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正法眼蔵 仏教 14

ここで玄沙師備禅師が「すべて必要ない」と言っておられるけれども、この言葉の意味は、必要がない、使わないと言う意味ではないし、そんなものは要らない、破棄してしまえばいいという意味でもない。たとえば達磨大師が遥々とインドから中国に来られた、まさにその行いによって説かれた教えの趣旨とは、あらゆる抽象的な教えを必要としない様な厳然たる事実であったに他ならない。

釈尊の教えの中に、三乗十二分教と言う抽象的な教えがないと主張している訳ではない。しかしながら、三乗十二分という主張というもの、抽象的な教えを全く必要としないような厳然たる事実があるという事をかすかにでも眺めるという事が必要である。その点では全く必要ないという性格を持っていればこそ、三乗十二分教は三乗十二分教としての意味があるのである。

※西嶋先生解説
そのことはどういうことかというと、抽象的な教えというものは現実そのものではないという事が理論としての価値であるという事。よく理論というものを軽蔑する場合には「実際だ、実際だ」という主張するわけ。また実際を軽蔑して、「理論だ、理論だ」という考え方もあるけれども、ここで説かれているのは、理論は理論としての価値があり、実際は実際としての価値がある。だから理論が価値を持っているのはなぜかというならば、現実というものを抽象的に見方を変えて説いているからに他ならない。

本文に戻ります。
この様に三乗十二分教と言うものを考えてくると、それは三乗十二分教と言う名前で呼ばれ、仏教の抽象的な理論の部分に相当するけれども、本当の意味での三乗十二分教は、現実に対する説明であって、それは単なる抽象的な説明以上のものである。この三乗十二分教と言う言葉は、抽象的な理論であると同時に、抽象的な理論以上のものであるという二つの意味を兼ねて三乗十二分教と言われているのである。そして、その三乗十二分教には非常に沢山の内容があるけれども、そのほんの一部分を挙げるならば、次に述べるようなものもその一つに該当する。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                          --つづき

先生
それはね、絵空事というのはいくらもあるんです。文章で書かれた事、画で書かれた事、これは世界の中にいくらもあるんです。だから三乗十二分教というお経の経典がいっぱいあるのと同じこと。ただたった一人の人の坐禅とどっちが価値があるかと言えば、たった一人の人の坐禅と「大蔵経」全部とが同じだともいえるし、たった一人の坐禅の方がはるかに大事だという事も言えるわけ。

様々のスポ-ツ新聞が出たり、劇画が出たりして、印刷費を使ったり、紙を使ったりして大騒ぎしていますけどね、あんなことは何でもない事、どうでもない、大した価値のないことにみんな一所懸命になっているだけの事です。そんなことに本当に時間を使っていいのかどうかというのが、人生問題の一つの非常に大きな問題ですよ。

出版社の方では「こういうのを作ると儲かるから」というんでやってるんだろうけれどもね。それでまた「面白そうだ」という事でみんなお金を払ってそういうものを買って読んでるんだろうと思うけどね。絵空事ってのはどうにでもなること。それで人生ってのは絵空事じゃないですよ。刀で切れば血が出るようなものが、我々の実人生ですよ。それはもう絵にかいたり文章にして「えへらえへら」とやってるようなことと訳が違う。

質問
もちろん恋愛の中にも坐禅がございましょうね。

先生
う-ん・・・。

質問
どうでしょうか。

先生
いや、それはどういう意味かよくわからんけど(笑)。

質問
まあバランスですね。適当にやるってことですね。

先生
適当にやるってことじゃないね。(一段と声高に)人生ってのは適当になんかやれませんよ。何でもかんでも詰めて行って、徹底的に詰めていかなければ本当のものは出てきません。だから適当にやるという人生の生き方からしたら仏道は決してわからない。これははっきり言える。適当な生き方をする人に仏道の理解できた験しがない。

質問
いや、私の言うのは、中道を行くという事です。

先生
うん。だからそういう点では、中道を行くという事は、あっちへぶつかり、こっちへぶつかり「やっぱり真ん中しか行く道がないんだ」という事がわかって、中道という事に対しる信仰が生まれてくるんですよ。はじめから「適当に、適当に」ということで、詰めてやるという事が無かったら、仏道というものは決してつかまるもんではないと。そういうことは言えると思いますね。

だから仏道修行というのは、決して妥協の道じゃないですよ。もう血みどろの戦いですよ、仏道修行というのは。ただ坐禅という基準があるから、破滅の状態にいかないという事はあります。坐禅ということがあるから初めて、徹底した生き方をしても、おかしなところに行かないというだけの問題。そういう点では、真実を詰めるという事は、適当にとまる、妥協するという事ではなくて、もう徹底的に自分の良心に従って生きるという事でしかないわけですよ。

質問
その良心も問題でありますね。その時によって。

先生
そう、だからその点では良心というのは、一番最初の段階で良心というものが出てくるわけです。仏道修行の一番最初の段階では、菩提心(真理探究の心)、道心というものが出てくるわけです。

質問
ありがとうございました。


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正法眼蔵 仏教 13

そしてこの僧侶の質問に対して玄沙師備禅師禅師が言う、「三乗十二分教と言う仏教哲学や仏教経典による教えはすべて必要がないと言う事が、達磨大師が遥々とインドから中国に渡られて来られたご趣旨である」と。

この玄沙師備禅師の言葉というものは、まさに仏道の真実を説かれた言葉である。この様な釈尊の教えの真実を述べられた場面において、本当の意味の釈尊の教えが厳然として存在すると言う事を学ぶべきである。玄沙師備禅師の言われた主張は、三乗十二分教と言う言葉で表されるところの仏教に関する抽象的な教えというものは、まさに釈尊ご自身の教えである。

その様な真実の教えは、釈尊や達磨大師がおられた時点、おられた場所において説かれた教えであると同時に、まだ釈尊や達磨大師がおられなかった時代、おられなかった場所においても、生き生きとして活動していたところの真実である。その点では、達磨大師が中国に来られた以前にも行われていた教えであるし、達磨大師が中国に来られて以後も行われた教えという事に他ならない。

そしてさらに、この三乗十二分教を通して釈尊ご自身の教えが説かれ、達磨大師の教えも説かれると言う性質をこの三乗十二分教は持っている。しかも、達磨大師がインドから遥々と中国に渡られた、まさにその瞬間においては、三乗十二分教の教えも現実のものとして、達磨大師の人格として、海を渡って中国に行かれた苦心そのものとして厳然と存在していたのであるから、その意味においては、その上に重ねて三乗十二分教という抽象的な教えを必要としなかったという事にすぎない。いい換えるならば、達磨大師がはるかインドから中国に渡られたという事実そのものが三乗十二分教に他ならない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
男女の関係ですね、セックスでもいいでしょう。これは人間にとって非常に大きいものであり、あまり道元禅師はこういうことについては、まあ独身ですから触れていらっしゃらないけれども、先生はどうお考えになりますか。

先生
私は大事な問題だとは思わないね。誰でもやることだし、誰でもできることだし(笑)、そう重大問題ではないと思う。

質問
私、なぜこういう事を質問申し上げるかというと、この間NHK だと思いますが、茅誠司(物理学者。第17代東京大学総長) という立派な学識経験者が、自分は研究熱心、コイル百五十回かなんか巻くことが非常に楽しみであり、そういう仕事と男女の道、これはもうやめるわけにはいかんというようなことをおっしゃっていました。これは聞き捨てならざる言葉でありましてね。先生は「誰にもできる」とおっしゃったけれども、これは人間として非常に大きな問題じゃないかと思うんですね。そのために命を捨てる者もあるかもしれませんしねえ。

先生
私はあんまり大きな問題だと思わないな。それはもう「やりたい方はどうぞご自由に」というようなことでね。茅さんがそういうことを言ったんなら、「まあ大変結構なことで。どうぞ」という事でしかないですよ。「ああ、さすが大学者だから違ったもんだ」とは感じないし(笑)、そうかといってそういう意見を持ってたから大学者になれたとも思えないし。

質問
でも、もののわかった方でありますから、非常に大きく、大事に考えていらっしゃったことは事実だと思いますね。

先生
だから、そういう考え方で生きてこられたという事は、一向に差し支えのないことですけどね。仏教を知らなかったという事は言えると思いますよ。

質問
じゃ、まあ避けて通った方が…タブ―だな、これは一つの。

先生
(声を高くして)いや、それはタブ―じゃないです。真正面からぶつかるべき問題です。決して避けるべき問題じゃない。避けて通れるもんでないですよ。その点が人生問題で非常に大切なところ。

質問
だと思ますねえ。

先生
人生問題ってのは、避けて通れる問題ってのは一つもないですよ。決して逃げられないもんです。

質問
しかし先生、仏教書と同じくらい、こういう男女の問題、あるいは恋愛でもいいでしょうが、文学、芸術、そりゃもう比べものにならないぐらい大きい比重を占めてあるわけですよね。これを「正法眼蔵」的に行くならば、どういう事になりましょうかね。

                     つづく--


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正法眼蔵 仏教 12

玄沙師備禅師にある僧侶が質問した。「三乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)という形で説かれた仏教哲学や、十二分教(十二種類の形で仏教経典の中に説かれている抽象的な教え)は別に伺わなくて結構ですが、達磨大師が遥々とインドから中国に渡られて来た、そのご趣旨というものはどう言うものでありましょうか。玄沙師備禅師答えて言う。「三乗、十二分教と言う仏教哲学や仏教経典による教えは、すべて必要がないと言う事が達磨大師のインドから中国に渡られた際のご趣旨である」

この問答について、道元禅師が注釈されます。
ここに言う僧侶の質問は世間一般で理解されている様に、三乗十二分教と言う仏教哲学や仏教経典によって表わされる思想というものは、様々な個別的な場面における甚だ枝葉末節な問題である。その様な抽象的な教え以外に、達磨大師が遥々とインドから中国に来られた大切なご意向があるであろうという想定のもとに質問したものである。

この僧侶は三乗十二分教という抽象的な仏教哲学が、実は達磨大師が遥々インドから中国に渡られたご意向と全く同じものであるという事がわかっていたわけではなく、まして釈尊以来ほとんど無数と言われるような形で、八万四千にも及ぶような様々の教えとして説かれてきた仏教が、達磨大師がインドから遥々中国に渡られたご趣旨と全く同じものであるという事を承知していたのであろうか。

そこでこの問答についてとりあえず検討してみよう。三乗十二分教という言葉によって表されるところの仏教の抽象的な教えというものが、どうして必要がないというふうに言っているのであろうか。そしてまた、三乗十二分教と言う教えが必要であるとするならば、その時にはどの様な基準に従って必要性が出てくると言うのであろうか。

この質問の趣旨からいうならば、三乗十二分教の仏教哲学は要らないという場面において初めて、達磨大師が遥々とインドから中国に渡られたご趣旨というものが、初めて現実の問題として勉強できると言うのであろうか。この僧侶のこの質問が、何の根拠もなしに出てきたという事ではないであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                           --つづき

質問 
これを四諦論的に解説を試みるなら、どんなことになりましょうか。

先生 
だからその点では、白紙で生きるという事、これが最高の哲学ですよ。思惑を持たないで生きるという事が。与えられた瞬間に一所懸命に全力を投入するという事だね。

質問
しかし、その瞬間瞬間に○○○事件の彼らも、まあとにかく思惑かなんか知りませんけれども、最善を尽くしてやってきたに違いないですね、それは。

先生
うん。

質問
いまこうなってみたから・・・。

先生
そう。だからそうすると、基準になってた哲学に間違いがあったという事ですよ。札束で人の顔をひっぱたけば何でもできると思ったところに間違いがあるんですよ。そういう思想はあの人たちだけじゃないですよ。世の中にはいっぱいあるんだから。だからそういう思想がこの世の中を暗くもしてるんですよ。だからそういう点では、真実は何かという事をつかんで、どう生きるかという事が我々の最大の課題ですよ。札束だけで世の中が全部動くんであれば、我々は人生問題に苦労する必要はないんですよ。

で、結果が出るまではみんな気がつかないわけです。そうすると、ああいう流れについていかないと出世の妨げになるというような考え方がいっぱいあるわけです。そうすると「私もお手伝いします」「私もお手伝いします」「絶対に秘密は守ります」というような忠臣がいっぱい出るわけですよ。それで忠臣同士で寄り集まって、何らかの仕事をやったかなと思っているとひっくり返るんです。だから世の中の因果関係の仕組みというのは実に微妙なもの。最近の新聞にいろいろ出てきている問題っていうのはみんなそうですよ。(笑)


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正法眼蔵 仏教 11

巴陵顕鑒禅師にあるとき僧が質問した。「インドから遥々と中国に来られて、坐禅の修行を伝えられた達磨大師の教えというものと、それ以前に経典の形で中国に伝えられた仏教の思想的な内容とは同じものでありましょうか、別のものでありましょうか」と。この質問に巴陵顕鑒禅師答えて言う「鶏は寒いと寒さをしのぐために木の登り、鴨は寒いと水の中に潜り込んで寒さをしのぐ」と

この問答について道元禅師が注釈されます。
この言葉を勉強して、釈尊の教えの中における仏道の先輩方に直接お会いして、釈尊の教えの中における理論というものを見たり聞いたりすべきである。今ここで達磨大師の考えと経典の示している考え方とを質問しているけれども、そのことは別の言葉を使っていうならば、「達磨大師の教え、達磨大師の考え方というものは、一つなのか、二つなのか」と言う質問でもある。それは達磨大師が仏道を坐禅を通して中国に伝えられたわけであるけれども、それ以外に釈尊の教えと言うものがあり得るのかどうかと言う質問でもある。

僧の質問に対して、巴陵顕鑒禅師は「鶏は寒いと寒さをしのぐために木の登り、鴨は寒いと水の中に潜り込んで寒さをしのぐ」と言われたけれども、その言葉の意味は、達磨大師の考えと、経典に表現されたところの仏教思想とを比較して、同一だ、同一ではないという見方をする人々の見たり聞いたりしたところとまったく同じ意味で言っているわけではない。

以上述べた事をもう一度言葉に換えて説明するならば、達磨大師の考えと、仏教経典にある思想とが同じか違うかと言う問題は、本来、論議すべき問題ではありえないのである。なぜかというならば、仏道、仏教の本源は釈尊ご自身でしかない。その思想が、文字の形になった経典と、その修行法の中心である坐禅をインドから中国に伝えられた達磨大師の思想との間には、決して隔たりのあるはずがない。

長い時間を通過した間に、同じだとか違うとかと言う論議が出て来たけれども、本来は、同じだとか違うとかという問題ではなしに、まったく一つのものでしかないと言うのが実情であるから、本来同一であるものの現れ方がどうであろうかという問題に他ならない。
そこで僧侶の質問に対しての巴陵顕鑒禅師の答えは、本来、同じだとか別だとかと言う質問さえすべきではないと言う意味で「鶏は寒いと寒さをしのぐ為に木の上に上っていくし、鴨は寒いと水の中にもぐり込んで寒さをしのぐ」と言う返事をされたのであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はよく一所懸命やるってことを、無造作といっちゃおかしいけれども、しょっちゅうおっしゃいますが、一所懸命じゃないものがあるんでございましょうか。

先生
う-ん・・・。

質問
そりゃ坐禅をすることを一所懸命やれっていうんなら、わかりますけれども・・・。最近の事件で、例の○○○ですね、あそこの某という参与が飛び込み自殺したと。こういう事件は・・・。これだって一所懸命やったんでございましょうね。(笑)

先生
う-ん、ただね、ああいう事件が起こるについては、下心があるね。一所懸命じゃないですよ。

質問
(笑いながら)そうですか。

先生
うん。結果は惨めな形になったかも知らんけど、ああいう結果が出てくる前の行動というのは、下心があって、二心も、三心もあって、あれこれと仕組んでやったことですよ。その結果がおかしな結果が出てきたにすぎないんですよ。だからそういう点ではあの○○さんだけではなしに、前の社長さんにしても、それから社長室長さんにしても、それなりに思惑があってやったことですよ。だから思惑があって、いろいろと仕組んでやることの危険さっていうものが、ああいう事件の中には非常にはっきり出てくるんですよね。

質問
思惑はいけませんか。

先生
うん。ああいう形で、客観情勢というものを甘く見て、「この位の事ならやれそうだ」という事でやった場合には、必ずまずい結果が出てきますね。

              つづく--


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正法眼蔵 仏教 10

この様な理由から、昔から今に至るまで、釈尊の説かれた教えにおける真実を学ぶ人々は、いずれも今まで行われてきたところの様々の仏教に関する教えというものの、どれが正しくどれが間違っているかを選択して判断するには、例外なしに釈尊並びに釈尊と同じ様に真実を得られた方々に学んでいるのである。その判断と言うものを他の人々に問うという事はない。

したがって、釈尊なり釈尊と同じ境地に達せられた方々の正しい判断というものをまだ得ていない場合には、いまだ仏教上正しい判断を得たと言う事にならない。そこで、自分たちが根拠にしている教えと言うものが正しいか正しくないかを決めようと思うならば、その基準を釈尊並びにその系統を引き継いだ方々に求めるべきである。なぜならば、尊釈の説かれたところの教えの一切における本源的な主人は疑いもなく釈尊ご自身であるから。

仏教においては、(存在する)(存在しない)(存在しているとも、存在していないとも言い切れない)(現実に存在する物質)と言うふうな様々な言葉があるけれども、この様な言葉のいずれも、釈尊ご自身並びにそれと同じ境地に達した方々だけがこれをはっきりと理解され、正しく伝承して来て、その結果、過去における真実を得られた人となり、また現在において真実を得られた人となり得ているのである。

したがって、この様な仏教上の問題にしても、その基準というものは釈尊ご自身並びにそれと同じ境地に達した方々の判断に従って考えていくべきである。



               ―西嶋先生の話―

私は若い頃、仏教と言うものを考えた場合に、仏教も一つの宗教であるから「勉強したいと思う人が、勉強すればいいんだ」とそう言うふうに思っていたわけです。それから坐禅も「やってみようと言う気を起こした人だけがやればいいんだ」と考えておりましたが、最近どうもそういう考え方ではなくなって来たと言う問題があります。
  
それはどう言う事かと言うと、どうも人間として生まれた以上、仏教と言うものを勉強しないと「なぜ生きているのか」と言う問題がよくわからない。そして「なぜ生きているのか」と言う人生の意味がよく分らないという問題がどうもある様な気がします。また、坐禅をやる事によってやっと人間並みになれる。だから人間並みの生活をするためには「どうしても坐禅をやらなきゃならん」という気がするわけです。

こう言う事を言うと、この世の中には坐禅をやらない人も沢山いる。坐禅をやっている人と坐禅をやっていない人との人数を比べると、やっていない人の方がはるかに多い。そう言う人たちも、やっぱり人間として立派に生きているじゃないか、と言う疑問がわくわけですが、坐禅をやらないで本当の人間らしい生き方が出来るかと言うと、どうも私は疑問のような気がする。自分自身の事を振り返ってみると、やっぱり朝晩坐禅をやっているお陰で、まあ人間らしい生活が出来ているという事があるんじゃないか。

私がもし毎日坐禅をやる事をやめてしまったならば、西嶋と言う電車はどこへ走って行くか分らない。西島と言う車はどこへ走っていくか分らない。どんなところへ行って、溝に落ちるか、コンクリ-トの壁にぶつかるか、どういう事が起きるかというような事がまったく想像つかない。

朝晩坐禅をやっているから、まあまあ「こうしなきゃならん、ああしなきゃならん」と言う事が多少見えてくるだけのもの。そうすると人間と言うのは、非常に危なっかしいもの。その危なっかしい人間を、何とか間違いを起こさずに運転していけるのは全く坐禅のお陰だ。だから、私から坐禅をはずしてしまうと何も残らない。そう言う気がする訳です。

※私の独り言。
坐禅を始めたのは50歳になる頃、それまでは六道輪廻という六つの境涯を行ったり来たり。「坐禅は、何のためにするかと言うと、六道輪廻から抜け出すためです」という西嶋先生の話を聞き、とにかく坐りました。そして今、人間らしい生活を何とかやっていけるのは、坐禅のお陰だと・・・。これからも坐禅を頼りに暮らします。

六道輪廻(私たち普通の人間が日常生活の中で次々に経ていく境涯)
1・地獄(思い通りにならないという事で苦しんでいる状態)2・餓鬼(あれも欲しいこれが欲しいという事で、いつも欲望に悩まされて焦っている状態)3・畜生(自分の欲しいものを何とかして得ようと、はたの迷惑も構わず人を傷つけることも自分を傷つける事も構わずに、とにかく欲望を達成しようと恥も外聞もなく欲しいものを得ようとする状態)4・阿修羅(畜生の状態が高じて気持ちが荒れて暴れまわる状態)5・人間(暴れまわると、エネルギ-が発散されて少しは人並みになってくる状態)6・天上(人並みになると人間はすぐ自惚れて自分は神様だと思う)

※自惚れが原因でまた地獄に逆戻りするという、六つ境涯を日常生活の中で繰り返していく。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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