トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 身心学道 15

赤心片片――様々の思惑を待たない真心というものが瞬間瞬間に現れるという事はどういう事かというと、思惑を持たずに瞬間瞬間に一所懸命に何かをやるという時の心境は真心そのものである。

※西嶋先生解説
これは非常に我々にとって救いになる言葉で、人間は心掛けが大切だというようなことでまず心がけをよくしようと思うけれども、道元禅師はそんなことは言っておられない。瞬間瞬間に一所懸命にやっていれば最高の心境が持てると、こういうことを言っておられる。瞬間瞬間を一所懸命にやれば心はいつも真心になってしまう。真心以外の何ものでもない。

本文に戻ります。
それは一つの瞬間、二つの瞬間と言うふうに頭の中で数えた瞬間ではなく、いま、いま、いまと言う形で現れて来る瞬間瞬間の事を言っているのである。その様な瞬間瞬間における状態というものをたとえて見るならば、丸い、和やかな、落ち着いた状態というものであって、その和やかな状態と言うものは、丸い蓮の葉に似ているし丸い鏡のような状態の場合もある。

しかしそういう円満な状態だけが我々に与えられた瞬間だけではしに、非常に厳しい環境の中で非常に鋭い状況として瞬間と言うものが我々に与えられる場合もある。その尖り方は錐の先のように尖っている。非常にまろやかな落ち着いた状況と言うものも、我々の人生に与えられた瞬間瞬間であるし、錐の様に鋭い状況と言うものも我々の人生に与えられた瞬間瞬間である。その様な瞬間瞬間の人生を一所懸命に生きていくならば真心以外のものが現れるはずがない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師の筋の通った根本思想、いわばこれより横へ行ってはならないというお気持ちは各巻で出しておりますけれども、道元禅師自身はもう当然の事のように思って、脊椎なり、その中の髄まではここへさらけ出してしていないように私は考えられるんですけれども・・・。

先生
そのことは言葉で表現できないんですよ。だから道元禅師は隠して説かれなかったんじゃなくて、その後の言葉で表すことのできない部分は坐禅をやって味わうしかないよと、こういう事でしかないわけです。

質問
ああ、そうでございますか。いや、ほんとにこれはやっぱり坐り抜くより他に方法はないように思いますね。

先生
うん、そう。だから今言われた点ではそういう面があるんですよね。で、そういう思想が普通今日の時代思想では理解できないんですよね。図書館へ行って本読みゃ何でもわかるんだと、まだ書いてある本に巡り合わないからわからないだけの事だという理解が多いわけですけれども、仏教思想というのは、この世の中の真実で言葉では表現できないものがあるし、言葉では表現できないものに真実があるんだという主張ですから、その点では頭で何でも理解できるんだという立場とは少し違うわけです。

質問
それじゃやっぱり言語道断、心行所滅、というようなことに結局なるわけですか。

先生
うん。で、結局最終的には、足を組み、背骨を伸ばして坐っている状態そのものが真実なんだという主張ですから、難しいようでやさしいんですよ。もう本なんか一字も読めなくたって、足を組み、手を組みジーッと坐っていればと「あ、これか」という事でしかないわけです。

質問
どうもありがとうございました。私も一つ単純に日々やってみようと思います。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


正法眼蔵 身心学道 14

発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)に関しては、時間において起きる。そのうち機が熟してきたら起きますという事ではなくて起こそうと思えばいつでも起こせる。真実を知りたいという気持ちを起こしたまさにその瞬間においては、宇宙全体が真実を知りたいと言う気持ちに燃えている。

発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)によって周囲の環境の様子を一斉に変えてしまうと言う形には見えるけれども、環境が主体的な存在であって環境が我々が発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)を見守っている形のものでもない。環境の方でも片手を出してくれる、自分の方でも片手を出すと言う形で環境と自分とがしっかり握手した時に、発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)が生まれる。

その様な発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)の状況と言うものは、自分の考えと違った人が周囲に沢山いた場合でも、自分で決めた決断にはその決断に従って行動すると言う事である。

我々は地獄(非常に苦しい世界)、餓鬼(欲望に苛まされる世界)、畜生(欲望を得たいと思って動物のように荒れ狂う世界)、阿修羅(畜生の状態が高じて狂暴になって暴れる世界)というような境涯を次から次へと経ていくのであるが、仮に自分が地獄の境涯にいた場合でも発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)はできる。仮に自分が餓鬼の境涯にいて欲望に苦しめられている様な場面の中でも発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)はできる。

※西嶋先生解説
道元禅師は発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起す事)は、自分はもうちょっと頭がよければとか、自分はもうちょっと金を持っていればとかという環境がどうこうというふうな言い訳は通用しないという事を言っておられるわけであります。ですからこういう点では中々「正法眼蔵」の教えというのは厳しい。

こういう厳しい教えというのは人はあんまり好かない。もうちょっと優しいことを言ってくれて、「いや、お前、だらしがなくてもそれは人間当たり前なんだ。まあそう心配する必要はないよ」というふうに言ってくれれば「いやあ、助かった」という気がするわけだけれども、「正法眼蔵」はそういうことは言ってくれない。人間というものはやる気さえ起こせばいつでもやれるんだと、こういうことを言われる訳。ただ我々の人生というのはそういう面もあるという事、これは言えるわけであります。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ですからそういう立場から見ますと、人の一生について運が悪いとか運がいいとかという事をいうこと自体が、人生というものの理解について多少第三者的な立場から眺めているのではないか、むしろ自分自身が今どんな境遇におかれ、今何をしなければならないかという事について真剣に取り組んでいる限り、運がいいとか悪いとかという事を言っている余裕がないと、そういう風な問題が誰の人生にもあるんじゃないかと感ずるわけです。

沢木老師がよく提唱の時に、ご自分のことを表現されて「わしもやっとたくり上がってここまで来た」と、こういう表現をされたわけです。人生とはたくるものだ、決して一筋縄の単純なものではないと、そういう事が誰の人生についても言えるわけで、そういう点では仏教の立場からしますならば、自分の現状というものは必ず自分がつくっていると言わざるを得ないという事があろうかと思います。

この社会に生きている人というのは、誰でもが自分自身の与えられた境涯で精いっぱい生きている、それが人生。運がいいとか悪いとかという事は言えないという事が、仏教的な立場から見た人生の捉え方ではないかと、そういう気がするわけです。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


正法眼蔵 身心学道 13

発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす)という事は、日常生活におけるごく普通の生き死にの場面でこの発菩提心にめぐり合う場合がある。あるいは仏道修行が済んで非常に落ち着いた境地に入って後も、さらに真実を知りたいと言う気持ちを起こす場合もある。また、それ以外の場面でも、真実を知りたいと言う気持ちを起こす場合がある。つまり真実を知りたいと言う気持ちを起こすという事は、人生の中でいつでも起こり得る問題である。

真実を知りたいと言う気持ちを起こすという問題に関しては、どこの場所でなければならないと言う制約はない。それは環境が起こしてくれるものではなく、頭の働きに基づいて起こるという事でもない。それは真実を知りたいと言う気持ちが自然に起きて来るのである。また真実を知りたいと言う気持ちを起こすのである。

真実を知りたいと言う気持ちを起こすという事は、この世の中にすでにあるものだとか、本来ないものが出てくるのだとかという抽象的な理屈では捉える事ができない。真実を知りたいという気持ちを起こすという事は、たいていの場合は善だと考えているけれども、仏道では善悪を乗り越えた世界を問題にするから、善とか悪とかというものを乗り超えた問題である。

過去の行いが今日に結果を及ぼした場面において、真実を知りたいという気持ちが環境を頼りにして生まれてくるものでもない。神々や心理作用を持った生きものは、真実を知りたいという気持ちが得難いと一方的に決めつけるべきではない。



              ―西嶋先生の話―

今日は最初に人間の運、不運というものについて、仏教の立場からどう考えるかという事をちょっと申し述べておきたいと思います。結論的に申しますと、仏教の立場から言うならば人間に運がいいとか運が悪いとかという事はないという事が言えるわけです。なぜそういう事が言えるかというと、仏教の基本的な一つの考え方は原因・結果の考え方で一切を考えていくという立場があるわけです。

原因・結果の関係というのは別の言葉でいうならば、善因善果、悪因悪果という立場です。つまり善いことをすればいい結果があるし、悪いことをすれば悪い結果があるという事が仏教の基本原則です。したがって、この考え方を別の言葉で表現しますと、あまり感じのいい言葉ではないわけですが自業自得という言葉がある。この自業自得という言葉は聞いてあまり感じのいい言葉ではありませんが、明らかに仏教思想から生まれた言葉です。

その意味は自分のやった事が全部自分に降りかかってくると言う主張。ですから、人間が運がいいか運が悪いかという事は、結局自分が何をやったかによってすべてが決まるという事が仏教の基本的な考え方です。事実、人の一生というものを眺めてみますと、本人にしかわからない実に複雑な紆余屈折があり、また波乱万丈のものだ、それがどんな人の人生にも必ずあると、そいう言う事が言えようかと思うわけです。

                            つづく--


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


        

正法眼蔵 身心学道 12

仏教の立場からすると、物の世界も人間の世界も本質的には変わらない共通のものと言う捉え方があると同時に、行いというものに関連して捉えるならば、物の世界と人間の世界とは必ずしも同じではない。戸外の柱や燈籠と同じ様な状態で人間の生活が行われていると言う訳ではない。人間の生活は物とは違い裸足で走って仏道を勉強するのである。とんぼ返りを打って仏道を勉強するのである。このような事実に目をつけるのはいったい誰であろうか。

※西嶋先生解説
裸足で走るとんぼ返りを打つが何で仏道修行になるんだと言う疑問も出て来ると思うわけでありますが、仏道は体の鍛錬と関係がある訳であります。坐禅も殆んど動きのない形ではありますけれども、やはり体の鍛錬と言う面がある。腰骨を伸ばして姿勢を正していると言う事が坐禅の本質であって、その際には腰骨を正しくする筋肉が発達するし背骨を正しく保つ筋肉も発達する訳であります。ですから非常に動きの少ない修行法でありますが、一種の体育であると言えます。

仏道修行と言うのは単に坐禅だけでなしに、体を訓練する場合に仏道修行が必然的にそこに現れてくると言う問題があります。昔の武士は武芸によって一所懸命に自分を鍛錬し、それによって仏道を勉強していった。だから別の言葉では武道と言う言葉があり、それは武芸による仏道という事であります。マラソンの選手はマラソンのレ-スを完走するというだけでも、それに費やされる努力は大変なものです。よほどの鍛錬をしていないと、走りきれないと言う問題がある訳であります。

ですからそういう点では、今日行われているスボ-ツも仏道修行とかなり関係があると言える訳であります。その中で一番伝統的で、一番やりやすくて、しかも一番効果のあるのは「坐禅」だと言えます。その点では様々な仏道修行のやり方があると同時に、その中の代表的なものとして坐禅がある。

本文に戻ります。
その様な具体的な行動によって仏道を勉強していく状態の中では、自分自身が主体的に努力をして真実を得るという場面も勿論あるけれども、周囲の環境について行くという形で仏道を勉強する場合もある。その様な極めて自然な周囲の環境と一体になった生活を続けている場面で、ある時自分の周囲が非常に変わった様子で見え始める時がある。つまり本来自分が持っていた疑いや執着や迷いが一斉に何処かへ消えてしまう場面がある。

その場面において初めて、あらゆる方角に広がっている世界と言うものを勉強する事が出来るようになる。また城砦の東西南北に門がある事で、東西南北の方角が区別できる場面もあるけれども、門が一切ないと言う状況の方が東西南北がよくわかる場面もある。つまり人間のつくったものを一切排除したところに、本当の東西南北が現れてくると言う場面もある。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


正法眼蔵 身心学道 11

真実を学ぶというのはこの様な状態であるから、心というものとは一体何かという事を考えて見た場合に、心というものが独立して別にあるわけではない。垣根、壁、瓦、小石が現に目の前にあると言う事が心があると言う事の唯一の証拠である。仏教では三種類(欲界・色界・無色界)の世界が心だとか、宇宙(法界)が心と同じだというけれども、垣根、壁、瓦、小石というものが心だと捉えた方がより現実に適合する。

垣根、壁、瓦、小石と心とが一つだという立場は極めて現実的な人間の行いを中心にした世界だから、たとえば疎山匡仁禅師は咸通年号の以前には仏道の真実を会得したけれども、咸通年号以後にはその仏道を得たと言う境地も乗り越えてしまったと言われている。

これらはまさに泥にまみれ水に浸かっての努力であり、自分を拘束する何ものもないところで自分自身を縛っている姿である。その様な煩わしい状況の中で一所懸命に生きて行くのが仏道修行であり我々の日常生活の実態である。我々のこの六尺前後の小さな体も、一所懸命に仏道修行(坐禅)をし真実を得る事で価値あるものに変わるのである。

そしてその様な仏道修行をする事によって、様々な問題が一斉に解決する日にめぐり合う事もあるし、真実を得たと思い大いに自信を持っていたが、さらに修行をする事によってそういう自信もいらなくなってしまう時もある。その点ではごく些細な事の中で真実と一体になると言う状況もあり得る。




              ―西嶋先生の話―
    --つづき

この会のように○○会社さんのお陰で運営されている会というものもあるわけでありますが、今日の経済体制はどうしても企業中心の経済体制でありますから、仏教が盛んになるためにも、やはり企業と結びついた布教の仕方が不可欠なのではないか。その点ではこの会はそういう運動の一番最初の形だという事が言えると同時に、今後日本の国で仏教が盛んになっていくためためには、企業との結びつきによって、社員教育とか職場秩序の維持とかと言うものと関連して、仏教が取り上げられて説かれていくと、そういう形のものが発達してこないと、中々仏教が今日の時代に生きてこないんではないかという心配がある訳であります。

経済的な基礎の面から見ても、仏教と言うものが変わりつつあるのではないか、また変わっていかないと中々盛んにならないのではないか、とこういう心配があろうかと思う訳であります。

3・滅諦(行い)の立場
「正法眼蔵」が説いておる仏教は、日常生活と非常に密着しておる。仏教と言ってみても日常生活でどういう生活するかと言う事に尽きる。こういう考え方があるわけであります。ただ、明治維新以降日本で盛んに説かれてきた仏教は、心の問題を中心に説かれておりますから、実生活との関連が割合少ないのではないかと言えるわけであります。その点では、我々がやっておる仏道というのは、日常生活をどうやっていくかという事の基礎を仏道に求めておると、そういう面があろうかと思います。

4・道諦(坐禅)の立場
「正法眼蔵」が説いておる一番の究極は、仏道の中心は坐禅をやる事であると、こう言う主張があるわけであります。その点では、明治維新以降説かれた仏道の中では、坐禅ももちろん説かれてはおりますけれども、その中心的な問題としては説かれていない。ところが「正法眼蔵」の主張は、仏道の中心は坐禅という事が基本でありますから、その点でも、今後仏道が本当に盛んになるためにはやはり坐禅が盛んにならなければならいと、そういう事もあろうかと思います。

そういう点では、我々のやっている仏教、仏道というものが、明治維新以降続いてきた仏教とかなり性格が違うと言えると同時に、「正法眼蔵」を通じてそういう仏道がもう一度日本に生き返って来るという事が、日本のためにも、あるいは世界の思想の流れのためにも非常に大きな意味があると考えて差し支えないのではないかと思うわけであります。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-