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正法眼蔵 神通 18

雲巌曇晟禅師と洞山良价禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この雲巌曇晟禅師と洞山良价禅師との間で行われた問答のように、日常生活の動作をいかにするかという問題でしかないのであるから、やたらに外道(仏教を信じない人々)や、二乗(仏教を頭だけで、感覚だけで勉強する人々)と同じだというふうに考えてはならない。釈尊の説かれた教えの中には、我々の体のあらゆる部分にわたって様々な神秘的な変化があり神秘的な働きというものがあるのである。この宇宙というものは、一僧侶の真の実体と少しも本質的には違っているものではない。

古代インドにおいて想像されていたところの須弥山、それを取り巻いている九つの山も八つの海も、真の実在の世界も、智慧の世界も、宇宙の全てというものが、その体のあらゆる部分から様々の不思議な働きを現すという性質を具えている。また宇宙の実態だけではなしに、それ以外の様々な存在というものも、やはり不思議な働きをするものである。法華経の中で体から水や火を出したという例が説かれている。そのような別の働きも行われるのである。

水を出すとか、火を出すとか、風を出すとかという単純な問題だけではなく、我々が何をやるかによって仏にもすぐなれる。我々が一所懸命働いているならば、実在の世界を我々が出現させることもできるし、実在の世界が我々を吸収することもできる。仏道修行の結果、我々自身と宇宙とが全く一つのものになってしまうと、我々自身と宇宙とは少しも違いがないのであるから、我々自身が世界というものを七つ八つと幾つでも吐き出すことができるような境地にも到達するし、世界を二つ三つと幾つも飲み込んでしまうほど大きな人間にもなり得る。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
禅宗のお坊さん、よくお酒を飲まれる様ですが・・・。どうなんでしょうか。

先生
仏道の衰えた結果ですよ。私は仏教僧は酒を飲むべきではないと思う。酒に頼って仏道修行なんてありえない。だから今、寺院の僧侶が酒を飲むって言うのは、仏道がいかに衰えてるかと言う事の証拠だと思いますよ。

質問
先生のお話を伺ってますと、仏道の真髄は坐禅によって心眼が開かれると。私は仏教はよくわからないんですけれども、親鸞とか日蓮とかああ言う人達は恐らく坐禅をしなかったのではないかと・・・。そうすると、あの人達の仏教と言うのはどうなっているんですか。

先生
まあ私は親鸞上人の本をそう深く読んだわけではなし、日蓮上人の本もそう深く読んだわけではなし、それから念仏もやった事がないし、お題目を唱えるという事もやった事がない。だから経験した事のないものについては、私自身は発言できないという大前提があるわけですよね。だからそういう大前提を置いた上で想像で言うならば(笑)、正統の仏道ではないと言える。

私が「正法眼蔵」を読んだ限りにおいては、仏教思想と言うものは明確な一つの思想体系です。それは釈尊も説かれたし、龍樹尊者も説かれたし、達磨大師も説かれたし、道元禅師も説かれたたった一つの思想体系がはっきりあると言う事です。それから外れたものは仏道ではないし、仏教ではないと言うのが私の見方です。ですからあれも仏教、これも仏教と言うふうな理解は私はとれない。


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正法眼蔵 神通 17

洞山良价禅師がかって雲巌曇晟禅師のところで勉強していた時に、師匠の雲巌曇晟禅師が洞山良价禅師に質問した。

雲巌禅師問う。一体、良价、お前の神秘的な働き、すばらしい効用というものはどんなものか見せてみろ。
その時、洞山禅師は叉手をして進み、雲巌禅師の前に立った。

そこでさらに雲巌禅師問う。  
さらにその上の神秘的な働き、すばらしい効用とは、一体どんなものか。
洞山禅師は丁寧にお辞儀をして出て行った。

※叉手とは、左手の親指を中にして拳をつくり胸の前にあてて、その上に右手をかぶせる。仏教寺院では普段手をブラブラ下げて歩かない。

雲巌曇晟禅師と洞山良价禅師の問答について道元禅師が注釈されます。
この説話は神通(神秘的な働き)と言う言葉を聞いて、その趣旨をすぐに理解したと言う状況がありありと見える。神通というものの実態がまさに目の前にあって、師匠と弟子とのやりとりは箱と蓋がピッタリと合わさる様な関係である。師匠と弟子の両方が仏道の理論を十分に理解していたから、質問と答えとがまさにピッタリと適合していた。

ここではっきりと承知しておかなければならないことは、仏教においては昔から神通効用(神秘的な働き、素晴らしい効用)というものが言い伝えられているけれども、それは時代がいかに進もうとも、次から次へと、師匠から弟子へ、師匠から弟子へと引き継がれていくものであろう、そしてそれは決してなくならないものである。仏教界の諸先輩方がいずれも、この神通効用について検討を重ね問答されているのであって、時代が進もうと、過去にさかのぼろうと決して変化のあるものではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
超心理学という学問がアメリカあたりでは体系づけられてますな。そういう時代になってきておりますので、道元禅師の時代からはよほどそういった方は研究されて来ています。この超心理学の問題はこれから大きなテ-マだと私は思うんですが。幾多の本がありますよ。私だって百冊ぐらいあります。我々の普通の耳では聞こえないものを聞く、あるいは動物の言語を解するというような…。ですから、これは謙虚に敬虔な気持ちで、まあそういう超能力はあってもいいと思ってて、私はいいと思うんだなあ。

先生
私は、道元禅師がこの「神通」の巻を書かれたのは、そういういわゆる超能力の世界はないんだという事を、はっきり言いたいために書かれたんだと思います。世間のものの考え方として、そういうものを漠然と信じるか、絶対に信じないかという考え方の違いがあるわけですけどね。私は絶対に信じない。そういうものは絶対に信じない。神秘的なそういう特殊な能力というのは絶対信じない。仏道修行はそのためにやった。仏道というのはそのためにあるんですよ。

そういう因果関係(原因と結果)を外れたところで様々の空想というものが人間をいかに不幸にするかという事、それが釈尊の教えですよ。そういう不確かなものを基礎にして人生問題を考えれば、人生というもの自体を不幸にするんですよ。だから釈尊は「そういうものはないぞ」と言われたんだね。人間を幸福にするためには、そういううわついた思想、うわついた考え方というものを捨てなきゃならん。そういうものを否定しなきゃならんという事が、釈尊の教えの基礎にあります。そういう点では、仏道の立場から見るならば、そういうものは肯定するわけにはいかないというのが、非常ににはっきりした立場だと思います。

質問
ま、おいおいわかるでございましょう(笑い)。この話は打ち切りましょう。


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正法眼蔵 神通 16

龐居士蘊公の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

過去において沢山の方々が仏道修行をして釈尊の説かれた真実を得られたけれども、それらの方々は、いずれも一所懸命日常生活の仕事を積み重ねて生きてこられたればこそ、釈尊の教えの真実に到達されたのである。したがって小乗的な仏教徒の行う体から水を出すというような動作が、たとえ小乗的な立場からの神通(神秘的な働き)であったとしても、運水(水を運ぶ)というような日常の動作こそ、大神通――偉大な神秘的な働きであるという事を学ばなければならない。

日常生活において必要な運水(水を運ぶ)、搬柴(燃料に必要な柴を運ぶ)という仕事というものは、たとえ時代がどう変わろうとも、人間である以上そういう仕事をほっておくわけにはいかない。したがって、その様な日常生活の大切な行いと言うものは、昔から今に至るまで何らかの形で常に続いてきたところのものである。

いかに時代が変わろうとも、次から次へと様々なやり方で行われて来たところのものが、運水とか搬柴と言われる様な日常生活に欠く事のできない営みであって、ほんの一瞬の間といえども、日常生活の大切な行いと言うものは、なくなったり変化したりする事のなかったものが、この神通(神秘的な働き)と言われ、また素晴しい効用と言われるところの動作である。

このような日常生活において、どうしても必要な営みと言うものは大神通(非常に大きな神秘的な働き)である。小乗的な仏教徒が主張するようないわゆる超能力に類するような働きというものとその価値においては比べものにならない。
  
※西嶋先生解説
この様に道元禅師は仏教における神通とは、日常生活において欠くことの出来ない動作を一所懸命やる事だ、と言われておるわけであります。ところが普通はこう考えない。ここでは非常に大切だと思われることを、非常につまらんことだという風に考える。たとえば、大学の先生になって途轍もなく難しい学問をする事だけが大切であって、日常生活の水をくんだり、柴を運んだりというのは、ごくつまらん仕事でやってもやらなくてもいい仕事だという風に大抵は考えている。

あるいは、大芸術家になって一枚が一億も二億もする高価な絵を描く事が非常に意味のある事であって、日常生活において顔を洗ったり、ご飯を食べたりというのはつまらんことで、やらないで済ませることができればやらない方がいいんだという風に考えている場合が多い。

ところが、仏教ではそういうことを考えない。仏教と言うのは現実的な教えだから、人間がどんな事をしなければ生きていけないかと言う事をよく承知している。そうすると、朝、顔を洗ったり、ご飯を食べたり、手洗いに行ったり、会社に行って働いたりというようなことが人間の最大の仕事だ、それが神通だ、それが神秘的な働きだと、そういうふうに言われておるわけであります。その点では、我々が社会生活において色んな仕事をするという風なことも、非常に大切な意味を持つ。それ以外に我々の人生はないという事がはっきり言えるわけです。

ところが「どうも仕事がマンネリでつまらない。もっと面白いことがありはしないかなあ」というようなことを年中考えながら、毎日の生活は「面白くない、面白くない」「退屈だ、退屈だ」と思いながら生きている人というのがわりあい多い。

ただ我々の人生というのは、我々に与えられた朝から晩までの生活以外にない。頭の中で、ああしたい、こうしたいと考えても、結局我々の人生というのは、朝起きてから夜寝るまで、目先の仕事を一所懸命にやる以外に人生はないという事。そういう生活をどう生きるかという事が、我々の人生の非常に大切な部分だという事を、ここでも言われておるわけであります。


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正法眼蔵 神通 15

龐居士蘊公の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

人によっては、日常生活のために水を運ぶ事が神通(神秘的な働き)だと気がつかない場合があるけれども、仏教でいう「神通」とは、水を運ぶというような卑近な日常の動作であり、どんな時代が来てもそのことがなくなるはずがない。また燃料に必要なたきぎを運ぶ事も同じである。たとえば、中国の第六番目の指導者である大鑑慧能禅師が僧侶になる前は木こりとして薪を集めて商売にしていたような情態である。
  
我々が、朝行う様々な行動も神通に他ならない。また、夕方行う様々な行動も神通に他ならない。我々はそれらの行いが、神通だと言う事に普通気がつかない。気がつこうが、気がつくまいがに関らず、それらの日常の明け暮れの様々な仕事と言うものが全て神秘的な働き「神通」である。

この様な形で、我々の日常生活におけるごくありふれた行動と言うものが、実は神通であり素晴らしい効用をそなえたものである。真実を得られた方々の持っておられる神秘的な働き「神通」は、優れた効用と言うものであると言う事を見たり聞いたりする人は、例外なしに釈尊の説かれた真実と言うものを自分のものにする事が出来るであろう。

※西嶋先生解説
だから仏道の真実というのは決して、本をたくさん読んだら難しい理論がわかって、何でもかんでもわかるようになるというふうな、そういう単純なことではない。我々の日常生活における個々の動作というものが、いかに尊い意味を持っているかがわかってくるかどうかという事が、仏道がわかって来るかどうかという事の分かれ目になる。そういう事がわって来た場合に、必ず釈尊の説かれた教えの実態がわかるであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
この六神通というのをずっと拝見してると、坐禅を長くおやりになってた先生とかいう方は、だいたい六神通を全部お持ちになってる…。

先生
いやあ、そうはいかないと思うねえ。いわゆる勘がよくなるというようなことはあると思ますけど。

質問
たとえば、普通の人はわりに法ってのはわからない、見えないですね。先生の場合、法というのを体得されてるっていえば、人の見えないものが見えるとか・・・。

先生
だからそういう点では、むしろ道元禅師は、そういう法というふうなものの認識は、日常生活で水を運んだり、柴を運んだりという働きの中に、法そのものがあるんだと、そういう考え方ですよ。それがまさに実感だと思うんです。だから私も、日常生活をとにかく生きているから、否応なしに法にぶつかるという風なことであると思うんですよ。

だから日常生活を離れて法なんてものはあり得ない。だから部屋に閉じこもって、お経を傍らにうずたかく積んで、片っ端から読んでみても、法なんてものはあり得ない。むしろ日常生活であっちへぶつかり、こっちへぶつかり「俺はどうしてこうバカなんだろう」というふうに悩みに悩むところに、法というものに触れるという点があると思います。

質問
どれを称して超能力というのかわからんけれども、超能力はありますな、たとえば、明恵上人なんていう方は、鳥の声なんかよく解したそうです。この辺は先生、どういうふうにお考えになるかな。

先生
そういう人もいたかもしれないけれども、今日一日一所懸命自分の仕事をやっている人の方がなお偉いと思うね。そういうもんだと思いますよ。自分の与えられた仕事を夢中になってやってる人以上に偉い存在というのはあり得ない。だからそういう点で、自分の仕事、自分のやるべきこと、日常生活に打ち込んでいる人が仏であって、神通仏であってそれ以上の能力があるないという事はどうでもいいことだ


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正法眼蔵 神通 14

龐居士蘊公の言葉について道元禅師が注釈されます。

この龐居士蘊公が言われた基本的な理論というものは十分に勉強してみる必要がある。ここで龐居士蘊公が「運水」と言う言葉を使っておられるけれども、その意味は水を運んでくると言う意味である。自分自身で水を運ぶ場合もあれば、人にその水を運ばせると言う事もある。いずれにしても、水を運んでこなければ我々の日常生活そのものが成り立たない。

仏道修行を積むと神通(神秘的な働き)が具わると言われているけれども、結局我々の日常生活において必要な仕事を一所懸命にやるという事が神通仏(神秘的な働きを具えた仏)というものの姿である。この様な理論というものをわかる場合もあれば、わからな場合もあるけれども、これらの水を運ぶという仕事が非常に神秘的な人間の貴重な働きであるという事には変わりがない。

その様な日常生活における動作が仏教にいう神通であると言う事は、人によってはそのことを承知していない場合もある。しかし、人がその事を承知していないからと言って、神通であると言う事実がなくなるわけではない。人は知られども法は法爾なり(法は人が知ろうと知るまいと事実というものは厳然として存在する)。

※西嶋先生解説 
この辺が仏教という思想の非常に大切なところである。我々は普通、人間の頭の中で考えられた事が実際にある事だというふうに考えがちであります。だから「偉い人」とか「偉くない人」とかというふうに頭で考えると、偉い人というものがあり、偉くない人があるというふうに理解して日常生活を送っていくわけでありますが、実態的に、現実的にものを考えるならば、Aの人があり、Bの人があり、Cの人があると言う実態があるだけに過ぎない。

人間が勝手に「偉い」とか「偉くない」と言うふうにレッテルを張って区別しているだけの事であって、本当に偉いか偉くないかは人様々。ただAの人間があり、Bの人間があり、Cの人がおるというふうな、実態がどうなっているかと言う事は、人間がどう思うかとは別に厳然として存在する。その事を「法」と言う。そういうふうな「法」が実際にあると言う事が法爾という言葉の意味です。




              ―西嶋先生の話―
                         --つづき

坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしている事がかなり大事な問題になるわけです。腰骨と言うのは人間の体の重心。だから腰骨が正しくなっているという事、背骨も正しくなっているし、首の骨も正しくなっているし、体が左右に傾いていないという事にも繋がる訳です。腰骨の状態を正しく保つ事が、体全体が健康になるという事と関係ある訳です。そして自分が健康であるという事と、仏道がわかるという事とは同じ事
 
仏教以外の宗教では、宗教と言うのは大体心の問題だ、魂の問題だと言う。だから体が少しぐらいおかしくっても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方がある訳です。しかし仏教ではそんな事は言わない。人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけです。だからそういう点では仏道の真実を何によって得るかと言うと、一面から言うならば体で把むと言う事がある訳です。

坐禅をやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行だ、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけです。道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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