FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 眼睛 7

洞山良价禅師と雲巌曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます

雲巌禅師が「眼の玉を得たいという境地そのものが眼の玉ではなかろうか」と述べられたけれども、その言葉の意味は、仏道におけるものの見方が仏道におけるものの見方自身を得たいと希っている状態である。

そのことは仏道におけるものの見方がそのまま現にあるという事を表現するためであり、現に水が眼の前にあり川として流れているという現実の情景を意味するのであり、現に眼の前に山が連なっているという情景を意味するのである。

その様な情景というものは、異類中行(自分自身が独自な境地で周囲の状況をものともせずに実践していく態度)でもあるし、同類中生(自分と同じような考え方の人々の間で協調して生きていく)という態度でもある。
  
※西嶋先生解説
「異類中行」と「同類中生」というのは、両方が対立した言葉であります。人間の生き方も、周囲に逆らって生きなければならない場合もあるし、周囲に従って平和に生きていかなければならない場合がある。人間の生き方には両方ある。ところが人によっては独立独歩だけを念願として周囲と常に摩擦を起こして居る生き方もあれば、何でもかんでも他人のご意見が大事という事で、自分の主張を述べないで、周囲の流れについていくという生き方もあるわけですあります。

仏道の立場からするならば、そういう両方の立場、生き方というものが同時になければならない。片っぽだけで我々の人生というものの用は足りない。このことは右翼思想だけでも用は足りないし、左翼思想だけでも用が足りないと言う事でもあるわけです。だから右翼思想が持っている意味がどの程度のものか、左翼思想が持っている意味がどの程度のものかという事がはっきりわかって来るという事が仏道修行の目標という事にもなるわけです。


  
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は最初、在家でもそれなりに努力をすれば相当いけると、後半になると出家して専門的にやって厳しく戒律を守らなければ駄目だと。それは道元禅師の思想が変わられた訳ですか。

先生
そう。道元禅師の書かれたものでは、確かにそういう出家についての考え方の変化があるという事は事実です。ただ今日の問題として、出家しなくても仏道がわかるかどうかと言う問題については、出家しなくても仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思う。出家しなくても仏道がわかるためには何が必要かと言うと、毎日坐禅をやるかやらないかだけですよ。

出家する、出家しないと言う問題よりも、毎日坐禅がやれるか、やれないかだけで、仏道がわかったか、わからんかが決まる訳です。今日の様に経済生活が発達して来ると、人間が余暇を持つ事が出来る様になった訳ですよ。道元禅師の時代は生産性が低いから、よほど特別な人ではない限り寺院に入って坐禅を専門にやると言う事が出来なかった。

今日は生産力が発達してきたから、誰でも一日のうちのある程度の時間は余暇として自分の好きな様に使える時代がやっと来たわけです。だからそう言う時代には、そう言う余暇を利用して坐禅をやれば、在家の人でも立派に仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思います。


ご訪問ありがとうございます。クリックお願いできますか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

正法眼蔵 眼睛 6

洞山良价禅師と雲巌曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巌禅師が、「お前は仏道にかなった眼がある。一体どこに向かってその眼をつけておるのか」と言われた言葉の意味は、仏道におけるものの見方が具わっているという事を意味している。

この様な意味で雲巌禅師は「一体どっちに向けてつけているんだ」と言われたのであるし、洞山禅師は「自分にはとても仏道にかなったものの見方はありません」と言われたのである。

洞山禅師は雲巌禅師から「一体どっちに向けてつけているんだ」と言われた際に、その後、何も言葉を述べなかった。何も言葉を述べなかったことの意味は、ただぼんやりとしてどう答えていいかわからなかったという事ではなしに、自分では自分なりにはっきりとした理解がたっていればこそ、言葉では何も述べなかったという事が汲み取れる。

雲巌禅師がさらに「お前はいま仏道におけるものの見方を得たいと自分に頼んだけれども、その仏道におけるものの見方を願い出る境地というものが、仏道の立場におけるものの見方なのかどうか答えてみろ」と言われた。

この言葉は何とかして仏道におけるものの見方を得たいという切実な態度が仏道における見方を瞬きしてはっきりと自分のものにする時点を意味している。

そしてまたそのような態度は「ものの見方」というふうな抽象的な言葉をすっかり問題にしなくなって、現に目の前にある事物をありのままに眺めているという事でもある。



              ―西島先生の話―

    --つづき

腰骨と言うのは人間の体の重心。だから腰骨が正しくなっているという事、背骨も正しくなっているし、首の骨も正しくなっているし、体が左右に傾いていないという事にも繋がる訳です。腰骨の状態を正しく保つ事が、体全体が健康になるという事と関係ある訳です。そして自分が健康であるという事と、仏道がわかるという事とは同じ事。

仏教以外の宗教では、宗教と言うのは大体心の問題だ、魂の問題だと言う。だから体が少しぐらいおかしくっても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方がある訳です。しかし仏教ではそんな事は言わない。

人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけです。だからそういう点では「仏道の真実を何によって得るか」と言うと、一面から言うならば体で掴むと言う事がある訳です。

坐禅をやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行だ、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけです。道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけです。


ご訪問ありがとうございます。クリックお願いできますか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村  

正法眼蔵 眼睛 5

洞山良价禅師と雲巌曇晟禅師の問答について道元禅師が注釈されます.

洞山禅師と雲巌禅師との間に行われた問答から考えてくるならば、どこから見てもはっきり見えるような形で仏道を学ぶという事は、この洞山禅師の様に仏道における眼睛(ものの見方)を得たいとお願いする事である。

坐禅堂で坐禅の修行をし、法堂における正式の説法を拝聴し、師匠の個室に出向いて細かい質問をする事が仏道におけるものの見方を師匠にお願いして自分のものにするという事を意味している。

一般的に言うならば、沢山の僧侶と行動を同じにして師匠の教えを一所懸命に勉強したり、沢山の僧侶と同じように師匠の教えを聞くために集まるという日常の仏道修行というものが、そのまま自然に仏道の見方そのものを自分のものとしていることに他ならない。

我々が仏道修行をしている事態そのものが「眼睛」と呼ばれるものであって、仏道修行におけるものの見方を自分で持っているとか、周囲の環境の影響で得られたという考え方が基本的なものではないという事がはっきりしている。

この問答では洞山禅師が師匠である雲巌禅師に対して「何とかして仏道におけるものの見方を得たいと教えを請う事態がすでにあった。この様な事態から考えていくならば、自分自身に依頼しているという形で自分自身にうぬぼれている場合には、人から教えを受けたいと頼まれる状態にならない。

また周囲の環境だけを重要視して、自主的な動きがない場合には、人にお願いして何とか教えを受けたいという積極的な態度がとれない。

雲巌禅師は「お前の持っている眼は誰にやってしまったのか」と言われた。その点では、自分自身がはっきりと眼を持って自分自身の立場に安住している事態もあれば、また誰かに自分の眼をやってしまうという態度をとる場合もある。

洞山禅師は「自分は師匠にものの見方をお与えくださいとお願いするようであるから、自分はとても仏道にかなったものの見方はありません」と言った。

この様な率直な態度で述べた態度そのものが、仏道の立場におけるものの見方が自分自身でその態度を表現している事態に他ならない。洞山禅師が「自分にはとても仏道にかなったものの見方はありません」といった言葉が現実に述べられたという事態を心を落ち着けて理論的に考え勉強してみるべきである。



              ―西嶋先生の話―

仏教ではよく「悟る」という事を言うわけです。悟ると言う言葉の意味は、仏教の真実がわかるという事になる訳です。この悟ると言う問題に関連して、仏教というのは心で悟るのか、体で悟るのかと言う問題もある訳です。元来仏教は体と心とが一つのものと言う考え方が基本にあって、その考え方を「物心一如」と言う。

したって理論的に言うならば、仏教は体でも悟るし心でも悟るんだ、体で悟る事が心で悟る事だし、心で悟る事が体で悟る事だという事になる訳です。ただ坐禅をやっての実感から言うと、体で悟ると言う感じの方が強いと言う問題がある訳です。ですから道元禅師も「正法眼蔵」の中でよく「体で悟る」と言う事を言っておられるわけです。

そこで体で悟ると言うのはどう言う事かと言うと、坐禅を表現する言葉として「正身端坐」という言葉を道元禅師が使っています。正身端坐というのは体を正しくしてきちんと坐るという事です。だから坐禅というは、体を正しくしてきちんと坐る事。そして体を正しくした時は自分の体全体が正しくなった時、それが坐禅であり悟りだと、そういう考え方をされているわけです。

毎日自分の体を正しくしているという事は、自分の体を毎日健康に保っているという事。また、そういう生活を毎日続けていくならば、人間の体は無限に健康の方向に向かって進んでいくと、そう言う問題がある訳です。坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしている事がかなり大事な問題になるわけです。
                             つづく--


ご訪問ありがとうございます。クリックお願いできますか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

正法眼蔵 眼睛 4

洞山良价禅師が雲巌曇晟禅師の教団で仏道修行をしていたときの問答です。

洞山禅師言う。
和尚さんにお願いして、仏道におけるものの見方というものを得たいものです。

雲巌禅師言う。
お前自身の眼は一体誰にやってしまったのか。

洞山禅師言う。
いえいえ、私は仏道修行がまだ未熟ですから、それなりの眼というものを持ち合わせていません。

雲巌禅師言う。
いや、お前は確かに眼を持っている、仏道修行によって得られるところの眼をはっきりと持っている。一体どっちに向けてつけているんだ。

洞山禅師は何も言わなかった。

雲巌禅師言う。
お前はいま仏道におけるものの見方を得たいと自分に頼んだけれども、その仏道におけるものの見方を得たいと願い出る境地というものが仏道の立場におけるものの見方なのかどうか答えてみろ。

洞山禅師言う。
自分が仏道におけるものの見方を持っていないと自覚していればこそ、それをいただきたいとお願いしたわけですから、その様にものの見方を師匠に願う態度というものは、まだ仏道におけるものの見方が具わっていない証拠です。

そこで雲巌曇師は洞山禅師の答えを叱った。


 
              ―西嶋先生の話―

我々が仏教を勉強する事と一般の社会生活とがどう言う関係にあるかと言う問題を考えて見たいと思います。何故こういう問題を取り上げるかと言うと「正法眼蔵」では「仏教を勉強するためには名誉や利得から離れなければならない」という教えがある訳です。

我々が日常生活を送っている場合に、名誉を得る事は非常に楽しい事、お金が儲かる事も非常に楽しい事です。日常生活の中で名誉を得た時、お金儲けが出来た時に幸福と感じると言う問題がある訳です。

そうすると、我々の日常生活における重要な部分である名誉や利得を離れて、人間が果たして幸福であり得るかどうかという問題が出て来るわけです。そういう問題について、仏教でどう考えているかという事を考えてみたいと思います。
  
一般的に言いまして、我々の社会生活が「名誉と利得」を中心にして行われていると言う事、これは疑問の余地のないところではないかと思います。我々の社会生活の一つの価値の基準として「名誉」と言うものがある。つまり日常生活をやっていく上において、人から褒められたい、人から尊敬されたい、沢山の人を支配して使ってみたいと言う事です。

それからもう一つ、我々の社会生活の一つの価値の基準として「利得」がある。我々の社会生活においては、お金と言う非常に結構なものがある。お金と言うものは沢山貯まっても決して邪魔にはならない。お金があると自分の欲しいものがかなりの程度までは手に入るという事があります。

だから、お金は我々の社会生活においては非常に大事な部分を占めていると、こういう事が言える訳です。一般的に言いまして、我々の社会生活が「名誉と利得」を中心にして行われていると言う事、これは疑問の余地のないところではないかと思います。

ある人は褒められたいという事に熱心になるわけです。そしてある程度人から褒められ自分も満足がいくと、人から褒められるだけではつまらないと感じて来る。人に褒められる事は結構だが、そのために損をしている、中々財産が出来ない。

あるいは商売の方でマイナスが出るという事になると、ある時点で人に褒められているだけではつまらない、お金が儲かった方がいいと言う考え方も出て来る。そうすると考え方も変わってくる。今度は人に褒められる事なんかどうでもいい、名誉なんかどうでもいい、恥じも外聞もなくお金儲けがしたいと、こういう動きもある訳です。

そうすると今度はお金儲けに一所懸命になって、目的が達成されてかなりお金が儲かってくると「あいつは恥も外聞もなく金を儲けた」と言われるのが嫌でまた人に褒められたいと思う、そうするとまた逆方向の「名誉」に動く。たとえば経済界で活躍して財産的には非常に恵まれた人がそのうちに勲章が欲しくなる。そうすると、今迄儲けたお金を使って今度は勲章をもらおうという考え方でまた名誉の方向に行く。

仏道はどういう立場かと言うと、名誉にも寄り過ぎない、利得にも寄り過ぎないと言う線があると言う考え方をする訳です。その両方から離れた世界が「法の世界」です。名誉、利得が本当の基準ではない。その両極端から離れた真ん中に「法の世界」がある。

仏道で「中道」と言うのは、こういう二つの価値の真ん中に本当の拠り所になる基準があるという考え方が基礎にある訳です。こういう考え方からしますと、この「法の世界」の中で生きると言うのが仏道修行の基本になる訳です。法の中における日常生活、社会的な努力と言うものが仏道の世界だと、こういう理解が出来るわけです。


ご訪問ありがとうございます。クリックお願いできますか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

正法眼蔵 眼睛 3

天童如浄禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。

ここで天童如浄禅師が言う自分とは、それはまさに仏道における真実を得た人という事を意味している。この様に考えてくると、仏道の悟りを得たという事が特に必要なわけでもないし悟らなくてもいいという事でもない。何かが現れてくる前とか、現れてきた後とかという、何かが現れてくるという事が大事なのではない。

現在のこの場所において釈尊が持っておられた「ものの見方」と同じ見方が出来るかどうかという事が仏(真実を得た人)であるか仏でないかの分かれ目である。坐禅をやった経験から持つことのできた、ありのままに見る事の出来る力が、「仏」と呼ばれるものの実体である。

周囲の状況が自分を試していると表現されているけれども、試されている状況とはどういう事かというならば、ものの見方がはっきりしていることでもあるし、時によっては目が曇っていることでもあるし、また時によっては目が生き生きとしているという事でもある。

周囲の状況をもう一度よく見てみたと言っているのは、お互いに見合うという事でもある。お互いに出会うとか、お互いによく見ることが出来る事態とは、眼の玉が稲妻のように光って何でも見抜いてしまうという状況でもある。一般論に従って体が大きいという事が大事で、眼はどうでもいいと考えるべきではない。

昔から今日に至るまで、長年修行した人で途轍もない大家だと考えられている人がたくさんいるけれども、その様な人々も体の大きいことが大切で、眼がよくきくきかないはどうでもいい事だと理解している場合が多い。なぜそのようなことが起こるかというと、仏道修行によって得られる「ものの見方」がはっきりと具わっていないからである。

※西嶋先生解説。
ですから仏道修行によって得られる非常に大切なものはものが見えてくるということ。知識がある、理解が進むという事よりも、直観的に本物かニセ物かの見方がつくという能力、これを「眼睛」といっているわけです。仏道修行をする以上はそうした「ものの見方」というものを身につけなければならないという事をここで述べているわけです。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はどんな経路で、仏教を信じるようになられたのですか。

先生
私が仏教を信じるようになった一つの大きな原因は、自分の生活事実の中で理想主義的な努力の苦しさや無力さと言うものを嫌と言うほど知ったからです。人は誰でも年齢の小さい段階では、理想主義者である場合が多いのです。頭の中で考えられた理想「ああありたい・こうありたい」と言う願望は、常に現実の世界の中で実現するとは限らない。

むしろ理想と現実とは、常に食い違う事が常態であって、理想に忠実であろうとすればするほど、理想と現実との矛盾に悩みその修正に苦しまなければならない。たしかに理想を追い求めて努力する事は、人間を生き生きとさせ、いわゆる生き甲斐を感じさせる。しかし常に挫折し失敗する宿命を持った理想と言うものの追求に、人間は常に生命を賭けなければならないのだろうか。これが自分が長年にわたる子供っぽい努力の結果、理想主義哲学に対して懐いた疑問であった。

質問
そこで物質を尊重する現実主義と言うものが生まれてくるのではないんですか。

先生
普通一般には、物質を尊重する立場、別の言葉で言えば、唯物論の立場を現実主義と把える考え方がありますが、この把え方は仏教の立場からすると少し考えて見なければならない問題があるようです。物質は、あくまでも感覚で捉え得るものと言う一つの抽象概念であって、現実そのものではないんです。

質問
すると仏教で言う現実、言葉を変えて言えば「法」というのは、理想でもなく物質でもない、現実そのものと言う意味になるのですか。

先生
仏教における現実尊重と言う考え方は、理想に偏らず物質に偏らずと言う事です。それは中道と言う意味です。仏教は「法」と言う言葉によって、理想でもない、物質でもない本当の意味での現実世界を捉えています。そしてこの現実の世界「法」と言うものに対して絶対の信頼をおくのであります。


ご訪問ありがとうございます。クリックお願いできますか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村          

フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。毎日自宅で坐禅をし愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-