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正法眼蔵 大悟 19

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

悟りを得た後、様々な思いを起こし、様々の迷いを持つと言う事も、悟りの中における迷いと言う捉え方も出来る。確かに迷っているけれども、やはり悟りの中の一部でしかないと言う理解も出来る。そういう点では、我々の頭というものは様々に混乱して、百の考え千の考え方が頭の中に充満してどうにもならないと言う事があったとしても、それもまた悟りであろう。真実と一体になった姿であろう。

考えが二つに分かれて、どちらをとったらいいか解からないという言葉を使っているけれども、その以前にたった一つの澄み切った悟りの世界と言うものがあったわけではない。昨日の自分というのは、確かにあったという事は頭の中では考える事が出来るけれども、もし昨日の立場にたつならば、今の自分自身と言うのは二番目の自分でしかないと言う関係に他ならない。

現在の瞬間において悟っているという事は、昨日の状態では悟ってはいなかったという事ではない。今は今でしかない、昨日は昨日でしかない。今の瞬間と言うものが実は永遠の意味を持っているのである。だから、いま初めて得たと言う性格のものではない。この様に釈尊の教えを学んでいくべきである。したがって髪黒々とした若者の段階における悟りもあれば、白髪の老人となった段階における悟りもあるのである。

             「正法眼蔵大悟」
              1224年旧暦春1月27日
              観音導利院興宝寺にて衆僧に説示した
            
※西嶋先生解説 
以上が「大悟」の巻です。悟る(真実を得る)という事がどういう事かという事を説かれた巻であります。ここで説かれていることというのは、我々が常識的に悟りとか迷いとかという事で理解しておる内容とだいぶ違うわけです。ただこういう捉え方をしないと仏道というものはわかってこない。

悟りと言うものが別にあって、一所懸命坐禅の修行をすると、そのうち電気が突然パッと点いた様にわかって、それから以後は、酒を飲んでも酔っ払わない、異性に眼もくれない、と言うふうな事はあり得ないということ、これがこの「大悟」の巻で説かれておると。そういう点では、悟りというようなものを頭において「わしは悟ったからお前たちとは違う」というふうなことを言わないことが仏道だ。

ところがそういう説き方というのはわりあい少ない。道元禅師はただ明らかに、悟りというものは一般に考えられておるようなものじゃなくて、一般に「まだ悟れない、まだ悟れない」という事でカリカリして焦っておるというふうなことは仏道修行でも何でもない、という事を言っておられるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は先生のご本「仏教――第三の世界観」とか「サラリ-マンのための坐禅入門」など拝読して、いろんな方の本を読んでみましたが先生のが一番よくわかるんです。とにかくそういう実感があるんですね。どうしてだろうかと考えて見ると、先生は宗教を職業としない、いわゆる経済界の人だからですか。

先生
まあ、私は社会生活(在家)が長かったですよね。私の本がよくわかるという事については、仏教そのものにそういう性格があると思います。つまり日常生活の事を取り上げて論議している訳ですから。その点では、我々が日常生活で誰でもが感じる事、考える事が仏教の教えとなって文字になっている訳ですよ。

仏教の思想というのは本来がそう言うものだと思います。だから「正法眼蔵」をずっと読んでみましても、道元禅師ご自身も自分の生活の中に出て来なかった事は言っておられないと思います。

つまり、昔中国の僧侶の人が書いた色々な本を読んだ訳ですけれども、その中から自分の生活の中で経験した事を引用して来て解説しておられる、そういう面があると思います。だからそう言う点では、仏教そのものが「日常生活をどうやって生きるか」と言う事に尽きるという面があると思います。


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正法眼蔵 大悟 18

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

しかも仰山禅師の回答が「悟りと言うものはないわけではないけれども、いくら悟ったといってみたところで過去の事も心配になる、未来の事も心配になると言うのが実情だ」と言われたということは、過去の事を心配し、未来の事を心配するのも、悟りの中の出来事だと言われているのである。

ここで仰山禅師が、自分の考えが二つに分かれてどっちをとったらいいかわからないような状態であると言っておられるけれども、そういう状態もまた悟りに変わると言っているのか、またはそう言う状態が悟りを得た状態だと言っているのか、あるいは悟りと言うものがわが身にすでに具わっていると言っている意味にも解釈できる。

ここで「悟りになる」とか「悟りが来る」とか言っているけれども、いずれも真実と一体になった我々自身の状態を言っているに過ぎない。この言葉の意味は、考え方が二つに分かれてどちらをとったらいいか解からないと言う様な状態を残念に思っている、と言う表現である。しかし、実はそんな判断と言うものは、自分自身の勝手な反省であって、自分の頭が二つの考え方に分かれて、どちらをしたらいいかと言う様な状態そのものも、本来は現実にはないと言う事が実態であると言う事を言っておられるに他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問     
「万葉集」なんか読みますと、相聞という男女関係の歌を詠んだのが一番いいですね。挽歌とか雑歌とかいろいろと分類がある中でも相聞歌が一番、まあ少なくとも私には訴えるものがあるんでありますがね。恋愛を生きがいにしてきた人が過去多かったんでしょうね。

先生
どうかなあ、そうも言い切れないだろう。というのは、恋愛を非常に尊重し始めたのは、やはり西洋文明の一つの影響があると思いますよ。それで、そういうものを尊重する時代のきっかけは,やっぱり近世のルネッサンス以降ですよね。ルネッサンス以降なぜそういう事を尊重するようになったかと言えば、やっぱり生産力が上がったからですよ。人間が飲み食いをそう心配しなくても生きていけるようになった時代以降は、それ以上のゆとりが出てきたという事であってね。

だからそういう点では、人間が少しましになった、まともになったという事の表れだというふうに見てもいいわけです。人間の歴史ってのはそういうもんですよ。だからルネッサンスでああいう沢山の絵画や彫刻が生まれたというふうなことも、そういう生産力が上がった、経済生活が向上したという事が裏にあるわけだし、そういう経済生活を背景にして、人間の愛情問題もある程度自由に行えるようになったという事である。

ただそれがもう100パ-セント全部許されるようになったかというと、どうもそうはいかないし、今日の状態でもまだそこまではいっていない。日本の国なんかだいぶいい方には来ているけれども、そうかといって、東南アジアで同じような人間が日本の国民と同じような境遇に置かれているかというと、中々そうはいかない。

私の独り言。
女、子供が泣いている様な国は決して立派な国ではありません。そういう目で世界の国々を見る事はとても大切なことです、と先生に教えていただきました。


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正法眼蔵 大悟 17

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものが必要でありましょうか」と言う質問は「この世の中に悟りなんてものはあるはずがない」と言っているわけではないし「悟りというものがあるからしっかり修行して早くつかめ」と言う事を言っているわけでもない。「いつか悟りがやってくるから、気長に待ちなさい」と言っているわけもないし「そういうもののご厄介になっているかどうか」という事を聞かれている。

※西嶋先生解説
そのことは、悟りというものは常に我々と一体になっている。ただそのことに気づくか気づかないかという事が問題である。そういう点では我々と悟りとが一体になっているという仏教の基本原則が頭に入っていれば、悟りというふうなもののご厄介になるとか、ならんとかという問題は起きてこないという事を言っておられる。

道元禅師の注釈に戻ります。
別の言葉でこれを表現してみるならば「現在の瞬間に生きて、生き生きと行動している人が得た悟りとは一体どの様にして得られたのか」と言う問いかけをしていると理解する事が出来る。「悟った」という表現を仮に使ったとすると「普段は悟りがなくて、やっとつかんだ」と言う意味にとれる。

「悟りがどこかよそからやって来た」と言う言葉を使うならば、「そのやって来た悟りというものは、普段は一体どこにあったんだ」と言う疑問がどうしてもわいてくる。そしてまた「自分が悟りと一体になった」と言うならば「そこで悟りと言うものが始まった」と言う解釈も出来ない事もない。したって、今述べたような様々な誤解を招く言葉を使わずに、またそのような実態でもないけれども、悟りの本当の実態というものを表現する場合には「悟りと言うもののご厄介になっているかどうか」と言うように表現するのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生のお話で、四諦ですね、四つの考えを重ね合わすっていう事は、私なりに四諦論を理解すると、最初やっぱり一つの理想とか願望とかを持つ、それで現実をよく見つめ、願望なら願望に対して一所懸命行動する。ただその願いにしても、現実にしても、行動にしても、それは本当の願いであり、本当に現実がよくわかり、正しい行動をするために坐禅があるというのが、この四つを重ね合わすという事でしょうか。

先生
はい、そういう考え方ですね。

質問
講義から離れるんですが・・・。愛欲の反対は憎しみですか、憎悪ですか。

先生
憎悪ですね。

質問
そうなってきますと、いわゆる恋愛なり、まあ愛欲でもいい、それの仏道的な考え方は、どっちにも片寄らずに、いわばシラケタような状態ですね。ですから仏道に関する限り、恋愛なんてものは、これは気違い沙汰だと、こういうことになりますよね。

先生
いや、そんなことじゃないね。それで愛と憎しみというのは、これは人間の生理現象と密接な関係があるんです。どういうものと関係があるかというと、自律神経と密接な関係がある。それで憎しみというのは交感神経が強くなった時に現れる現象、それから愛というのは副交感神経が強くなった時に現れる現象。だから人間のあり方というのは、両方の力がバランスしておる時が最も望ましい状態と、こういう事になるわけです。

だから愛情がなくなるという事が狙いではないけれども、それと同時に、愛情だけで人間が正しい状態が保たれるかというと、そうはいかない。だから裏側の力と表面の力と両方がバランスしているときが人間の最も健全な行動のとれる時。だから愛情も必要だけども、その反対のブレ-キも必要だというのが仏教の主張ですよ。

質問
ですから特に恋愛なんてことは考えられないわけですね、仏道では。

先生
そんなことはない。というのは、我々人間がなぜ今日まで生存が続いているかと言えば愛情があるからです。愛欲があるからですよ。愛情なしに人類の存続なんてことはあり得ない。
                        

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正法眼蔵 大悟 16

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものを必要としますか」という弟子の質問についても静かに参究し、従来の考え方と言うものを頭を切り換えて十分に考えてみる必要がある。

最近、大宋国において頭をまるめて外見だけは仏道修行をしている人が沢山いるけれども、その人々が言うには「悟る事が目的であってそれ以外に目的はない」と言う。この様に言って、そのうちに悟る事が出来るだろうと空しく待っている。しかしそういう人々の様子を見ていると、釈尊の恵みというものを十分に受けて、幸福な生涯を送っているとは到底考えられない。「まだ悟れない、まだ悟れない」と言う事であせりにあせっているに過ぎない。

なぜそういうふうな事情が出てくるかと言えば、仏道の真実をつかんだ人々に教えを請うて仏道修行をすべきなのに、それをやらずにうかうかと時間を過ごしているからである。そういう態度では、仮に非常に優れた人が現れて、真実をつかみ、そのことをこれらの人々に説いたとしても、やはりこれらの人々は苦しみの世界から脱け出して真実の世界に入る事はできないであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
四諦論について私の理解を申し上げてよろしいでしょうか。世の中には両方の極端があります。右と左、生と死という問題もあります。会社で言えば繁栄と倒産、その他いろいろありますね。それが苦諦、集諦で、そういうどちらでもないんだな、どっちも否定しますね、そうすると真ん中の滅諦になる。いわゆる調和ですよ、バランス、あるいはハ-モニ-、まあ芸術であれば、それが美であり、真であるわけだ。

そして今度は道諦というのは、それの進行形だと思うね、行動だと思う。それを姿に現したのが、シンボル化したものがつまり坐禅だな。それは誰も否定できませんよ。もっともバランスのとれた右にも左にも寄らずですね。だからご本尊にして釈迦の坐禅像を拝むという事は当を得たことであり、それに従ってただ実践あるのみと。

それでいろんな例として、とにかく禅宗の坊さんは長生きしてますね。坐禅している坊さんたちは。これはすなわち健康生活をやって来ているからじゃないかと思うんですね。その反対にかわいそうなのはビジネスマンだなあ。マネジャー病なんかで早くどんどん死んでいくんだなあ(笑)。贅沢して。政治家もありましょう。考えてみると、人間の体に、あるいは職業的に適したのは、やはり僧院生活であり坐禅の姿であると、私の四諦論の考え方ですが、どういうもんでしょうね。

先生
その前半の方の考え方はまあ当たっていると思いますよ。ただ後の方は、長生きすることだけが人生の目的かどうか、これは考えてみなきゃならん。短かろうと長かろうと、人生は人生でそれぞれ貴重な意味を持っているわけですよ。それは人間の思惑で延ばせない。だから短い人生も長い人生も価値は全部同じという事は言えるわけです。長く生きたけれども、世の中に大変迷惑を与えて、「ああ、やっと向こうへ行ったか」と思われるような人だっていないとは言えない。

そうすると長生きしたことが常に意味があるかどうか。その辺は中々問題が複雑なわけでね。そうすると各人が与えられた人生をいかに生きるかという事に尽きると思う。だから比較の問題で長いのがよくて短いのがだめだというふうなことはどうにもならないんじゃないかという気がするんですよ。

極端な例をいえば戦争中に飛行機に乗って行って死んだ人はいくらもいるわけですよ。で、ああいう生き方に対して「犬死にだ」なんてことは絶対に言えないね。やっぱりあの時代においてああいう生き方をして、ああいう死に方をしたという事は非常に貴重な人間の生き方ですよ。そういう点では長く生きることだけが意味のあることだとはなかなか言い切れない。だから各人は各人の人生があって、その各人の与えられた人生を100パ-セント生き抜くという事が一番意味のあることで、長いとか短いとかという事はそう大きな意味はない。そういう事が言えるんじゃないかという気がします。

確かに、心掛けがいいと長生きしますけれどね。だけども、それが価値の基準ではないという事も言えるかもしれない。


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正法眼蔵 大悟 15

京兆の米胡禅師が弟子を仰山慧寂禅師の所へ差し向けて質問させた。

弟子問う:現在の瞬間に徹して着実に生きている人も、やはり悟りというものが必要でありましょうか。仰山慧寂禅師言う:悟った、仏道わ分かったと言う事実がないわけではない。しかし、仏道と言うものがわかったとしても、自分の日常生活においては、過去の事をくよくよ考えたり、まだ来ない未来に対してそわそわしたりと言う事がないわけではない。そういうことを避けたいと思っても、どうしてもそういう事もあるというのが現状だ。

弟子は米胡禅師の許へ帰ってこの言葉を示した。米胡禅師はなるほど、さすが仰山禅師だ、まさに言うべき事を言われたとこの言葉を肯定された。

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師が注釈されます。
ここに言う現在の瞬間とは、一人一人の現在の瞬間を言っているのである。我々の日常生活を考えてみるならば、過去の事を考えて「あの時ああすればよかった、こうすればよかった」と百万遍考える事もあるし、あるいは将来のまだ来ていない時間の問題を考えて、「今に見ていろ俺だって」と言う様な事で張り切っている場合も幾らもある。

もちろん現在の瞬間というものを考えている場合もあるけれども、そういう様々な事態というものが、千あり万あろうとも、それらはいずれも現在の瞬間においてである。現在の瞬間以外に我々の人生はない。現在の瞬間以外に我々の生きる事の出来る時間はない。ある場合にはものをしっかりと見つめているという現在もあれば、様々のにおいをかいでいるという現在もある。したがって、我々がものを見たり音を聞いたり、あるいは一所懸命生きたりと言うのはいずれも現在の瞬間でしかない。



               ―西嶋先生の話―
     --つづき

「正法眼蔵」を読む事と坐禅をする事と、どちらが大切かと言うと前回、話した様に両方が大切と言える、と同時に特にそのうちどちらが大切かと言う事になりますと、坐禅をする事の方がなお大切だと言える。その事を道元禅師は、「只管打坐」と言う言葉で表現されたと言う事ができるわけです。

「正法眼蔵」生死の巻に、今の問題を非常に分かり易い言葉で述べられた文章があります。自分の体、自分の心をまず坐禅と言う形で、「仏の家」の中に投げ込んでしまう。すると、仏の方から影響が現れて、自然に「自分が何をしなければならないか」と言う事がわかって来る。だから、その教えに従って日常生活をしていくならば、別にこれと言う努力をしなくても、気持ちの上であれこれと思い悩まなくても、生き死にの問題を離れて自然に「仏」になってしまう。

したがって、「誰がその様な状態になった場合に、あれこれと心配事や悩みを心に留めておく必要があろう」と書かれています。仏道修行というのはこれが基本です。坐禅を通して自分の体を正しい状態に入れてしまう。そうすると、その正しい体の状態、正しい心の状態が「日常生活で何をしなければならないか」と言う事を自然に教えてくれる。そういう形で坐禅をやった時に、生まれて来るものを「智慧」と言うわけです。「智慧」とは、頭がいいとか悪いとかと言うのではなしに、正しい判断の基準です。

我々の日常生活の中で何が大切かと言えば、正しい判断が非常に大切です。我々の日常生活でいつも自分の行く道が二股に分かれている。どっちに行ったらいいかと言う事は考えていても結論は出て来ない。その場その場で「あ、これは右に行くべきだ、これは左に行くべきだ」と言う事で、瞬間瞬間に決断がつかないと、我々の日常生活は行ったり来たりして、努力ばかりしているけれども、結果がサッパリ良くないという事になる恐れがあるわけです。

そういう状態から抜け出すためにやるのが「仏道修行」。そういう状態から抜け出すためにやるのが「坐禅」と、こう言う事が言えるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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