えて、頭でものを考えることが難しいという問題もある。だからその点では、ものを考えるという事と、実際ににやる事との相互関係を述べているという点で、非常に面白い思想という事になるわけであります。

法演禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この言葉を重視し考えてみる必要がある。行いと思想とが一致するという事を念願にして、朝となく夜となくこの事を考え、朝に夕べに常にこれを実行して、こういう重大な問題を考えずに浮かれて、あちこちへ行ったりという状態で、何となくその日その日を送ってしまう事があってはならない。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ところがそういう理論の不得意な人で、実際問題の処理が非常にうまい人がある。ただ、そういう実際の処理の場面だけで用が足りるかというと、どうもそうもいかない面がある。というのは個々の場面で勘を働かして適当に処理するという能力は非常に優れておるけれども、人に教えることができない。どういうふうにこの仕事をやったらこの仕事がうまくいくかというようなことを説明することができない。

「それは経験だから」というふうなことになると、各人が苦心惨憺して時間をかけて覚えるしか手がないという事になると、組織の面で人に教えていくという事に関しては、中々うまくいかない面があるわけであります。そうしてみると、総論も大事だけれど各論も大事だ。各論も大事だけれど総論も大事だ。両方兼ね具えておると言うのが仏道の行き方。だからそういう点では、基本的な理論もしっかり勉強しておらなければならんけれども、個々の日常生活においてどういう適用をしたらいいかというふうなことも十分承知しておく事が仏道の面では大切という事が言えるわけであります。

その点では、総論が立派だという事は物を入れる箱が立派だという事、外側の箱がじつに立派にできておるけれども中が何もないという場合、これも困るわけです。ところが中身だけは十分具えているけど、外側の箱がなくて中身が散らばっておって整理がつかないと、これも困るわけです。そういう点では、総論と各論と両方兼ね具えておるという事が、我々の日常生活においてもかなり大事だというふうな問題があろうかと思うわけであります。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-